スタークラブの話題を引っ張り過ぎてしまったので話が前後してしまうが、今回は純粋に自分中心の「自分史」という事で(笑)
1982年の5月に豊島区西巣鴨(JR大塚駅界隈)のアパートから板橋区成増に引っ越しをする事になった。事の次第は以前にも触れたが、西巣鴨のアパートは高齢の大家さん夫婦が階下に住んでいて、大人数で知人を泊めて騒いだりすると翌日必ず大家さんの小言があり、いい加減面倒臭くなってきたからだ。いざ引っ越しするに当たって、当時は貧乏学生だったので敷金・礼金等出費がかさむ、不動産屋を当たる通常の賃貸アパートには中々手が出ない。そこで閃いたのが滅多に授業に顔を出さない大学の友人でOという人物がいたのだが、彼の住んでいる学生専用アパートが敷金・礼金等一切不要という、かなりユルイ条件で入居できるという話を聞き付けた。Oとは必修科目の語学と体育が一緒のクラスで学内には彼と共通の知人が多数いたのだが、不思議な事に入学以来殆ど授業に姿を見せず、一体何をしているのやら?と皆訝っていた。その名前と人となりは噂で知っていたのだが、実際に彼と会って話をしたのは確か一年次の夏休み明け(!)だったと記憶している。
余談だが、僕のいたクラスには長井千恵子さんという、現在はeha!という自身のバンドを率いて精力的にライヴ活動をし、またスタジオミュージシャンやライヴのサポートメンバーとしても幅広く活動している女性のギタリストがいた。彼女は学内でRFUという音楽サークルに所属していたのだが非常に勝ち気な性格で明るく朗らかで、クラスでも人気者だった。彼女は在学中は「TOFU-IMAGINATION」という学内のサークルバンドで活動していたのだが、卒業後「千年コメッツ」というギタリストの座に収まり、あのBOФWYと同じユイ音楽工房という大手事務所に所属していたが、解散後はピンでギタリストとして名を上げ、レベッカのNOKKOや永井真理子とコラボしたり、一青窈のレコーディングセッションやショーケンこと萩原健一のツアーメンバーに抜擢されたりと八面六臂の活躍をしている非凡な方だ。たまたま大学のクラスメイトにこんな人材がいたのもまた面白い話である。
話を戻すと件のOという人物は、イメージ的にクラス内ではこの長井さん等とは対極の立ち位置の「マイナー」な存在で、彼は所属していたサークルも心理学研究会という、いかにもな選択で他には学内の劇団サークルの音響スタッフをやっていた。彼の趣味もカルトなフランス映画を観たり、それこそ誰も知らないようなアンダーグラウンドなニューウェイブやテクノポップ(当時は未だ「テクノ」なるジャンルは存在しなかった)のレコードを集めたりする事で、かなりカルトなパーソナリティを持っている人物だった。実際に交流してみると気さくで面倒見がよく、成増方面で何かのコンパか飲み会の帰りだったか、友人数人と泊めてくれと連絡すると快諾し、突然の訪問にも食事や飲み物等、至れり尽くせりのもてなしをしてくれた。ただ後に述べるが彼の住んでいた学生アパートの印象は‥。訪問した際に友人達と「何で授業に出て来ないのか?」と問い質したのだが彼の返答は「うーむ、何となく行く気がしないんだよ。」と言うのみで何とも要領を得ないものだった。今で言えば大学生版「登校拒否症」(笑)だが、特に精神的に病んでいるような様子もなく、ごく普通に日常生活を送っていて時たま(出欠を取らない‥出ても出なくても良い)選択科目には顔を出すのに、(出欠を取る)必修の授業に限って出席しないという、実に厄介な性癖を持っていたようだ。彼がその学生アパートに入居したのは所属していた心理学研究会のKさんという先輩の紹介で、彼も入学時に入居したアパート(確か代沢だったか?)に住み辛くなり、一年次の夏に成増のアパートに引っ越してきたようだ。
引っ越すと心に決めた僕は4月の末にOに事情を話して引っ越したいとの旨伝えると、直ぐにそこの大家さんに連絡を取ってくれ、入居審査や手続きはOと同じ大学の学生なら学生証を見せるだけでOKだと言う。今では考えられないイージーな入居審査だった(笑)。 勿論敷金・礼金要らずで部屋代は一ヶ月\18,000という格安の条件だ。しかしその立地条件は東武東上線成増駅から徒歩15分で上り坂下り坂有りの(苦笑)寂漠とした神社の裏にあるという、これ又カルト物件だった。またトイレは共同で汲み取り式(笑)、間取りは六畳一間に(キッチンというより)洗面所付きで勿論風呂無し(最寄の銭湯まで徒歩5分ほど)、物件の全容は3部屋ある木造平屋建てが一棟、一階に2部屋の2階建て4部屋が一棟‥と書き連ねるていくとアパートというよりはまるで「長屋」といった風情だ。また夏になると敷地内にはナメクジが大発生し、それに負けじとナメクジの天敵マイマイカブリも大量に現れ、更に縁側の砂地にはアリジゴクが巣を作っている‥。こんな所に僕は固定電話を設置して「はい、CLUB THE STAR TOKYOです。」とかやっていたのだから今思うと大笑いである。
