この背景を踏まえて、

これから話す意識の解説に、

どのように影響を及ぼすかというと…


 

「社会思想」側の人が語るのは、

 

信念を持ち、

もともと持っていた自分の能力で

成功したことを、

 

「いい気分」「ワクワクした気分」

でやっていたらこうなったと

当てはめただけな場合が多いのです。

 

 

「感覚思想」側からみたら、

ちょっとその解説は違うんだけどな

ということが多いです。



たとえば、

「今日からあなたもプリンセス」

という記事の事例で、

 

「プリンセス」になるためのコツとして、

 

「社会思想」側の人が語る

ブログや本の内容は、
体の感覚を捉えてって

言いかたをするんですよね。

 

 

そういう場所に行くとか、

そこに流れている波動を感じるとか。

 

そうして

体感覚に落とし込もうと

一生懸命になるのです。

 

 

ここの不一致、お気づきですか?

 

 

「心で感じて」という話なのに、

「体感覚」で捉えようとしていることに。

 

 

体感覚とは、

 

ドレスを着ているときの

服の素材の感触や、

 

男性がお金を出してくれる

会計レジのシーンや、

 

彼が手を伸ばして

車から降ろしてくれるシーン…

 

そのシーンに意識を集中して、

よりリアルをより五感を

体感覚で味わおうと

一生懸命探っている場合があるんですね。

 

 

や、ここまで言っておいてですが、

それもアリなんですよ。

 

よりリアルに鮮明にすることで、

「わたしはプリンセス」を感じられるならアリ。

 

私もそう説明するときありますし。

 

 

 

ただ、これには

気を付けておいてほしい

ダークサイドの一面もあります。

 

 

 

それは、

 

「こういうリアル体験をした、

 だからこう感じる」

 

という思想が埋め込まれやすいこと。

 

 

 

5感で現実体験をした。

よりリアルに鮮明に思い描ける。

 

だから、「わたしはプリンセス」だと感じられる。



ドレスを着たから、

お姫様の気分になれる。
 

ごちそうしてもらったから、

お姫様の気分になれる。
 

車から降ろしてもらったから、

お姫様の気分になれる。



これが前にも書いたような、
 

高級なカバンを買ったら、

いい気分を味わえる。
 

高級なホテルに泊まったから、

いい気分を味わえる。
 

タクシーで移動して

新幹線ではプレミアムシートだから、

いい気分を味わえる。

 

 

そうして、

コーヒーを飲んだから、

ホッと安心感を味わえる。



 

これやり続けると、 

確かにその瞬間は味わえるでしょう。

 

 

でも同時に、この思想も強化します。

 

 

ドレスを着なければ、

お姫様の気分にはなれない。

 

高級ホテルに泊まらなければ、

セレブ感を感じられない。

 

コーヒーを飲まないと、

安心感が発生しない。

 

 

現実で味わっていないと、

気分が味わえないという思想を

強化してしまうんですね。

 

 

この思想を持っていると、

それは恋愛にも、

この思想が無意識に影響し、

 

 

LINEが返ってこないなら、

好きだとは感じられない。

 

付き合っていないなら、

彼女だとは感じられない。

 

という思想に繋がってくるんですね。



現実という物理体験をして、

はじめて感覚とは味わえるものっていう。

 

 

こういう話は、

「社会思想」側がよく使う表現なのです。

 

 


「社会思想」側がやっているときって、

 

たとえばよくみかけるのが、

素敵な家の内覧に行って、

 

「自分もこの家に

 住めるような人になるんだ!!」

 

って感覚を味わっているというもの。



そこにある感覚は、

「やってやるぜ」という

決意や鼓舞や向上心のような感覚です。

 

 

信念で貫いているときに、

自分が今いい気分かどうかなんて、

「社会思想側」は気にしていません。

 

 

「社会思想」側が、

「感じている」というものも、

たくさんのイベントに出かけて、

 

「センス」を磨くために

感じているのであって、

「いい気分」になるために感じてはいないことが多いです。

 


でも本人は、

これを臨場感たっぷりに味わっている

という表現を使っています。

 


 

実際は巷にある

 

バシャールや

シークレットや

エイブラハムといった

 

その潜在意識の内容通りには感じていない。

 

 

感じていると表現しているだけ。

 

 

「社会思想」側は大抵、

出来事が起きたときに、

はじめて「感じる」のです。



トラブルが起きてから、

自分が本当はどうしたかったのか

そこではじめて知る。
 

身体の調子が悪くて

医者に行ってから、

自分は本当はつらかったんだとはじめて知る。


 

現実という物理体験をしてから、

はじめて感覚を味わっている。

 

 

こうなってしまったのには、

子供のころからの植え付けれた思想があります。


それは結果や成果を出したものが、

マウントを取れるという正義。

 

 

私たちは、子供のころからそうでしたね。


算数が好きな人間ですと感じていたくても。


算数が好きでも、

テストで30点だったら、

それは好きとはいえないと判断される。
 

ピアノが好きな人間ですと感じていたくても。


ピアノが好きでも、

上手に弾けなければ、

ピアノが好きだといってはいけないような空気感がある。
 

 

 

そこから自分が「感じたこと」という

パワーがなくなりだし、

 

「成果」によって、

「感覚」が発生するようになりました。

 

 

「成果」を出せば、

そういう人間だという感覚を抱いてもいい。

 

そのような思想に、

いつのまにかどっぷり染まり始めてしまった。
 

 

他人に対してもいつしか

そのように評価し始めて、

 

社会で成功しているから、

この人が言うことが正しいんだと、

無条件に信じるようになったのです。



だから現実化していないものに

価値を感じられない。

 

 

