※このお話は前編からの続きです。

 

 

意識の使いかたが書かれている本を手にする機会に恵まれた私。

 

むさぼるように読んでは、本に書かれている意識の魔法を実践し、その現象結果を考察する日々が続きます。
 


“違うたぶんこうじゃない…心が動かないし、現実が動いた様子もないし”

“じゃあこれは?”

 

“あ、今ちょっと心が動いた感じがした…”

 

“お、現実も少し動き始めた!”

 

“なるほど、この感覚ね。つかんできた”

 
 

こんなふうに実践と研究を重ねていくうちに、意識のスタンスが違うんじゃないかと感じるように。
 
 

これまでは「相手がこうしてくれない。だから、こうしてくれるようにしたい」という意識のスタンス。
 
相手が愛してくれないから、愛されるようにしたいって。

 

相手が大切にしてくれないから、大切にされたいって。
 
でもそうすると、相手の言葉や態度に意識を向け始めるんですよね。

 

 

自分のこと好きなんだと感じられる態度をされたときは、喜んでいた。

 

自分のこと好きかもしれないって言葉を相手から言われたときは期待した。

 

 

でも逆に、そういう言葉、好きな人には言わないよってときは落ち込んでいた。

 

そういう態度を私にするってことは、私のことは好きじゃないんだなってときは、傷ついていた。
 

 

日々がこれのくり返し。

 
 

好きになってもらえないのは、大切に扱ってもらえないのは、私が可愛くないからで、求められていることをできないからで、言いたいことを言えないからで…「こんな自分」だからなんだって。
 


でもあれ…?これなんか変、なにかがおかしいことに気づく。
 
 

私は今どんな思想や価値観を着た人間になっている…?

 

 

相手の態度から自分はどういう人間かを評価している。

 

相手の言葉や態度に一喜一憂している自分になっている。


 
はじまりのスタンスが、違ったんです。

 

 

思想や価値観が、これじゃダメなんだって気づきました。
 
 

 

 

現実でもイメージングでも、相手のしてほしい「態度」に一生懸命で、すがりついている感覚がどこかにあった。こういう態度をされたいって。

 

それを私はこの本に書かれているとおりにやっていると「意識を向けてやっている」と勘違いしていたのです。
 


でも言葉や態度にすがりついているような感覚は、また、相手の言葉や態度にすがりつくような感覚の出来事を現象化するだけ。

 

“この感覚をどうにかしなくちゃ”

 

 

この感覚が宿るってことは、そこには私にどういう思想や価値観が存在している?


 

ああ…私は「相手の言葉や態度で自分の存在価値が決まる」

 

 

そういう思想や価値観のもとに生きてるってことに、そこで気づきました。



その思想や価値観のまま生きていくとどうなるかな?って、その先の日常をシミュレーションしてみたんです。

 

「未来の私」は幸せを感じて生きているだろうか?



そこには、 相手がしてほしい言葉や態度をしてくれるかで、自分の愛され度と幸福度が左右される人生を生きる「わたし」がいました。

 
私がその思想や価値基準のもとに生きるなら。

 

『与えるものが受け取るものの法則』も同時に発動する。
 


つまり当然、相手も自分に対してこんな意識のスタンスをとってくる。
 


「Hibikiがこういう態度をしてくれたから、愛されているって思えるのに。こういう態度をしてほしいのに、なんでそんな態度をするの?そんなことされたら、大切にされてるって愛されてるって思えないんだけど」
 


私は毎日、相手の望む態度なんてできない。

それはきっと相手だって同じこと。毎日、私の望む態度はできない。
 


私が相手に求めていたことは、母が私に求めていたことと同じでした。
 
私は人の価値観に従うことが好きじゃないのに、私は相手に私の価値観に従うことを求めている。
 
 

母からの受信側のポジションでいたら、今度は彼に対して発信側のポジションになっていました。
 
 

嫌だ、こんな価値観をもつ他人が自分が、嫌だ嫌だ嫌だ。

 

そんな自分が嫌だと感じていた価値観を、自分自身が所有している。

だからずっと自己否定が続く。

 

だからずっと自分を責める意識が消えない。
 
この思想や価値観をもつ自分のことが、私は好きじゃなかったのだから。
 


この思想や価値観から世界を見る限り「相手の言葉や態度で自分の存在価値が決まる」と感じる自分をやめることはできない。

 

 

そんな自分をやめるには?