ここの大家さんは別棟に住んでいる一人暮らしの老婦人でこれ又面倒見の良い方だったが少し衰え気味で、入居者にとっくに賞味期限の切れた和菓子を差し入れてくれたり「有り難迷惑」なところもあった(笑)。また部屋代の徴収もユルユルで、この時点での入居者3名はいずれも部屋代未納額が数十万円に上っていた。件のOも入居時から2ヶ月分しか部屋代を納めていないらしく、僕が「それはマズイだろ。」と咎めるとケロリとして「そのうち戸塚も部屋代なんて払うのバカバカしくなるよ。」と宣う(笑)。ともかく4月末にこのカルト物件「羽田荘」に引っ越した訳だが、この時点ではこの後このアパートの存在が日本の文化?の進歩・発展(笑)に一部貢献するとは誰も想像だにしていなかった。
この頃、僕は大学内で「レタリング研究会」という渋めのサークルに入部した。何故レタリング研究会に?というと、この頃やっていたザ・フールズやじゅがたらといったバンドのブッキングやスタークラブの東京スタッフをやっていて、ライヴやイベントのチラシを作成するのに(スタークラブは東京でのライヴのポスター、チラシもマネージャーの松尾氏が全面的に制作管理をしていたのだが‥)レタリングの知識や技術を学んでおくのも良かろうと考え、件のサークルに入部したのである。ここでまた面白い出会いがあり、それは出版プロデューサーとして名を成して現在は大手出版社の飛鳥新社で役員職にある、知る人ぞ知る赤田祐一氏が何とこのサークルの先輩部員だったのである。ここで赤田氏の経歴を簡潔に述べると大学卒業後、まず飛鳥新社に入社して少女向け雑誌『ポップティーン』の記者として活躍し、その後1993年に大田出版に移籍して雑誌『QUICK JAPAN』を創刊、初代編集長の座に収まり、90年代サブカルチャーブームの先鞭を付ける。が、過労から1999年には同社を退社し、今やベンチャー企業となった中野ブロードウェイの古書店『まんだらけ』の出版部に入社、そこに1年程籍を置いた後に彼の編集者生活のスタート地点だった飛鳥新社に戻り、各種単行本の出版プロデュースや中高年向けのサブカルチャー雑誌『団塊パンチ』の創刊(現在は休刊)等、未だに精力的に出版界で活躍中である。さて、このサークルがまた(当たり前だが)非常に地味なサークルだったのだが、学生部からはサークル専用の部室を与えられていなかったので週3日程、学内の空き教室を使って男女合わせて20名程の部員が各々、先輩やOBの指導を受けながらレタリングの技術取得、作品制作に励んでいた。ずっと後になって赤田氏と共通の友人である、DJイベント「ロンドンナイト」のDJ兼仕切り屋の福田氏に「戸塚さんは赤田さんと何処で知り合ったんですか?」と聞かれた際、「大学のレタリング研究会で‥。」と答えると福田氏は「じゃあ学生時代は赤田さんと二人して日夜レタリングに勤しんでいた訳ですか。」と大笑いされた事があった。実際は僕も赤田氏も次第にあまり部会にも顔を出さない幽霊部員のようになり、サークルから自然にフェイドアウトしてしまった。ただ、赤田氏との交流はこのサークルを離れたところでも続いた。赤田氏はこの頃既に当時刊行されていた下世話な少女向け雑誌『ギャルズライフ』に学生ライターとして不定期に記事を書き、企画持ち込みで取材・執筆活動をしていた。他には辰巳出版という出版社の刊行している雑誌や雑誌『宝島』にも何本か記事を書いていた。元々、赤田氏は漫画批評が主な執筆対象であったのだが、持ち前の旺盛な好奇心と驚異的な記憶力・情報収集力を武器にジャンルレスにあらゆる事象を独自の視点で分析し論じてみせた。『ギャルズライフ』誌にはいち早くハードコアパンク・シーンのレポートを書いたり、レディース暴走族のルポルタージュ物も書いていた。当時、赤田氏が心酔していたのが女流漫画家の森田じみいさんで、森田さんは常々「とにかく新しいモノ(文化潮流)を評価する。」という確固たるポリシーがあって、パンクでもハードコアでもとかく主流文化からは「出る杭打たれ」がちな新しい動きをサポート、フォローするという、そんな森田さんの姿勢にいたく共感を覚えていた。
