生まれの出だしでしくじったと思った。

自分は、神様の失敗作で、生まれながらの幸せ勝ち組レースからは外れた敗北者で、不幸になる境遇だったのだと。

前回の記事で書いたように、そんな親の振る舞いを見続けてきて。

 

こう感じ続けてしまったのです。

「私の愛する人は、私に興味はなく、他のことに夢中」なんだと。

 

 

 


私がよく言葉にする「感覚が実現化するから」という法則。

これは良いほうにも悪いほうにも使えます。

私は自分に恋愛でうまくいかなくなる呪いの魔法を、自分にかけ続けました。

感じ続けることで世界がそうなるようにと。

私が誰からも愛されないと感じるように。

するとどうなったか?

 

私が好きになる人はことごとく、元カノのことが忘れられなかったり、他のことに夢中だったり、2番目の都合のいい女のように扱われました。

愛されていないと感じる現実そのままを、人を変えて、私に感じさせていく現象が起こりました。



そんなとき、ある言葉に出会います。

 

 

―子どもの頃に親との関係に問題を抱えていると、恋愛がうまくいかない―

―だから、親との関係を解決したほうがいい―

 

 

この言葉に出会った当時「そうなんだ」と思って、親との関係の本を読み漁ったんですね。

どれくらい読み漁ったかって…

 

これがみんなから「そこまでやる?」って異常扱いをされるHibikiの意識ガチ勢と言われるゆえんだけれど


潜在意識での過去の意識の乗り越えかたはもちろん、父親と母親とはどうあるべきかの指南書、アダルトチルドレン、発達障害、恋愛依存症、トラウマを克服する脳科学の論文、男の子と女の子の育てかたという育児書まで、

つまりこれってどういうこと?と疑問に思ったこと、解決の手がかりになりそうなものは、

 

ありとあらゆるジャンルに片っ端から手を出して、実践し続けたんです。

 

 

そうして過去の恋愛を振り返っているうちに、学生時代の片想い含めて、ある共通現象が浮かび上がりました。

それが「私の愛する人は、私に興味はなく、他のことに夢中である」ということでした。


 

そういえば、あのときもそうだし、このときもそうだしと、この感覚がどこまで続くかな?とさかのぼると、最後は親にたどりつきました。

しかし、そこからこの感覚をどうすればいいのかまではわからずにいて。

許したいのに、愛したいのに、方法が分からない。

自分にかけた呪いの解きかたがわからないまま、もんもんと日々を過ごしていました。



するとある日、彼からこんなことを言われたのです。

彼「Hibikiはなんていうか…ひとつひとつのことができてないんだよな」

私「ひとつひとつってなに?」

彼「だから、ひとつひとつ。今は目も当てられない」
 

 「俺は自分をよく知ってる子が好きなんだよ」


自分を知るって?

いい子になる方法なら知っているけど。

学校でいい成績を取ればいい、笑顔で笑ってればいい、迷惑をかけなければいい。

でも…自分?

 

親の顔色ばかりを見ていて、自分なんて意識したことがなかった。

 

ほんとうの自分を感じる感覚は、この頃、ほぼ死んでいた。

親に感じた自分への扱い、それを彼を通して感じるたびに、心臓が握りつぶされるような心が抉られるような、過呼吸になるほどの傷をいつのまにか負っていて。



だから私はいつも、彼に対してケンカ腰で話して、責めていました。

なんでlineくれないの?

(私のことなんて好きじゃないんでしょ)

なんで少ししか会ってくれないの?

(私のことなんて好きじゃないんでしょ)

友達が週に1回は会っているなんて話を耳にし、恋愛本に書いてある「これが好きな人にする行動」というテンプレを目にし、それに外れたことをすると、途端に不安になって、彼を責めました。

しかし実はこのときの彼は、数時間会うのも惜しいほど忙しい状態でした。

 

 

だから彼は言います。

「なんで忙しい時間の合間をぬって、少しでも会ってくれてるんだっていう解釈にはならないわけ?」

 

そう言われて、確かにってハッとする。

 

どうしてそう思えなかったんだろう?