 

もう受信側にも発信側にも立たない。
 
もっと根本の、思想や価値観ごと入れ替えていくこと。


 

自分の心の玉座に座っていた「相手の言葉や態度で自分の存在価値が決まる」という思想や価値観を引退させて、新たなる思想や価値観をその玉座に据える。
 


そうしたら「なりたかった自分」を顕現させられる。
 

この「なりたい自分」の意識の魔法は完成する。

新しい思想や価値観のもとで、現実が展開されていくはず。
 
 

 

でも…意識の魔法をここまで解読・展開できて、一瞬ひるみます。
 


 

そう、それはつまり…今まで生きてきたアイデンティティの一部を破壊することであり、過去のアイデンティティの一部の死を意味していました。
 
「死と生」「破壊と創造」これらは表裏一体とはよく言うけれど………簡単に言ってくれるね。
 
今までそのような思想や価値観で生きてきた自分とさよならするのって結構怖い。
 
幸せを感じることよりも、人から見て正しいと感じることをする安心感のほうが価値が高いこともある。
 
これまで「これが価値あるものだ」と信じていた自分自身に、信じ込もうとしていた自分に、

 

「実は前からうすうす、そんなふうに生きることに価値を感じていなかったでしょう?」と突きつけるんです。
 
 

うわ、こっわ。

 

これが本音です。
 
 

でも、そのときこれまでの過去を冷静に振り返ってみるんです。
 
 

子どもの頃は、そうしていたら家から追い出されなかった、見捨てられなかった、嫌われなかった。

 

その思想や価値観で生きたほうが、生き残るっていう軸でのみ考えた場合、価値が高かった。

 

生き残らなきゃ、始まらない。だから、生き残ることが最優先。
 


でも、ある年齢のフェーズになってからは、その思想や価値観が自分を苦しめることが多かった。
 
誰かに頼らないでも、自分で稼いで、自分の力で生きられるようになってからは。
 
私はもう、誰かの許可なく、どこにだって行けて、誰にだって会える。
 
なのになぜ、行く場所に、会う人に、生きかたに、いまだ誰かの承認を待っているんだろう?
 
そこに行くのいいね、その人に会うのいいね、その生きかたがすばらしいって言われなきゃ、なぜする意味はないなんて考えてるんだろう?
 

人の承認を得られないことをしないと、嫌われて、置いてけぼりにされて、見捨てられる……いつまで、その感覚をひきずるつもりなんだろう?

 

 


 
 

もういいんだよ、これからは。

 

 

 

誰かの正しさに従わず、自分が幸せを感じることに従う人生を生きたっていいんだよ。

 

 

生きようよ。

 

生きてみようよ。
 

 

 

『すべてはどこに価値をおいているか』
 
 

 

 

 

親から見た自分でもなく、社会から見た自分でもないものになれるなら。
 
『どんな自分になりたい?』

 

『どんな自分に「わたしは」価値を感じているの?』
 
 

もう、自分のことを嫌いって否定することも、なんで私ってこうなんだろうと責めることも、したくないよね。
 
愛だったり、楽しさだったり、喜びだったり、たくさんの幸せを感じて生きていきたいよね。


 
 

意識の魔法で大切なこと。

 


 
「人は幸せになれると思い、外的なものを追求しています。しかし、それは逆なのです。

 

あなたは、もっと内なる心の喜び、心の平和、心に抱くビジョンをまず追求すべきなのです。

 

すると、外的なものが全てやってくるのです」
 
「実際に引き寄せを起こすのはイメージや思考ではなく感情です。

 

多くの人々は前向きな思考をし、欲しいものを手にしている場面を視覚化すればそれで充分だと思っています。
 
しかし、視覚化するだけで、それに伴う豊かな気持ちや愛情や喜びを充分に感じなければ、引き寄せの力を作り出す事はできません」

 

 

シークレット」―ロンダ・バーン
 
 

 

 

「相手の言葉や態度で自分の存在価値が決まる」



この思想や価値観を通して、この本を読んで文字を拾ったから、その本が言いたい意図とは違った解釈をしてしまったのです。

 

相手の言葉や態度に意識を向けていて、それを本の言う通りに「意識を向けているつもり」だった。

 