また赤田氏の存在無くしてあり得なかったのが僕と町田氏との再会‥そしてこの年の10月12日、13日に開催された町田氏の新バンド「ふな」の東京2DAYSライヴである。その年、大学が夏休みに入る直前の7月のある日、件のレタリング研究会の部会で赤田氏と顔を合わせた際、赤田氏が当時雑誌『宝島』や『POPEYE』のライターやカルトロックバンド『TACO』を主宰する等自由奔放に幅広い活動をしていた山崎春美氏の自宅に遊びに行ったところ、確か山崎氏主宰のTACOの1stアルバムのレコーディングに参加る為、東京に逗留中で山崎氏宅に居候していた町田氏と顔を合わせ、何気に赤田氏が町田氏に僕の話題を持ち出したところ、「おお、あいつ元気か?今度連れて来いよ。」と言っていたと伝え聞いた。勿論僕も町田氏との再会は望むところで早速、赤田氏に町田氏が滞在期間中に山崎氏宅を訪問する予定日をセッティングしてもらった。そして忘れもしない8月2日の午後2時頃に赤田氏と連れ立って渋
谷駅近くの宮益坂にある山崎氏の自宅マンションを訪問した。久々の再会、そしてお互い近況等を話していて、僕がレイラインという事務所に出入りしてフールズやじゃがたら等のバンドのマネジメント・サポートをしていたり、名古屋のスタークラブの東京スタッフをやっている話などしている内に町田氏がこの年の春に新たに結成したバンド「ふな(FUN+Aとも表記)」のライヴを東京でやりたいのでブッキングをして欲しいとの依頼を受けた。意気に燃えていた当時の僕は(最近また久々に意気に燃える対象が現れたが‥)その場で「やりますよ!」と即答し、赤田氏も出来る限りそのサポートすると約束してくれ、翌日からライヴの日取り決め、箱探しから何やらで多忙な夏休みを送るハメになった。まず2日間連チャンでやりたいとの町田氏の意向を汲んで10月以降で2日間連日スケジュールが空いているライヴハウスを探したのだが流石に無かった。それで場所を変えて違ったライヴハウスで2DAYSライヴをやるという方針になり、まず新宿ロフトが平日ながら10月13日の水曜日なら空いているとの返事をもらった。やはり週末は安定した集客力のある人気アーティストが早めに押さえてしまう為に既に10月の週末は埋まってしまっていて、13日でどうか?とブッキング担当の長沢さんから打診を受けた。早速町田氏に確認を取ったところ、「全面的に任せる。」との事だったので、取り敢えず新宿ロフトのスケジュールをフィクスし、後はその前後を埋める日取りでスケジュールが空いているライヴハウスを当たってみる事にした。まずロフトと同じく新宿にある老舗のライヴハウス、新宿ACBに連絡し、関係資料を持ってブッキング担当者のK氏を訪ねてみた。K氏とは初対面だったが、町田氏についてあらかたプロモーション的な説明をすると「ふーん。で、一体何人位動員できんの?」と何とも冷ややかな反応‥。僕が「このバンドは東京では初ライヴなのでそれは全く読めません。」というと、「じゃ、新人って事でまずは『ビートクラブ』っていうウチの番組に出てもらおうかな。」との返事。意味が分からず僕が逆に「番組って何ですか?」と質問したところ、何でも当時ACBで定期的に開催していた「Welcome To The Beat Club」というシリーズギグ(サイケデリックなビートバンドのTHE PETS、モータウンテイスがト入ったモッズバンドのTHE SHAKES等がレギュラーで出演)というか、レギュラーイベントACBの関係者がを内々で「番組」と呼んでいたらしい。 僕はINU以来、久々の町田氏のライヴであるからして当然ワンマン、若しくはフロントアクトに新人バンドを付けるよいなイメージしか持っていなかったので、新人バンド扱いでその種の企画イベントに出演する等、到底受け入れられる話ではない。これでは埒が開かないと思い、件の「番組」出演の話は丁重にお断り申し上げてその場を後にした。次の候補地として白羽の矢を立てたのが明治通り沿いにあるライヴハウス、原宿クロコダイルである。ここは僕もフールズのライヴでスタッフとしてそれまでに何度か入場した事もあり店長の西哲也さんも顔見知りであったので何となく気安い感じがしていた。店長の西さんはその昔、桑名正博の在籍していた日本のロックバンド、ファニーカンパニー(R&Rバンドとしては圧倒的な演奏力を誇り一時期、西のファニカン、東のキャロルとも言われた時期があった)でドラムを叩いていて(他にも多数のバンドを渡り歩いていた)、渡辺プロと強いコネクションがあって当時からクロコダイルには先日亡くなったジョー山中氏等、結構メジャーなアーティストが多数出演していた。町田氏もINU時代に数回クロコダイルには出演経験もあり、西さん初め店としても町田氏に対してある程度の認識を持ち合わせているのではないかと踏んでいた。新宿ACBを断念した後、早速クロコダイルに連絡を入れて西さんと会う約束をし、その足で渋谷まで出て速攻で店を訪問した。この時に驚いたのは西さんが笑顔で迎えてくれたことと僕なぞの学生風情の若造にきちんとした丁寧語で受け答えしてくれた事だ。