ブログのみんなは久しぶり。

(ほぼ毎日講座はしているので、受講生で久しぶりじゃない人もいるね、やほー♡)

いつものように、早くブログ更新しろやという声がたくさん寄せられていました。ごめんね。

なかでも、かおるさんを通して聞いた話。

「Hibikiさんに早くブログにご降臨くださいとお伝えください」

「Hibikiさんはいつ獄門橿から出てくるのでしょうか?(呪術廻戦読んでいる人)」

「Hibiikiさんって呪術廻戦の五条先生が好きじゃないですか。呪術廻戦の2期が7月から始まりますよね?だからまた引きこもってしまいそうで…」
 

この話をかおるさんから聞いたとき、すみません、笑いました。Hibikiの性格をわかってる。

「ああ、その人たち大好き。私、認知してる人?」

かおるさん「トークライブ来てくれた人と、あとは認知してないと思うよ」

かおるさんを通して、想いは私まで届いています。認知してない人もいるらしいので、この場を借りて謝ります。

GWに書こうかな、書けたらいいなと電話でした話が、かおるさんから一部の人に伝わったと聞いています。期待させちゃった人がいるみたいで、ごめんね。

でも、みんなの声がずっと頭にちらついていたのは本当。

漫画家の人が編集さんに「書け」と尻を叩くかのごとく、みんな私の編集さんになってくれてありがとうございます。

 

さて一部の人が不安がっている、ヒキコモリ問題ですが(笑)呪術廻戦2期は一気に見たいので、ワンクール終わるまでは見ないつもりです。

 

 



(あとブログの更新が止まるって普通はメンタルが病んだりなにかあったときに止まりがちだけど、私は大抵、漫画かアニメか本か意識の研究に没頭か遊んでるかのどれかなので、そのあたりは心配しないでください笑)

 

 

でもね、GW書こうとしたのは本当なんです。

Wordに3ページ書いては、読み返し。7ページまで書けたかと思えば、また最初から編集。全然進まなかったんです。

今回、いつもとちと感覚が違って。

いつもは、漫画かアニメか本か意識の研究に没頭か遊んでるかのどれかで、ブログを放置するんだけれど。

今回GWから書こうとしていたのに、指が動かなくてですね。

この期間あいこちゃんとは、社会思想と感覚思想の意識の研究に夢中になっていました。

そしてある程度理解が進んだなって感覚になったとき。ふと「神社に行きたいな」って感じたんですよ。

なので、縁結びの東京大神宮と赤坂氷川神社、あとはお気に入りの日枝神社に行ってきました。

(縁結びっていうと恋愛を連想しがちだけれど、人との縁もいけるよねと受講生さんや読者さんと素敵な縁で結ばれますようにと祈るようにしたら、とても効果ありましたので行きつけ神社となりました♡)

 

 



 

今回研究している意識の話は、大きなエネルギーが動き、思想を変え、存在を創り変えるレベルの話。

だから中途半端な意識レベルのときに話すなと、ある一定の意識レベルになるまでダメとNGを食らっていたようで。何度PCに向かっても、指が動かなかったんですよ。

身と心を清めてから話せという意味かのように、神社で祈祷をしてもらうと…もうすごいスムーズ。

そして、今回こうして最後まで書くことができました。

長編になるので「前編」「後編」に分けますね。



★★★



今にして思えば、行きつけのBarの「あの瞬間の感覚」から、この感覚の研究は始まっていました。

私はひとりでぼーっと考えたいことがあるときは、行きつけのbarに行きます。

あ、そうそう、ちょっと話がそれるけど、このバーのマスターとの出会いもおもしろくて。

ひとりでふらっといけるようなお酒が飲めるところないかなあと、ネットで探していたんです。



そんなときに「なんかよさそう」「ここ行きたい」って感じるバーを見つけて、行ってみたんですよ。

でもそこのバー、なんと普通の住宅街にある!!しかも、本格的!!