 

あれ?なにかが、なにかが、おかしい。



私は彼に「彼氏とはこうあるべき」を押し付けている。

 

私は親に対して普通の親のように、こういう親であってほしかったというのがあったから。

 

 

ずっとどこかに「普通の親」に憧れていた。


風邪をひいたとき「大丈夫」って、元気に明るく振る舞っていた。
 

でもふとクラスの子に「大丈夫?」と言われた瞬間、涙が流れた。
 

誰かに「大丈夫?」って心配して優しくされたことが嬉しかったのだ。

 

私は親からそういう優しい言葉がほしかった。


「親と一緒に買い物に行って、この洋服買ってもらったの」と話す友達。


親と一緒に洋服を選んで買ってもらえることが、うらやましかった。


でも、もう遅い。

だって私がこうして欲しかった瞬間は、あの学生時代のときの自分だったから。

自分で稼げるようになって、自立してしまった今の自分にされても、もう違う。

失われたときはもう2度と戻らない。あの日々の自分も、もう戻らない。


私は自分と向き合いながら、今この瞬間の自分を生きることの一瞬一瞬の大切さを、体験をもって知ったのです。
 


その過去を取り戻したいかのように、彼に「彼氏とはこうあってほしい」という理想の彼像に押し付けていた。でもそれは違う。


いつのまにか、ものすごくがんじがらめになっていた。

 

好き合う人同士の形はこうでないといけないって。

 

 

「私の愛する人は、私に興味はなく、他のことに夢中」をもっと深堀りしていくと、

 

もっと深い部分にある心の感覚は、私がかけた本当の呪いの魔法は、

「○○とはこうあるべきだ」

 

「○○にはこうあってほしい」

 

その呪いを、私は自分にかけていのでした。

 

 

親として彼として、こうあってほしいというものと、外れたことをしてくると、自分は愛を受け取っていないのだと錯覚していた。



私自身、こうあるべきという生きかたに閉塞感を感じていたはずなのに。

人の価値観に縛られる閉塞感。

自分を愛しているかをうかがって、愛されるためにと自分の想いや行動を制限される閉塞感。

 

自分がそんな風にされたら嫌いだと感じることを、自分が人にしている。

 

そうするとどうなるか?

 

自分が嫌いだと感じている感覚や振る舞いを、当然自分に宿すことになります。

 

嫌いと感じていることが、自分の存在にもあるのです。

 

すると、こんな自分のことが嫌いだと自分のことを愛せなくて、自己否定したくなりますよね。

 

 

自分を否定しているのだから、彼からも世界からも否定されていく。

 

 

この意識のからくりを知ったとき、こうなるのは当たり前だとなんだかすんなり納得がいったんです。

 

すべてが受け身であり、すべてが自分以外の誰か次第だった。

 

 

相手が私になにをしてくれるかで、自分の幸福度が変わってしまう呪いの魔法。

 

しかも、そのなにをしてくれるかは、私の彼氏とはこうあるべき、彼氏ならこうしてほしいに、はまっていないとダメで。

そんな自分の存在を、私は感じ続けました。

 

だから、ずっと愛されないと感じ続ける現実ばかり。

 

ほんとうは…親が私に興味がなく他のことに夢中であってもよかったのだ。

それがその人の生きかたなのだから。

親というのは役割のひとつで、私は親のことを「母」や「父」としてしか見ていませんでした。

 

その時間には、ひとりの人間としての人生があったのに。


そこに気づいたとき、やっと、呪いの解きかたがわかったのです。

 

そうして呪いの解きかたに入る前に。

 

実は彼のことも周りから言われていて。

 

LINEをくれない人の、会ってくれない人のどこがいいって。別の人にすればいいって。

もっともです。彼ってオレ様系だし、みんながいいって感じる男性の振る舞いのテンプレには、ちょっと外れちゃっている。

でもね、過去の自分の意識を超えるなら、私は彼とがよかったの。

見捨てられてもおかしくなかった。目も当てられないと言われた。

 

そのとおりで。普通なら遠ざけてしまうような振る舞いをしてきた自覚はある。

 

常識人なら普通の人なら、きっとあのときの私と向き合うのは無理だったんじゃないかな。

でも、めんどくさいやつと言いながらも、いつも彼の行動は誰よりそばにいてくれた。向き合ってくれた。

私が幼い頃1番欲しかった、つらいときはそばにいてほしかったぬくもりを、彼は与え続けてくれました。

私の心の傷も、性格のいびつさも、あなたといれば、幸せに変わり、これでよかったに変わり、強さに変えられる。そんな気持ちになれる人でした。

 

こんな彼とだからたどりつけた。

自分にかけた呪いの魔法の解きかたに。

 

解きかたは、今の自分を愛して満たせばよかったのです。

 