まあ店としては持ち込みイベントの主催者は大事なお客様になる訳だから当然といえば当然の対応なのかも知れないが、ACBのK氏の木で鼻を括ったような態度とは大違いで、流石に西さんは色んなキャリアを経た苦労人だけあって一味違うな、と感じ入った。出演条件等もその場で話が折り合い、新宿ロフトと2DAYSでのライヴになるという事を伝えると「それじゃウチでのライヴは集客力のある活きの良い対バンを組みましょう。」とアドバイスしてくれ、当時ライヴハウスシーンで俄かに注目を集めていたハイブリッドなニューウェイブバンド、CHUYA率いるアレルギーを推薦された。そう、前回スタークラブの項で触れた、この一年前に札幌から家出(?)して新宿ロフトでのイベント「FLIGHT 7 DAYS」に駆け付けたU-CO嬢をベーシストに擁していたバンド、アレルギーである。因みに原宿クロコダイルでのライヴは20時からスタートして2バンドによる1時間ずつの2ステージによるショウ構成というのが基本的なスタイルだったが、この時即断で対バンとしてアレルギーの名前を挙げた辺り、やはりブッカーとしての西さんの非凡なセンスが伺えた。僕に異存はなく、早速西さんからアレルギーのバンド連絡先を聞いてアプローチする事にした。当時アレルギーはアート・ビートという事務所のあいはら(相原)弓さんという女性がマネジメントを担当しており、彼女に連絡を取ったところ、快諾を得て直ぐにメンバーとスケジュール調整してくれた。またギャランティーについても動員数が全く予想出来ないのでライヴの当日にチャージを精算した後で改めて話し合いましょうという事になった。あいはらさんは当時、『宝島』にアート関係の連載コラムページを持っていて、モダンアートからポップアートまで映画や演劇、音楽のネタに絡めて『宝島』の読者層にも分かりやすく解説していた。チラシその他は(アート関係のエキスパートである)あいはらさんを差し置いて(笑)主催者である僕が作成する事になった。この時、大学のレタリング研究会で培った(笑)技術を生かし、町田氏から提供された紙焼き写真をレイアウトした写真製版にインレタを貼り込んでチラシの版下を制作した。残念ながら手元に現物はないがインレタで貼り込んだキャッチコピーは今でも覚えている。
「ごはんびんぼう」
「金持ちに生まれたかった」
この2つだ。これは「ふな」のリリックからそのまま一部を引用したものだった。
参考リンク
千年COMETS:WELCOME TO MY GARDEN
※大学時代のクラスメイト、長井千恵子さんが参加していた千年コメッツの2ndアルバム『Nostalgia』からシングルカットされた楽曲PV。
萩原健一:エメラルドの伝説
※長井さんが(チャーの代理!)でツアーギタリストとして参加したショーケンこと萩原健一の2003年11月21日の渋谷公会堂でのライヴ。
一青窈Hitoto Yo てとしゃん:年年歳歳nennensaisai 2004
※長井さんが伴奏を務めた一青窈の2004年のライヴツアーから。
一青窈Hitoto Yo・Yo&U Tour '06:もらい泣き
※同じく一青窈の2006年のツアーから東京国際フォーラムでのライヴから『もらい泣き』のハードロックヴァージョン。
e-ha?:空の向こう側
※長井さん自身のバンドe-ha?の1stアルバム収録曲PV。
オールマン・シスターズ・バンド:2010.3.29@渋谷クロコダイル
※長井さんがe-ha?のメンバー他で結成したオールガールセッションバンドの原宿クロコダイルでのライヴ。パーカッションの小野かほりに注目。
futari(広島綾子 with 長井ちえ):Rock 'n' roll with me
※長井さんとポップユニットAmazing Carnivalのボーカリスト、広島綾子さんのコラボライヴからデビッド・ボウイの名曲のカバー。不覚にも久しぶりにウルウルきた。
eha! official
※e-ha?のホームページ。
アレルギー:COSMIC RAY
※CHUYA率いるアレルギーのライヴから。ベーシストの故・U-COのリズム感は今さらながら刮目すべし。合掌。
De-LAX:Neuromancer
※CHUYAがアレルギー解散後に元BOФWYの高橋マコト等と結成したDe-LAXの1989年のライヴ。
Taco:Person's abandonment song タコ:人捨て節(1982)
※カルトライターでもある山崎春美氏が率いたカルトユニット「TACO」の1stアルバムから罰当たりな名曲『人捨て節』。アップされているリリックは必見(笑)。
町田町蔵:辺境ブルース
※町田氏が自身のバンド「絶望一直線」をバックに従えた1988年渋谷LIVE INでのライヴから。「愛し合って/憎み合って/やって来た/殺し合って/呪い合って/笑い転げて/俺はナンボや」