なんでこんなところに、こんなオーセンティックなバーが!?ってところにあるんです。

 

 



ドアを開けると、1枚板のあるカウンター席。

 

 





 

 

何度か通ってマスターとしゃべるにつれてわかったことが、ここのバーのマスター、なんと東京のバーテンの中でもすごい地位にいる人。

なんでこんなところにこんなすごい人が!?普通、銀座とか六本木とかにいそうなイメージなのに。

でもほんと、こういうことってよくあるんです。

過去記事を読んでいる人は記憶にあるかもしれませんが、私は自分のことを「自分の世界の統治者」という感覚でいたくて。

なので、その感覚が宿りやすい「クイーン(王って統治している感覚になれるから)」という言葉を使っています。

 

そういう感覚でいると共振の法則が発動するのか、社会のなかのいわゆるステータスや能力が高い人と出会うことが多いんですよ。

しかもこんなところにこんな人がいるの?というところで遭遇するからおもしろいよね。

そういう人に出会うために積極的に動くでもなく、日常生活で行きたいと感じたところにふらっと行く感じで、普通に暮らしているだけなのに出会う。


こんな日常のなかの非日常の出来事なんかも起きるものだから、これだから意識の研究は楽しくてワクワクするからやめられない。


 

そんな声が素敵なマスターが作ってくれるお酒を飲みながら、思考の整理。

 

 

 



さて、結構前から、少しずつ心に芽生え始めた違和感の感覚。

孤独感とかさみしいとかそんな感じの感覚が心に宿っていました。

飲まれるほど大きな感覚ではないけれど。感知できるほどのこの感覚。

どーしたものか。

この感覚は、どこからくるのかな?

彼…じゃないんだよね。うん、恋愛じゃない。

アルコールで酔いがまわりながらもぼーっと携帯をいじっていると読者や受講生さんからのメッセージが目にとまる。

―Hibikiさん、すごい―

―それに比べて、私は今こういう現状なんですー

それを読んでいると、嬉しいような、でも切ないような、なんとも言えない感覚。

ああ、これかな。心が反応しているところ。

自分のなかにあるもうひとりの「わたし」、心の反応を俯瞰した観察視点にいる「わたし」が、それに気づく。


ああ、確かに「私、すごいじゃん」って感じてた。

でもそれは、私のなかにある自分の無限の可能性を感じたくてだったけれど。

「私すごいじゃん、こんな感覚になれるようになったじゃん」

「私すごいじゃん、こんな自分になれるようになったじゃん」

ことあるごとに、そういう感覚を宿すようにしていました。

ああだけど、そうだったね。

法則とは、法則ゆえに、こちらが望むか望まないにかかわらず、発動するものだった。

自分が自分に与えた感覚は、世界から還ってくる。

自分がそう在れば、人や世界から「わたし」はそのように観測されるんだった。だから、すごいなんて言われてしまう。


でも、すごいと感じていたから、すごいって言われる現象まではわかる。

ただ、なんで距離ができた感覚がするんだろう?

私は意識のチェックをし始めました。


みんなが読んでいて、幸せや安心を感じたり、できるってモチベーションになったり、なるほどって納得できたり。

「望んでいる自分の意識感覚」と繋がれる瞬間を、記事で宿せたらいいと思っている。

あなたはたくさんの幸せの意識と繋がれる存在なのだという祝福の想いを込めている。

だから意識を現実化できたことも、幸せの種類のひとつとして嬉しいし。

一方で、なにかを叶えなくたっていい。毎日幸せを感じる時間が増えることだって、幸せの種類のひとつだから嬉しいの。

自分が意外にもこんなお菓子が大好きだったことを知った瞬間とか、今日は大好きなグッズを自分に買ってあげた瞬間とか、いつも以上に優しい言葉をじぶんにかけてあげたら泣きそうになった瞬間とか。

その人が幸せな意識と繋がって生きていることがわかると嬉しい。

幸せや楽しさを感じて生きる喜び。

創造する力を実感しながら生きる喜び。

そうしてこんなにも、自分と他人がすばらしい存在だということに気づける喜び。

この感覚は心地いい。だからここまでの意識のありかたはオッケー。

さあここからだね。

でもときに、Hibikiさんがすごいとなってしまうこと。

Hibikiさんだからできたとなってしまうこと。

この「すごい」が、どうやら社会思想の意識だと、上下の優越感と劣等感を創ってしまうこと。



でも感覚思想になってから、私は優越感も劣等感も感じたことがなくて。感覚思想で生きると、すべては「状態」で感じてしまうため、評価とか立ち位置の感覚が薄くなる。



自分に対する「すごい」の喜びに、人への優越感はゼロ。


感覚思想の意識の「すごい」の感覚は違って。



どれだけ「私」=「人」が、すばらしい創造の力を持っているのかに対する喜びの言葉。


日常の意識のありかたを書くのも、私の意識の力ってすごくない?あなたとは違うのよというよりは、

 

「人」の意識の力ってこんなにもすごいんだよ!だから「私」=「人」=「あなた」の意識の力も、すごいものが宿ってるんだよ!!という感覚。



どうしたらこの感覚思想の楽しいや幸せを感じてもらえるかな?