読み手側の思想や価値観と、書き手側の思想や価値観は違う。

 

 

 

正解は、相手に矢印を向けて、やっているつもりだった意識のありかたを、クルッと自分へ、意識の羅針盤の針を方向転換する。
 

自分の力だけで、自分の心が愛を感じられる解釈――

 

『肯定解釈』をしよう。

 

 

 

 

意識の深層へとダイブする。

 

 

 

過去に溜まったネガティブなエネルギーを愛に変えるために。
 
 

 

 

 

 

さかのぼるは、私の誕生日。

 


 
あのとき。

 

母や友達や彼から誕生日お祝いしてもらえなかったと私は解釈してしまった。

 

でも、ほんとうにそうだった?

 

もう1度、そのときの世界に行って、意識のみで体験してみよう。
 

今度は「自分が自分を大切にしてあげる愛してあげる」って思想や価値観で。

 

そうしたら、あのときの出来事はどのように感じただろうか?

 


だって、自分の意識が世界を創り出しているんだよ。
 
なら、あのときの世界をはじめたのは、私だ。
 
すべてが私から始まるのだとしたら…?
 

 


私が「わたし」を祝福してあげなかった瞬間が必ずあるはず。

 

そしてその瞬間から、この現実は始まったんだ!!! 

 

 


そうだ…あのとき…

 

求められたことができないからダメって、結果を出せないからダメって、可愛くないからダメって、言いたいことも言えないからダメって、

 

自分が自分のことを評価しはじめたことから始まった。
 
あのときの私には、祝えてもらえなかった出来事に対して、拗ねて心を閉ざす以外にも選択肢があったんです。
 
母や彼や友達がどういう態度で在ろうと、自分だけは自分のことを愛してあげて優しく接することだって、自分が自分に「誕生日おめでとう」って言ってあげることだってできた。

 

そんな選択肢だってあった。
 

「自分が自分を大切にしてあげる愛してあげる」その思想や価値観で世界を見ていたなら、あのときこの選択肢がきっとでてきた、あのとききっとひらめいたはず。
 
でもあのときは「相手の言葉や態度で自分の存在価値が決まる」そんな思想や価値観を持っていた自分。

 

相手の言葉や態度の意味ばかりを考えていた。

 

さて、この現状から自分をどう愛してあげようかなとは、ならなかった。

 


そうだ、あのとき。

 

自分だけは、自分のこと大切にしてあげたってよかったんだよ。
 
自分だけは、ありのままの自分に、生まれてきてくれてありがとうって祝福したってよかったんだよ。

 

誕生日のとき、私はわたしにそう感じたことがあったかな?
 
ないよね、自分を否定したり責めたりした数のほうが多かったね。
 
いつだって「こういう自分になったなら」認めてあげよう、祝福してあげようって、愛されていいんだって気持ちでやっていたね。
 


「ありのままの私を愛してほしい」
 


ねえそれは、お母さんだって同じ気持ちだったんじゃないかな。

 

お母さんだって、ありのままのお母さんなりの愛の形を、子供の自分に受け入れてほしかったはず。
 


母は幼いころ、バナナが高級でなかなか食べられないくらいの時代だったそう。

 

貧しくて、習いごとをしたくてもできなくて。

 

だとしたらきっと、習いごとをできることは贅沢で幸せなことなのだと解釈したのかもしれない。

 

それを私にさせてあげたくてのことだったかもしれない。

それは私の存在を祝福していることにはならない?
 
誕生日だって貧しくて祝う習慣がなかったのかもしれないし、ひとつひとつの習いごとには、将来を考えたらこれがいいと思ってのことだったかもしれない。
 
私のこうしてほしいって形ではなかったのは確か。

 

だから「私はこうしてほしかった」って気持ちも大切にする。

 

でも、そういう母の想いもあったかもしれないっていう、その想いも大切にしてあげて、想いだけでも受け取ってあげたらよかった。


 
ありのままの母なりの愛の形を、私は受け取ってあげなかった。
 
だから私は、ありのままの私を愛してほしいという気持ちを、母や世界から否定されたんだ。
 

私が相手の愛しかたや愛されかたを理解しなかったから、相手から私の愛しかたや愛されかたを理解されなかったのだ。
 
 

 

 

 