私は彼のいうとおりひとつひとつのことと向き合っていきました。

そのひとつひとつがわからないから。

まずは「自分のことを知るとはなにか」から。


私が私を幸せにするってなんだろう。

私はなにが好きなんだろう。

私はなにが喜ぶんだろう。

 

自分がこれまでどんな感覚を宿していて、これからどんな感覚を宿していきたいのか。

 

そうしたらここにもこうあるべきがすごかったのですよ。

 

可愛い服を買ったらいいのかな。

タワマンでパーティしたらいいのかな。

 

はじめなんて全然わからなくて。自分の心の声ってなに?って状態。

 

だから周りの声を聞いて、みんなが楽しいって言っているしっていうところから、はじめていった。

 

そして「どう?楽しかった?」とその感想を心に聞くのくりかえし。


いい子であろうとか正しくあろうとは生きてきたけれど、自分が幸せであろうと、これほどまでに夢中で熱く生きたことがあったかな。


そうやって自分をとことん愛そうと向き合っていたら、実践している途中で、過去の感覚にとらわれていることにも気づけるようになっていった。

 

 

そのたびに、感じたくない世界のボタンを押すのではなく、感じたい世界のボタンを押し続けました。

 

 

こんな風に語りかけてね。


いつまで過去の感覚を引きずって、人から、環境から、愛を欲しがる気なのだろう。

親のせい、環境のせい。

 

それは親の力がなくては、環境の力がなくては、自分の人生を幸せにできないって、自分が自分を愛す力がないんだって、自分に呪いの魔法をかけているんだよ。

誰かの存在から、環境から、愛を補給しないといけない世界は、いつもさみしくてむなしくて満たされなかったじゃないか。

 

自分がさみしく感じないようにしてと、人や環境にいつも求めてはすぐに枯渇し、ひどく疲れていたじゃないか。

 

 

 

 

もう違う。これからは違う。

 

 

 

 

もう親から愛をもらわないと、環境に恵まれないと、生きていけない自分じゃない。

 

自分で自分を愛すことで、自分の人生は切り開ける。

もう自分で自分を愛せる。自分の存在のパワーだけで人生を幸せなものにできる。




私は、私はね、

ある1日は、お昼にアフタヌーンティして、その帰りにブランドショップでお買い物、夕方は整体に行って、夜は友達と電話したりして過ごすのだって好きよ。

でも一方で、ある1日は、

アニソン聞きながら、ラーメンを食べに行き、そこでにんにくを大量に入れて、

 

帰ってきたらパジャマに着替えて、ベッドでゴロゴロしながら、マンガやアニメを読んでいるのだって好きなのよ。

 

誰ともしゃべらないでひきこもっている時間が好き。

 

きっと素敵だねって言われるのは、前者のほうだけど。

心を自由にしてあげよう。自分を。今度こそ。

こうあるべきという概念の呪縛から。




そう私は…両極を合わせ持つのが好き。

 

 

華やかな世界も好きで、

 

でも、オタクでぐうたらな生活も好き。

 

 

 

意識を使ってそれが実現化してカタチになるのも好き。

 

でも、実現化よりも、心が幸せで生きていられたら、カタチにならなくても十分って思っているのも本心。

 

 

ついこういうとき、心が大事なんだからと、

 

華やかな世界じゃなくていい、成果なんて関係ない、今を幸せに感じられるだけでいいと、心の美しい自分を感じたくて、そう言い聞かせたくなるけれど。

 

 

私は正直にいこう。どれも等しく大事。

 

 

私は全部、そのフェーズフェーズで、体験したい感覚が変わる。

 

 

このフェーズにきたら、華やかな世界を体験させてあげたい。

 

このフェーズになったときは、オタクになってヒキコモリたい。

 

このフェーズのときは、幸せに感じるだけでいい。

 

このフェーズのときは、カタチや成果を目指したい。

 

 

華やかな体験も、オタクでヒキコモリな体験も、カタチがある体験も、心が幸せで在れたらそれで十分だと感じる体験も、自分のその瞬間のモードによる。

 

 

そのときに自分が感じたいことを、全部感じさせてあげたい。

 

 

どこまで自分にさせてあげられるかはわからない。

 

その過程で「やっちまったなあ、ハズしたあ」としくじることもある。

 

 

 

でも、そういう自分として生きていいと認めていくのが、そうさせてあげようとあらゆる自由を許している自分が、とても心地がよかった。





読者のみんなや友達や受講生や彼といるときの、

 

ときめき、高揚感、喜び、楽しみ、華やかさ、

 

一方で、

 