1982年の5月に豊島区西巣鴨(JR大塚駅界隈)のアパートから板橋区成増に引っ越しをする事になった。事の次第は以前にも触れたが、西巣鴨のアパートは高齢の大家さん夫婦が階下に住んでいて、大人数で知人を泊めて騒いだりすると翌日必ず大家さんの小言があり、いい加減面倒臭くなってきたからだ。いざ引っ越しするに当たって、当時は貧乏学生だったので敷金・礼金等出費がかさむ、不動産屋を当たる通常の賃貸アパートには中々手が出ない。そこで閃いたのが滅多に授業に顔を出さない大学の友人でOという人物がいたのだが、彼の住んでいる学生専用アパートが敷金・礼金等一切不要という、かなりユルイ条件で入居できるという話を聞き付けた。Oとは必修科目の語学と体育が一緒のクラスで学内には彼と共通の知人が多数いたのだが、不思議な事に入学以来殆ど授業に姿を見せず、一体何をしているのやら?と皆訝っていた。その名前と人となりは噂で知っていたのだが、実際に彼と会って話をしたのは確か一年次の夏休み明け(!)だったと記憶している。
余談だが、僕のいたクラスには長井千恵子さんという、現在はeha!という自身のバンドを率いて精力的にライヴ活動をし、またスタジオミュージシャンやライヴのサポートメンバーとしても幅広く活動している女性のギタリストがいた。彼女は学内でRFUという音楽サークルに所属していたのだが非常に勝ち気な性格で明るく朗らかで、クラスでも人気者だった。彼女は在学中は「TOFU-IMAGINATION」という学内のサークルバンドで活動していたのだが、卒業後「千年コメッツ」というギタリストの座に収まり、あのBOФWYと同じユイ音楽工房という大手事務所に所属していたが、解散後はピンでギタリストとして名を上げ、レベッカのNOKKOや永井真理子とコラボしたり、一青窈のレコーディングセッションやショーケンこと萩原健一のツアーメンバーに抜擢されたりと八面六臂の活躍をしている非凡な方だ。たまたま大学のクラスメイトにこんな人材がいたのもまた面白い話である。
話を戻すと件のOという人物は、イメージ的にクラス内ではこの長井さん等とは対極の立ち位置の「マイナー」な存在で、彼は所属していたサークルも心理学研究会という、いかにもな選択で他には学内の劇団サークルの音響スタッフをやっていた。彼の趣味もカルトなフランス映画を観たり、それこそ誰も知らないようなアンダーグラウンドなニューウェイブやテクノポップ(当時は未だ「テクノ」なるジャンルは存在しなかった)のレコードを集めたりする事で、かなりカルトなパーソナリティを持っている人物だった。実際に交流してみると気さくで面倒見がよく、成増方面で何かのコンパか飲み会の帰りだったか、友人数人と泊めてくれと連絡すると快諾し、突然の訪問にも食事や飲み物等、至れり尽くせりのもてなしをしてくれた。ただ後に述べるが彼の住んでいた学生アパートの印象は‥。訪問した際に友人達と「何で授業に出て来ないのか?」と問い質したのだが彼の返答は「うーむ、何となく行く気がしないんだよ。」と言うのみで何とも要領を得ないものだった。今で言えば大学生版「登校拒否症」(笑)だが、特に精神的に病んでいるような様子もなく、ごく普通に日常生活を送っていて時たま(出欠を取らない‥出ても出なくても良い)選択科目には顔を出すのに、(出欠を取る)必修の授業に限って出席しないという、実に厄介な性癖を持っていたようだ。彼がその学生アパートに入居したのは所属していた心理学研究会のKさんという先輩の紹介で、彼も入学時に入居したアパート(確か代沢だったか?)に住み辛くなり、一年次の夏に成増のアパートに引っ越してきたようだ。
引っ越すと心に決めた僕は4月の末にOに事情を話して引っ越したいとの旨伝えると、直ぐにそこの大家さんに連絡を取ってくれ、入居審査や手続きはOと同じ大学の学生なら学生証を見せるだけでOKだと言う。今では考えられないイージーな入居審査だった(笑)。 勿論敷金・礼金要らずで部屋代は一ヶ月\18,000という格安の条件だ。しかしその立地条件は東武東上線成増駅から徒歩15分で上り坂下り坂有りの(苦笑)寂漠とした神社の裏にあるという、これ又カルト物件だった。またトイレは共同で汲み取り式(笑)、間取りは六畳一間に(キッチンというより)洗面所付きで勿論風呂無し(最寄の銭湯まで徒歩5分ほど)、物件の全容は3部屋ある木造平屋建てが一棟、一階に2部屋の2階建て4部屋が一棟‥と書き連ねるていくとアパートというよりはまるで「長屋」といった風情だ。また夏になると敷地内にはナメクジが大発生し、それに負けじとナメクジの天敵マイマイカブリも大量に現れ、更に縁側の砂地にはアリジゴクが巣を作っている‥。こんな所に僕は固定電話を設置して「はい、CLUB THE STAR TOKYOです。」とかやっていたのだから今思うと大笑いである。