自分が感じていることが、

価値のない、

取るに足らないものに思えてくる。

 

 

 

だからほんとうはこの思想ごと

ひっくり返して生きたほうが、

 

実現もできるし、

日常も幸せに生きられるのですけどね。

 

 

 


「感じる」パワーを取り戻して、

「感じていた」自分に還る。



会社員や社会経験をしている人は、

「社会思想」の世界で生きているので、

 

「社会思想」側の人の視点から見た

意識の解説が分かりやすいから、

その方法で叶うと思い込んでしまうんですね。

 

 

 

でも「感覚思想」側のレベル感で、

幸福を感じて、

実現化するまでには至らない。

 

 

なぜなら、所詮は

「社会思想」の中で、

生きやすくなるように

ちょこちょこやっていることだから。

 

 

でもほんとうは、

その思想ごと抜け出すところに、

実現も幸福があったのだとしたら―

 

 

ただ「社会思想」でこれまで生きてきたのです。

 

あなたの意識存在が、

消滅されたくないと感じることでしょう。

 

少なからず、抵抗感が出てくるでしょう。

 

 


本当にプライベートで

満たされて

生きやすくなりたいなら。
 

本当にプライベートで

実現化したいなら。


還ろう。感覚の世界へ。

 

 

 

「感覚思想の世界」ってね。

 

どういう世界かっていうとね。


毎日感じているのは、

穏やかに満たされた安堵感に包まれている日々です。

 

 

湯飲みに入れたお茶を飲みながら、

今日も平和だなあっていう感覚。

 

 

感覚が実現化するって、「感じる」んだよ。

 

 

ここで心は言葉を話さない。

感じるんだよの答え合わせ。



五感でリアルに感触を味わうのではなく、

「自分の心を感じるの」

 

 

あなたが中心。あなたが発信源。


自分がお姫様のドレスを着たら、

「やばいやばい可愛すぎる!!きゃあきゅん」
 

男性にごちそうしてもらっているとき、

「大切にされてる!!きゃあきゅん」
 

彼が手を伸ばして

車から降ろしてくれるとき、

「姫のように優雅に降りよッときゃあきゅん」
 


 

今説明の便宜上、

こういうのに近いよと

言語化して解説していますが、

実際のときは私は言語化していません。



大抵「感じて」テンションが高いため、

語彙能力が低下していて、

ただ感じて味わっているだけです。

 

「きゃあ、きゅん」とか「ふふん」とか

効果音のほうが

感覚を表現するのは近いもしれない。

 

 

これが「感覚思想の世界」の住人が

味わっている世界です。
 

 

「あなたの心がどう感じたか?」のほうなんです。

 

 

 

だからね、上のは、

 

まだ物理体験を経て、

自分がどう感じているかを

確認しているけれど、

 

本当は、

物理体験を通すことすらいらない。

 

 

もっとできるようになったら、

 

ドレスを着るとか、

ごちそうしてもらうとか、

車から降ろしてもらうとか、

そういう体験すらいらない。

 

 

イメージをするとき、

どんなドレスか?

どんな髪型か?なんて

詳細に描かずぼやっとしていていい。


 

五感で感じる必要はないから。

 

高級なカバンわざわざ買わなくても、

高級なホテルにわざわざ泊まらなくてもいい。

 

 

ジャージ姿でも、

歩いているときや、

電車乗っているときでも、

「わたしはプリンセス」って感じられるから。

 

 

「社会思想」を外すと、

「プリンセス」と感じるのに、根拠や証拠が必要なくなる。

 

 

子供のころに純粋に、

プリンセスの血筋も流れいない、

姫のような洋服を着てもいない、

でもわたしは「プリンセスなの」と感じられていた瞬間があるように。



その感覚。


「感じて生きる」を採用すると、

どういう現実展開が多くなるかというと、


私の場合。

 

 

男性は、

婚活のために何百人と出会わず、

ただこういう人が彼氏と感じて過ごす。

 

そういうわけで、

大量に網にかけて判別する方法ではなく、

1本釣りが多いのです。
 

つまり日常で過ごしていたら、

なんか出会って

「あ、この人と付き合う」っていう展開だったり。
 

欲しいものも、商品を迷わずに

「ああこれだ!」っていうものを手に入れる流れになったり。


精神的な疲れなら、病院に行く前に、

この感覚の疲労度だとそろそろ倒れるなとわかったり。


感じている今この瞬間から、

世界がこちらに進むようにと、

実現するまでの道が1本に狭められていく。

 

 

もうこれしかないっていう道しかなくなる。


「社会思想」側は、

「出来事が起きてからどう感じるか」

を使っていて、

 

「感覚思想」側は

「こう感じたらこういう出来事が起きる」

なんですよ。

 

なので、

現実体験、物理体験というのは、

叶えるために味わうものではなく、

どちらかというとエンタメですね。

 

 

ディズニーランドとか

推しのコンサートとか、

イベント的なエンタメの位置付けで

楽しんでいます。

 

 

すでに実現化していないときから、

感じてしまっているので、

実現したところで感慨深さはそれほどない。

 

 

叶ったときには、

 

これって心で感じていたけど、

実際のリアルだと

どう感じるんだろう?わくわく。

 

 

私が復縁したときなんかは、

実現していないときも、

彼の彼女と感じていた。

 

ただ実際、

復縁できて彼女になったとき、

私はどう感じるのかしら?

 

実現前と実現後で、

どのような心の感覚の差があるか、

さあ答え合わせよ!ってスタンスです。

 

 

「社会思想」と「感覚思想」は

すべてがあべこべ、すべてが真逆。

 

 

自分が実現させたい領域に合わせて、

うまく着せ替えて、

この世界を遊んでみてください。