どうしたらあなたの意識の創造の力ってすごいんだよって実感してもらえるかな?

考えているのはそんなことばかり。

 

 

こんなふうに感じていることを、あいこちゃんや彼や何人かの受講生さんに話してみたんです。

しかしそこには、社会思想と感覚思想で、生きかたの感覚の大きなズレがありました。

 

 

「社会思想の人は、人目を気にして、自分がどう思われるかに価値を置くんだよ」

「たとえば社会では、優しい人でいることに価値があるとするでしょ」

「そういうとき、人から優しい人だと評価される態度や言葉遣いをすることが「優しい人」ということなの。」

「実際にそう思っているかどうかは大事にしていない」

「優しい態度や言葉遣いができることを「私って優しい人」だと感じて生きているのが社会思想の感覚」

 

そう教えてもらいました。

そっか。社会でそういうことが価値のある人だよと言われているから…社会の示す「こういう人になったら、あなたを評価しますよ」という、社会の理想の通りの自分でいられるように、これまですごくがんばってきたんですね。

社会で生き残るため、自分に価値をつけて、認めてもらえるように。がんばったね。

 

でも同時に気づいたこと。

私がこれを聞いて、理解はしたけど瞬時に感覚がわかないということは、自分が本当にそういった感覚をほとんどなくしてしまっているということ。

こうした話がトリガーになって、遠い昔の記憶を思い出すように意識して、やっと過去の感覚を思い起こせた。

 

 

そうだ、この意識の研究をし始めた初期のフェーズ。

日常の時間の大半が、虚無感や不安や緊張といったさまざまなネガティブな感覚が襲われていたあの頃。

このネガティブな感覚は、どうしたらなくなるんだろうという研究に没頭していたことがありました。

そしてそれが功を奏して、それから徐々に日常の感覚は逆転していき、ネガティブな感覚を常時抱く「わたし」は次第に現れなくなっていきました。

日常の時間の大半が、幸せで楽しくて、自由で安心感のある穏やかな「わたし」として生きる。そんな新しい感覚の日々。

そんな過去の「わたし」から、今日までの「わたし」の感覚の変化が、ふと蘇ってくる。

そうだった、私はあのとき確かに望んでた。

社会の価値観のとおりに生きたら評価される人だけが、自分のことが大好きだって、すばらしいって思っていいっていう、感覚の許可証が発行されるような世界。

そんな世界が創った決められたチェックリストのなかで私の存在を評価されたら、私は私を大好きだって、すばらしいって、感じられないよ。常にネガティブになる。

だって私は、そのチェックリストの「理想」にあてはまらない存在だから…。

社会の理想の存在になれなくても、社会の価値観に合わせて生きられなくても、そんな私のことを、私は、大好きだって、尊いって、感じたいよ。

私は、わたしを愛することをあきらめたくないよ。

だからそんなふうに生きる「わたし」は嫌だって。この感覚で生きたくないって。確かにそう望んだ。


そういう感覚で人生を生きないことを、過去の「わたし」は選択した。



違和感のある感覚への疑問に、心が応えてくれました。唐突に謎解ける。

なんで距離ができてしまったのか。

その答えは、ほとんどなくしてしまったからだ、その社会思想の感覚を。

過去の「わたし」が、社会思想の感覚回路をほとんど切って、感覚思想という新しい回路に繋げてしまったから。

それはつまり「同じ国」に生きているけど、社会思想の感覚をもった人たちとは、全く違う感覚で生きていることになる。

同じ日本の中にいても、アメリカ人や日本人で、感じかたが違うように。

お互いのことをわかろうとしなければ、そこにはすれ違いがうまれ、心の距離ができてしまう。



恋愛と同じなんだ。

そうよ、彼のときも母のときも、私は同じ意識のありかたで変えていったじゃない。


アメリカではこうだからと日本の感覚を知ろうとしないアメリカ人よりも、日本の良いところも悪いところもひっくるめて好きになろうと、日本の感覚をわかろうとしてくれるアメリカ人のほうが、受け入れられる。