ここの大家さんは別棟に住んでいる一人暮らしの老婦人でこれ又面倒見の良い方だったが少し衰え気味で、入居者にとっくに賞味期限の切れた和菓子を差し入れてくれたり「有り難迷惑」なところもあった(笑)。また部屋代の徴収もユルユルで、この時点での入居者3名はいずれも部屋代未納額が数十万円に上っていた。件のOも入居時から2ヶ月分しか部屋代を納めていないらしく、僕が「それはマズイだろ。」と咎めるとケロリとして「そのうち戸塚も部屋代なんて払うのバカバカしくなるよ。」と宣う(笑)。ともかく4月末にこのカルト物件「羽田荘」に引っ越した訳だが、この時点ではこの後このアパートの存在が日本の文化?の進歩・発展(笑)に一部貢献するとは誰も想像だにしていなかった。
この頃、僕は大学内で「レタリング研究会」という渋めのサークルに入部した。何故レタリング研究会に?というと、この頃やっていたザ・フールズやじゅがたらといったバンドのブッキングやスタークラブの東京スタッフをやっていて、ライヴやイベントのチラシを作成するのに(スタークラブは東京でのライヴのポスター、チラシもマネージャーの松尾氏が全面的に制作管理をしていたのだが‥)レタリングの知識や技術を学んでおくのも良かろうと考え、件のサークルに入部したのである。ここでまた面白い出会いがあり、それは出版プロデューサーとして名を成して現在は大手出版社の飛鳥新社で役員職にある、知る人ぞ知る赤田祐一氏が何とこのサークルの先輩部員だったのである。ここで赤田氏の経歴を簡潔に述べると大学卒業後、まず飛鳥新社に入社して少女向け雑誌『ポップティーン』の記者として活躍し、その後1993年に大田出版に移籍して雑誌『QUICK JAPAN』を創刊、初代編集長の座に収まり、90年代サブカルチャーブームの先鞭を付ける。が、過労から1999年には同社を退社し、今やベンチャー企業となった中野ブロードウェイの古書店『まんだらけ』の出版部に入社、そこに1年程籍を置いた後に彼の編集者生活のスタート地点だった飛鳥新社に戻り、各種単行本の出版プロデュースや中高年向けのサブカルチャー雑誌『団塊パンチ』の創刊(現在は休刊)等、未だに精力的に出版界で活躍中である。さて、このサークルがまた(当たり前だが)非常に地味なサークルだったのだが、学生部からはサークル専用の部室を与えられていなかったので週3日程、学内の空き教室を使って男女合わせて20名程の部員が各々、先輩やOBの指導を受けながらレタリングの技術取得、作品制作に励んでいた。ずっと後になって赤田氏と共通の友人である、DJイベント「ロンドンナイト」のDJ兼仕切り屋の福田氏に「戸塚さんは赤田さんと何処で知り合ったんですか?」と聞かれた際、「大学のレタリング研究会で‥。」と答えると福田氏は「じゃあ学生時代は赤田さんと二人して日夜レタリングに勤しんでいた訳ですか。」と大笑いされた事があった。実際は僕も赤田氏も次第にあまり部会にも顔を出さない幽霊部員のようになり、サークルから自然にフェイドアウトしてしまった。ただ、赤田氏との交流はこのサークルを離れたところでも続いた。赤田氏はこの頃既に当時刊行されていた下世話な少女向け雑誌『ギャルズライフ』に学生ライターとして不定期に記事を書き、企画持ち込みで取材・執筆活動をしていた。他には辰巳出版という出版社の刊行している雑誌や雑誌『宝島』にも何本か記事を書いていた。元々、赤田氏は漫画批評が主な執筆対象であったのだが、持ち前の旺盛な好奇心と驚異的な記憶力・情報収集力を武器にジャンルレスにあらゆる事象を独自の視点で分析し論じてみせた。『ギャルズライフ』誌にはいち早くハードコアパンク・シーンのレポートを書いたり、レディース暴走族のルポルタージュ物も書いていた。当時、赤田氏が心酔していたのが女流漫画家の森田じみいさんで、森田さんは常々「とにかく新しいモノ(文化潮流)を評価する。」という確固たるポリシーがあって、パンクでもハードコアでもとかく主流文化からは「出る杭打たれ」がちな新しい動きをサポート、フォローするという、そんな森田さんの姿勢にいたく共感を覚えていた。
