Courtesy of Pedro Szekely
ほとんどのキリスト教会では、「祈りがかなえられない」という課題を抱えています。
ヨハネ14章〜16章の主イエス・キリストの教えに基づいて「イエスの名」によって祈っても、何も起こりません。
癒すことのできない不信仰が覆っており、その根源は、父と子と聖霊とが三つにして一つという、人がこしらえた”神”を神として掲げている偶像崇拝から来ています。嘘の"神"を神としている限り、本当の信仰が天の父から与えれるはずがありません。
信仰は、神である天の父から与えられるものです。
頑張って何とかなるものではありません。
信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです。
ローマ10:17
また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
黙示録3:7
従って、嘘の"神"から抜け出さない限り、信仰は本当の神から与えられず、祈りはかなえられないままです。
キリストについてのみことばを、聞いても聞いても、嘘の"神"の下にいる限り、信仰は与えられないのです。信仰が育まれることはないのです。
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聖書を読む際に、プロテスタント的な要素をすべて剥ぎ取って、素の状態で、パウロの信仰を回復させるなら、イエス・キリストがパウロに教えたすべての事柄をはっきりと理解することができます。
プロテスタント的な要素をすべて剥ぎ取ってしまえば、ペテロの信仰を回復させることができます。
同じく、ヨハネの信仰を回復させることができます。ヤコブの信仰を回復させることができます。
これら書簡を残している4人の使徒の信仰を回復させることができれば、主イエス・キリストが彼らに教えていた事柄がはっきりと理解できます。
それは、驚くべき福音です。現代人なら腰が抜けるような福音です。
(腰が抜けるような「神に対する恐れ」については、こちらの投稿で先日書きました)
この福音が、長らく、この世の神によって封じられていました。
その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
第二コリント4:4
「この世の神」、つまり、イスラエルの神に反する者は、325年ニカイア公会議、381年コンスタンティノポリス公会議に集まった司教達(bishops)に影響を及ぼし、偽の"神"を編み出して、福音の光を覆いました。
500年前にマルチン・ルターが改革した中身も、聖書主義ではあったものの、三位一体の"神"を退けなかったがゆえに(聖書のどこにも書いていないにも関わらず)、別な偶像をこしらえてしまい、それが、すべてのプロテスタント教会を覆っています。
その偶像とは、「聖句を正確に引用するとイエス・キリストの救いが働く」と錯覚させる、ドイツ的な、何かです。
いったんこれに取り憑かれてしまうと、生ける神であるイスラエルの神がどこにいるのかわからなくなります。生ける神の御子とペテロが信仰告白した御子の本質についても、わからないまま教会生活が空転します。何十年キリスト教会に通っても、何も起こりません。生ける神がそこにいないからです。聖句が神であるのではないです。
神の言葉を預言者に書かせた「私は在る」という方こそが、神なのです。
その神に、御子イエスを通じて、近づくのです。
プロテスタントの要素をすべて剥ぎ取って、パウロの信仰を、ペテロの信仰を、ヨハネの信仰を、ヤコブの信仰を、聖書を素朴に読むことで回復させるなら、そこに、驚くべきことが書かれているということが、はっきりとわかります。