ダラダラしたいゴロゴロしたい心、ひとりでいることの心地よさ、穏やかさ、無の感覚、

 

すべての感覚を愛し抱きしめたい。




私がこうしたいって感じたいほうで生きる。


 

その瞬間その瞬間、自分の存在を創り変えていく。

 

生きたい世界のボタンを押し続けて。



与えるものが受け取るもの。

 

その与えるには、他人だけではなく自分も含まれます。

自分が自分に愛のエネルギーを与えたら、世界からは愛のエネルギーが返ってくる。


 

 

私にとっての愛される魔法とは、わたしがわたしから愛されることでした。

 

それをどんな手段で?っていうところに、推しで?美容で?ごはんで?言葉で?と、今私からどんな愛されかたをしたいのか、たくさん心に聞きながら。

「わたし」はなにをしてあげたら喜ぶ感覚湧くんだろう?と頭を悩まし、

 

そして与えてみて、これは違うのか、これは好きなのかって、たくさん喜ばせて愛してあげました。

 

 

 

そうして自分の存在を愛せるようになったとき、自分にかけた呪いの魔法は完全に解け、

 

それと同時に愛される魔法を自分にかけるようになっていって、

 

あとはこれまでのブログで話したとおり、

 

親からも友達からも彼からも愛されるようになりました。



彼とLINEの頻度も会う頻度も増えて、

「私の愛する人は、私に興味はなく、他のことに夢中」という概念からも解放され「私に一途でいつもかまってくれて嬉しいなあ」と感じかたの変化が起きました。


環境も、親も、それは生まれる前から決まっていて。人はそれを運命とも呼ぶけれど。

その人を親として生きなさい、その環境で生きなさいと、自分の魂か選んだのなら。

 

それはきっと、その初期設定でないと自分の中で覚醒しない感覚があるのでしょう。

それはほんとうはどう生きたかった?を覚醒させるための、生まれながらの設定なのです。


前世からの自分にかけた呪いの魔法を解いて、今世幸せになる人生ゲーム。




自分のパワーを信じた結果、生まれの出だしでしくじったと感じたことが、今世では最大の恩恵をもたらしました。

 

 

 

すべてはひっくりかえるのです。

 

 

 

親との関係は「○○(親、彼女、彼氏、妻)とはこうあるべき」ではなく、自由な感性で生きていいんだよと思えるための、最大の愛だったのかもしれない。

 

多様性を認めるこの時代。

 

自由な感性で生きていいんだよと口先だけではなく、身をもって感じたうえで語れるように。

 



今はその全部が、この感覚にたどりつくために創られたルートのようにも思えます。


そのフェーズがすべてなりたいほんとうの自分への覚醒へと繋がっている。



つい過去をどうにかしようとしてしまうけれど(私も過去の親との関係をどうこうしようと色々勉強して頑張っていたけれど)

 

でもやっていくうちに、過去の傷は傷のままでいいことに気づいたのです。


傷ついたという事実を変える必要はなくて。

でもそれを今や未来につなげる必要もなくて。

ただの幼いころの思い出体験として生きていく。


あのとき愛されなかった、あのときふられた、あのときモテなかった。

そういう過去があるから。だから今も、これからも、きっとそうなる。

 

そんな風には考えないで。


「過去は」確かにそうだった。

 

でも「今からは」わからない。「これから先は」わからない。

 

そんな風に考える。


 

感じたい世界のボタンを押し続ければ、過去の自分の延長線ではない自分が体験できる。


「愛される」という、すべてが相手次第、状況次第の受け身から、

 

自分の存在のパワー次第でどうにでもなるという「愛させる」

 

その感覚フェーズへ移行しよう。


 

自分の存在のパワーを信じて。

 

自分から湧き出る存在の愛のパワーを信じて。

 

 

 

だって人にはすごいパワーがあるんだよ。

 



その存在のパワー、感じるパワーを覚醒させると、よく覚醒できましたとごほうびが世界からやってくる。



私は、意識を変え始めたら、生まれてはじめて親から20万円もらいました。

 

これまでもらったことがなかったプレゼントを送られまくるって現象が、ここ数年ずっと続いています。







はじめから人生イージーモードに越したことはなかったけれど。

 

でも人の態度は変わるのだっていう信じられるこの感覚も、この自由に生きられることの解放感も、きっとこの体験を経たからこそ手に入った意識の財産。

環境に恵まれなくてどんなに深い傷を負っても、傷を負った人間には、傷を負った人間なりの人生の輝きかたがあるってことをどうか忘れないで。