また赤田氏の存在無くしてあり得なかったのが僕と町田氏との再会‥そしてこの年の10月12日、13日に開催された町田氏の新バンド「ふな」の東京2DAYSライヴである。その年、大学が夏休みに入る直前の7月のある日、件のレタリング研究会の部会で赤田氏と顔を合わせた際、赤田氏が当時雑誌『宝島』や『POPEYE』のライターやカルトロックバンド『TACO』を主宰する等自由奔放に幅広い活動をしていた山崎春美氏の自宅に遊びに行ったところ、確か山崎氏主宰のTACOの1stアルバムのレコーディングに参加る為、東京に逗留中で山崎氏宅に居候していた町田氏と顔を合わせ、何気に赤田氏が町田氏に僕の話題を持ち出したところ、「おお、あいつ元気か?今度連れて来いよ。」と言っていたと伝え聞いた。勿論僕も町田氏との再会は望むところで早速、赤田氏に町田氏が滞在期間中に山崎氏宅を訪問する予定日をセッティングしてもらった。そして忘れもしない8月2日の午後2時頃に赤田氏と連れ立って渋
谷駅近くの宮益坂にある山崎氏の自宅マンションを訪問した。久々の再会、そしてお互い近況等を話していて、僕がレイラインという事務所に出入りしてフールズやじゃがたら等のバンドのマネジメント・サポートをしていたり、名古屋のスタークラブの東京スタッフをやっている話などしている内に町田氏がこの年の春に新たに結成したバンド「ふな(FUN+Aとも表記)」のライヴを東京でやりたいのでブッキングをして欲しいとの依頼を受けた。意気に燃えていた当時の僕は(最近また久々に意気に燃える対象が現れたが‥)その場で「やりますよ!」と即答し、赤田氏も出来る限りそのサポートすると約束してくれ、翌日からライヴの日取り決め、箱探しから何やらで多忙な夏休みを送るハメになった。まず2日間連チャンでやりたいとの町田氏の意向を汲んで10月以降で2日間連日スケジュールが空いているライヴハウスを探したのだが流石に無かった。それで場所を変えて違ったライヴハウスで2DAYSライヴをやるという方針になり、まず新宿ロフトが平日ながら10月13日の水曜日なら空いているとの返事をもらった。やはり週末は安定した集客力のある人気アーティストが早めに押さえてしまう為に既に10月の週末は埋まってしまっていて、13日でどうか?とブッキング担当の長沢さんから打診を受けた。早速町田氏に確認を取ったところ、「全面的に任せる。」との事だったので、取り敢えず新宿ロフトのスケジュールをフィクスし、後はその前後を埋める日取りでスケジュールが空いているライヴハウスを当たってみる事にした。まずロフトと同じく新宿にある老舗のライヴハウス、新宿ACBに連絡し、関係資料を持ってブッキング担当者のK氏を訪ねてみた。K氏とは初対面だったが、町田氏についてあらかたプロモーション的な説明をすると「ふーん。で、一体何人位動員できんの?」と何とも冷ややかな反応‥。僕が「このバンドは東京では初ライヴなのでそれは全く読めません。」というと、「じゃ、新人って事でまずは『ビートクラブ』っていうウチの番組に出てもらおうかな。」との返事。意味が分からず僕が逆に「番組って何ですか?」と質問したところ、何でも当時ACBで定期的に開催していた「Welcome To The Beat Club」というシリーズギグ(サイケデリックなビートバンドのTHE PETS、モータウンテイスがト入ったモッズバンドのTHE SHAKES等がレギュラーで出演)というか、レギュラーイベントACBの関係者がを内々で「番組」と呼んでいたらしい。 僕はINU以来、久々の町田氏のライヴであるからして当然ワンマン、若しくはフロントアクトに新人バンドを付けるよいなイメージしか持っていなかったので、新人バンド扱いでその種の企画イベントに出演する等、到底受け入れられる話ではない。これでは埒が開かないと思い、件の「番組」出演の話は丁重にお断り申し上げてその場を後にした。次の候補地として白羽の矢を立てたのが明治通り沿いにあるライヴハウス、原宿クロコダイルである。ここは僕もフールズのライヴでスタッフとしてそれまでに何度か入場した事もあり店長の西哲也さんも顔見知りであったので何となく気安い感じがしていた。店長の西さんはその昔、桑名正博の在籍していた日本のロックバンド、ファニーカンパニー(R&Rバンドとしては圧倒的な演奏力を誇り一時期、西のファニカン、東のキャロルとも言われた時期があった)でドラムを叩いていて(他にも多数のバンドを渡り歩いていた)、渡辺プロと強いコネクションがあって当時からクロコダイルには先日亡くなったジョー山中氏等、結構メジャーなアーティストが多数出演していた。町田氏もINU時代に数回クロコダイルには出演経験もあり、西さん初め店としても町田氏に対してある程度の認識を持ち合わせているのではないかと踏んでいた。新宿ACBを断念した後、早速クロコダイルに連絡を入れて西さんと会う約束をし、その足で渋谷まで出て速攻で店を訪問した。この時に驚いたのは西さんが笑顔で迎えてくれたことと僕なぞの学生風情の若造にきちんとした丁寧語で受け答えしてくれた事だ。