朝の礼拝:信仰から出ていないことは、みな罪です。 | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of Marco Verch

 

 

主イエスと食事をする教会では、毎朝5分程度、その日の聖句を読んで、簡単に解説を加え、その上で、大祭司であられる主イエス・キリストを通じて、天の父を礼拝するという、霊とまことによる礼拝(ヨハネ4:23-24)を行なっています。

今日取り上げる聖句は、
しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。
ローマ14:23

キリスト信徒は、常に、選択を迫られます。右に行くべきか、左に行くべきか。
明示的に、右に決まっているという場合は良いですが、そうでなく、迷いがある場合にどうするか?

聖書では、二つの選択肢がある時、呪いではなく、祝福を選びなさいと教えています。

私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、
あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。

申命記30:19-20

右に行くべきか左に行くべきか、迷いがある時、そこを信仰によって選び取ります。

信仰によって、命である右の道を、祝福である右の道を選ぶのです。
信仰によって、その選択をします。

 

旧約聖書のヘブライ語でも、新約聖書のギリシャ語でも「罪」の原義は、「的から外れていること」。つまり、神である天の父から見て、イコール、イスラエルの神から見て、外れていることです。

従って、すべての”神々”の道、すべての”諸仏”の道、すべてのスピリチュアルの道は、イスラエルの神から見れば「罪」です。外れています。

 

それらの道は聖書が教える信仰に基づくものではありません。