そんなアメリカ人から、アメリカって国もね、すっごいエキサイティングで楽しいところよ、行ってみない?ガイドしてあげるから♪と言われたら…。

 

ああ素敵。ワクワクする。

 

私がしたいのはこれだ。

 

 

意識の整理に一区切りできて、Barのお店を出ると、私はあいこちゃんに電話していました。

自分のしたいことは決まった。

この瞬間の感覚が、すべての始まり。

あいこちゃんが電話に出る。

「ねえねえ、社会思想の感覚を教えて」

 

偉大なる意識の先駆者が、意識の法則が、私の心に伝えてくる。

与えるものが受け取るものだよって。

『わかってあげたら、わかってもらえるんだよ』

社会思想の幸せや楽しさという光の側面も、つらさや哀しさという闇の側面も、全部ひっくるめて感じよう。

それで少しでも感覚思想も感じてくれたら最高だな。

『感覚思想はね、日常が穏やかで楽しくてファンタジー感覚なの』

なんの変哲もない日常を生きているように見えるこの世界。

しかし実は、自分の意識を変えたら体験する世界や感覚が変わっていくこの世界。

自分の意識が、今在る世界に干渉して様相を変えていくのが、とてもおもしろいファンタジーな世界。


ああ、そんな生きかたの感覚を持てる仲間を増やして、色々な感覚の喜びを共に味わえたら、楽しいだろうなあ。

人生の思い出に、いろいろな幸せの種類の遊びをして、心の財産を増やしていけたらいいな。

そんな私の夢。

こちらの世界の感覚で生きてみたい人みんなを、こちらの世界に異世界転生させたい。

こんなにも更新頻度がないにもかかわらず、それでもHibikiのブログの更新を待っててくれた、そこの「あなた」

それは「あなた」の中にある魂のなにかが共鳴しているはず。

思い出して。

わたしたちは本来『ワンネス』

「あなた」は「わたし」であり「わたし」は「あなた」。

もし今のこの家庭環境で、今のこの性格で生きる設定にして、人生が始まるなら。

「あなた=わたし」は、どう感じ、どう生きるのかな?

そういう体験場として、この地球が創られた。

そして1つの大きなエネルギーから、人の形を成して創られた存在が、地球にいる今の私たち。

「あなた」も「わたし」も、元はひとつのところから分けられた存在。

だからこの3次元での世界での名前をつけるなら。

その関係性は、家族のようでもあり、姉妹のようでもあり、仲間のようでもあり、友達のようでもあり。

そんなふうに、人の数だけ無数の環境や性格が分けられた「あなた」という存在の「わたし」がいる。

たくさんの家族、たくさんの姉妹、たくさんの仲間、たくさんの友達が、この世界にはいるっていう心の感覚で生きると、人の愛や優しさで私たちは繋がっているという感覚を感じられるよ。


ときには今回のように「できるようになった(お姉ちゃんには)(妹には)(お母さんには)(Hibikiには)わかんないよ!」って、家族、姉妹、仲間、友達から言われているような感覚になって、さみしく感じたりもあるけれど。無感情より全然いい。

 

 

そのときは「大丈夫、できるから」と言いながら。

裏ではこっそり、私は私側でできることをしようと、もう少し教えかたを磨いてと、アップデートするの。


それもすべて絆を感じてるから。


肉体の血の絆もある。

 

血が繋がっているからここまで大切にできるという言葉も聞く。


ただ私は幼少の頃は母との絆が薄かったからね・・・母より血の繋がりもなにもない他人のほうが優しくしてくれて、その愛を感じてありがとうと涙が流れた、昔のあの感覚も忘れられなくて。

だから魂の絆も同じくらい強いものだと信じてる。

だから読者と私の、このひとつの関係性にも、家族や恋人と同じ熱量で向き合えるんだ。

 


さてそれじゃあ、やりますか。腕まくりして。


社会思想の感覚の世界で生きている「あなた」という「わたし」の存在と繋がりなおすとしましょうか。



いざ、社会思想の感覚の世界へ。