この世界をはじめたのは「わたし」





 
でも、始める力があるなら、終わらせる力だってあるよね。

 


 
この世界を終わらせるだけの強さを持つのは、始まりの力をもてた今の「わたし」だけ。
 


今度は、今度こそは、自分を幸せに。
 
心が、愛を楽しさを喜びを幸せをたくさん感じられるように。

だから私は許すよ。
 
そういう愛しかたもあるのだと許すよ。
 
そういう愛されかたもあるのだと許すよ。
 
色々な人から色々な愛されかたをしようよ。
 
自分が望む形じゃなくてもいいんだよ、その想いだけはせめて受け取ってあげよう。
 
自分だって、相手が喜んでくれるかなって選んだものを、ハズすことだってあるのだから。
 
 

色々な人の喜びの形がある。

 

自分だけのこれが愛じゃなくて、こういう愛されかたもあるのかって、こういう愛しかたもあるのかって、色々な愛されかたを知り、自分も色々な愛しかたをしよう。
 


過去の自分に贖罪をしながら、でもそれも自分を形成してきた一部だと許して。

 

決してこれまでの過去の自分のしてきたことが否定されるわけじゃない。

 

ちゃんと過去にそういう自分がいたことを、その存在がいたことを、「今のわたし」は、ずっと肯定して認め続けるから。

 

 

あの環境であの年で見捨てられずに生活していくには、ああいうふうな考えかたになってしまうよね、ああいう方法しか浮かばなかったよね。

今の自分がこうして存在できていることは、過去の「わたし」が不器用ながらがんばってくれたおかげだよ、だから感謝と祝福を。
 
過去の自分、よくがんばったね。

 

 

過去の「わたし」という存在は、

 

そのような思想や価値観のもとで生きたらどう感じるか?という「if」を生きたんだ。

 

だから自分の可能性というエネルギー状態にそっと戻すだけ。

 
「過去のわたし」へ。

 

あとは「今のわたし」が引き受けるから。


「過去のわたし」が今日まで受け継いできた「相手の言葉や態度で自分の存在価値が決まる」という王冠は、今日ここに置いていくね。

 

そしてこれからの未来は「自分が自分を大切にしてあげる愛してあげる」という王冠を戴く。

今この瞬間に創られた新生の「わたし」が、また新たな世界を始めていくんだ。

 

そうして新しい自分の思想・価値観の『女王』が誕生する。

 

これが私のクイーン意識。

 

 

この新たな意識の王冠を戴く「わたし」が始めた、今の生きる世界は、それからどうなったでしょう?

 

 

 

「自分が自分を大切にしてあげる愛してあげる」この意識のエネルギーは「わたし」の存在から溢れて、どんどん広がっていきます。

 

 

そうして世界は、現象化を通して、自分の存在に対してのアンサーを出してきます。

 

 

 

 

母からは誕生日プレゼントをもらえるように。

 

 

 

 

 

 

プライベートの友達からも誕生日プレゼントをもらい。

 

 

 

 

かおるさんからも誕生日プレゼントをもらい。

 

(全部めちゃんこおいしかった♡ありがとう)

 

 

 

受講生さんからも誕生日プレゼントをもらい。

 

(サプライズで届いたとき、嬉しすぎて頭フリーズした。ありがとう)

 

 

 

そして、入手困難とされているプレステ5に彼と申し込み、その抽選にも当たり、世界からも祝福されているんじゃないかという現象が起こり。

 

 

 

彼とグッチに行き、キーケースまで買ってもらう。

 

 

 

 

そう…「過去のわたし」が今日まで受け継いできた「相手の言葉や態度で自分の存在価値が決まる」という王冠を取り、

代わりに「自分が自分を大切にしてあげる愛してあげる」という王冠を戴いたら。

 

 

過去の延長線じゃない世界を感じられるんです。

 

 

 

ねえ神様。

 

 

 

世界は自分の意識の投影だからと、意識のありかた次第で、あんなにも残酷な景色を見せてくるのに、

 

意識のありかたを変えたなら、こんなにも美しい愛の景色も見せてくれるんだね。


 

 

この記事を読むすべての人へ。


生まれてきてくれてありがとう。

 

もし過去の出来事に哀しい自分が在るならば、あなた自身を愛することで、本来の愛される位置に戻れるから。
 
自分として生きることをどうか楽しんで。