まあ店としては持ち込みイベントの主催者は大事なお客様になる訳だから当然といえば当然の対応なのかも知れないが、ACBのK氏の木で鼻を括ったような態度とは大違いで、流石に西さんは色んなキャリアを経た苦労人だけあって一味違うな、と感じ入った。出演条件等もその場で話が折り合い、新宿ロフトと2DAYSでのライヴになるという事を伝えると「それじゃウチでのライヴは集客力のある活きの良い対バンを組みましょう。」とアドバイスしてくれ、当時ライヴハウスシーンで俄かに注目を集めていたハイブリッドなニューウェイブバンド、CHUYA率いるアレルギーを推薦された。そう、前回スタークラブの項で触れた、この一年前に札幌から家出(?)して新宿ロフトでのイベント「FLIGHT 7 DAYS」に駆け付けたU-CO嬢をベーシストに擁していたバンド、アレルギーである。因みに原宿クロコダイルでのライヴは20時からスタートして2バンドによる1時間ずつの2ステージによるショウ構成というのが基本的なスタイルだったが、この時即断で対バンとしてアレルギーの名前を挙げた辺り、やはりブッカーとしての西さんの非凡なセンスが伺えた。僕に異存はなく、早速西さんからアレルギーのバンド連絡先を聞いてアプローチする事にした。当時アレルギーはアート・ビートという事務所のあいはら(相原)弓さんという女性がマネジメントを担当しており、彼女に連絡を取ったところ、快諾を得て直ぐにメンバーとスケジュール調整してくれた。またギャランティーについても動員数が全く予想出来ないのでライヴの当日にチャージを精算した後で改めて話し合いましょうという事になった。あいはらさんは当時、『宝島』にアート関係の連載コラムページを持っていて、モダンアートからポップアートまで映画や演劇、音楽のネタに絡めて『宝島』の読者層にも分かりやすく解説していた。チラシその他は(アート関係のエキスパートである)あいはらさんを差し置いて(笑)主催者である僕が作成する事になった。この時、大学のレタリング研究会で培った(笑)技術を生かし、町田氏から提供された紙焼き写真をレイアウトした写真製版にインレタを貼り込んでチラシの版下を制作した。残念ながら手元に現物はないがインレタで貼り込んだキャッチコピーは今でも覚えている。
「ごはんびんぼう」
「金持ちに生まれたかった」
この2つだ。これは「ふな」のリリックからそのまま一部を引用したものだった。
参考リンク
千年COMETS:WELCOME TO MY GARDEN
※大学時代のクラスメイト、長井千恵子さんが参加していた千年コメッツの2ndアルバム『Nostalgia』からシングルカットされた楽曲PV。
萩原健一:エメラルドの伝説
※長井さんが(チャーの代理!)でツアーギタリストとして参加したショーケンこと萩原健一の2003年11月21日の渋谷公会堂でのライヴ。
一青窈Hitoto Yo てとしゃん:年年歳歳nennensaisai 2004
※長井さんが伴奏を務めた一青窈の2004年のライヴツアーから。
一青窈Hitoto Yo・Yo&U Tour '06:もらい泣き
※同じく一青窈の2006年のツアーから東京国際フォーラムでのライヴから『もらい泣き』のハードロックヴァージョン。
e-ha?:空の向こう側
※長井さん自身のバンドe-ha?の1stアルバム収録曲PV。
オールマン・シスターズ・バンド:2010.3.29@渋谷クロコダイル
※長井さんがe-ha?のメンバー他で結成したオールガールセッションバンドの原宿クロコダイルでのライヴ。パーカッションの小野かほりに注目。
futari(広島綾子 with 長井ちえ):Rock 'n' roll with me
※長井さんとポップユニットAmazing Carnivalのボーカリスト、広島綾子さんのコラボライヴからデビッド・ボウイの名曲のカバー。不覚にも久しぶりにウルウルきた。
eha! official
※e-ha?のホームページ。
アレルギー:COSMIC RAY
※CHUYA率いるアレルギーのライヴから。ベーシストの故・U-COのリズム感は今さらながら刮目すべし。合掌。
De-LAX:Neuromancer
※CHUYAがアレルギー解散後に元BOФWYの高橋マコト等と結成したDe-LAXの1989年のライヴ。
Taco:Person's abandonment song タコ:人捨て節(1982)
※カルトライターでもある山崎春美氏が率いたカルトユニット「TACO」の1stアルバムから罰当たりな名曲『人捨て節』。アップされているリリックは必見(笑)。
町田町蔵:辺境ブルース
※町田氏が自身のバンド「絶望一直線」をバックに従えた1988年渋谷LIVE INでのライヴから。「愛し合って/憎み合って/やって来た/殺し合って/呪い合って/笑い転げて/俺はナンボや」