帝国ホテルにふらっと寄ったら、ガルガンチュワが移転していました。

 

 

 

 

私が好きなのは、アップルパイ。

外はサクサクしていて、リンゴが甘酸っぱくておいしいんですよ。(アップルパイのリンゴは甘さ控えめの少し酸味があるのが好きです)

 

 




 

外は恋人や家族連れであふれるこの季節。

視線を周りにうつせば、カップルや家族連れ。

 

24日25日はクリスマス、31日は大晦日、1日はお正月。

 

ちなみに私は12月27日が誕生日なので、このあいだに誕生日も挟まります。


ある年は、恋人ができなくて、彼氏がいないことをこの季節はさみしく感じていました。

またある年は、彼に「2度と俺の前に姿を見せるな」と言われて、LINEをブロックされて、電話も着信拒否されて、メールも受信拒否されたまま、この季節を迎えました。


イルミネーションを一緒に見たい。

 

おうちでお酒をしっぽり飲んで色々なことをおしゃべりしたい。

 

誕生日はホールケーキのロウソクを吹いて消したい。

 

大晦日を一緒に過ごしたい。

 

初詣一緒に行きたい。


そんなことをしたいなと思い描きながら、そんな自分でいること叶わず、ひとりさみしく過ごしていたフェーズがありました。


この時期は友達も、それぞれ恋人やら帰省やらがあって誘ってもむずかしい。

だから、ひとりで部屋にヒキコモリ。

そうすると、周りと比較し始めます。

自分はひとり。だから自分は今さみしい女なんだ、幸せじゃないんだと定義づけてしまいます。

この状況、社会思想を宿していると、自分を「下」だと感じてしまうんです。

恋人と過ごすことは、ひとりで過ごすことよりも「上」なのだと。

そういう「状況」で、無意識に自分をマウンティングしてしまうんですね。

恋人と過ごすという行為ができれば「幸せ」であり「幸せな自分」であるといえるのだと。

一方で、ひとりで過ごすという行為は、孤独でさみしいこと、幸せではないことで、かわいそうな自分なのだと、決めてつけてしまうのです。

ひとりで過ごすというのは、なんだかそういう存在でないといけないみたいに。

 

でもこのひとりという状態。

 

それはただの「状態」でしかないということを悟ったら、心がとても自由で解放的な感覚になりました。

 

みんなが社会が、ひとり状態の人のことをそのようにみなすから、そういう状態にいる自分は、みんなや社会がみなしているような自分でいないといけないんだ。

 

そう縛っていただけなんだと気づいたのです。

 

「ひとりなの?さみしいね」「かわいそうだね」「恋人と過ごさないの?」「結婚はしないの?」

 

そういった声をひろって、なんとなく「あ、ひとりってダメなんだ」って受け止めてしまう。

そうしてひとりでいる自分の状態を、勝手に否定する気持ちが強くなっていきます。


「イベントにひとりでいることは、さみしくて、かわいそうな人である」

「イベントに恋人といることは、ひとりでいるより幸せなことである」

こうして、社会思想の状況による幸せのマウントが始まるんです。

 

そんな声なき「声」を自分が浴びたとき。

 

そのまま自分の心に入れてしまうのではなく、本当に自分が感じたいことやなりたかった自分に気づくものへと、その「声」を変換してしまったらいいんです。

 

“ひとりだと、かわいそうって感じていないといけないのかな?”

“ひとりだと、さみしいって感じていないといけないのかな?”

“ひとりだと、幸せになってはいけないのかな?”

 

今、私はひとりだけれど…



『かわいそうな自分を感じたくない』

『さみしい自分も感じたくない』

 



『ひとりでも、幸せであっていいじゃない』

『そういう人がいたっていい』



 

ひとりであったとき、この社会思想側の幸せの公式こそが、なによりも自分を幸せにしない感覚へとつきおとしていました。

 

でも社会思想側の幸せの公式にはじかれたなら、新たな感覚思想側の自分なりの幸せの公式を創り出せばいいんです。


さあ、どんな公式を創っていこう―


「わたし」が今この瞬間幸せを感じるものとは=


理想の彼や復縁したい彼と一緒に過ごしているところ妄想するもよし。

エステに行くもよし。

ネットフリックスでドラマや映画を見るもよし。

そういえば、この休みのあいだにブログの記事を読み漁りますってメッセージも届いていました。それもいいね。

 

 

今ひとりでいるこの状況から、ひとりでも愛されるべき自分に、たくさん「楽しい」や「幸せ」といった満たされる感覚を、自分の今できる精一杯で与えてみます。


当時は、帝国ホテルのケーキやパイが好きでそれを食べたらおいしいって満たされているって感じられそうだったので、食べたいと感じたものを端から買っていきました。

あとはdアニメのサブスクに入っていたので、そのサブスク内にある銀魂をずーっと見ていました。

銀魂ってギャグアニメなんです。なのでずっとそれ見て笑っていました。

おいしいものを食べて、好きなアニメを見て。

おいしいなあって感じて。

おもしろいってひとりで大笑いして。


そんな自分を、ふと客観的に俯瞰で観察した瞬間。

 

あれ?私ひとりなのに、こんなにも充実感と幸福感と満ちあふれている。

 

ひとりだと、なにをしてもむなしいだけのはずなのに。

 

ひとりの状態の人のことを、周りはそう評価していたはずなのに。


そんな考えとはウラハラに、そこには自分の力だけで自分のことを幸せにできている「わたし」がいました。

 

 

ああ…わたしって、ひとりでもこんなに幸せになれたんだ。



そうか、幸せの種類ってたったひとつではないのね。

恋人と過ごすことが、たった唯一の正解で唯一の幸せだと、人も社会もそういう空気感を出してくる。

でも、自分が幸せになれる方法は、それ以外にもたくさんありました。

 

きっと思想が宿っていたから、その思想に反するものは目に映らなかっただけで、自分の周りにはたくさんあった。

 

恋人と一緒に過ごす幸せももちろんあるけれど。

ひとりで過ごす幸せももちろんある。

友達と過ごす幸せだって。

 

幸せというものには「上」も「下」もなかった。横にたくさん広がっていくものでした。

ただ領土を広げるように、こんな幸せも所有していた、あんな幸せも所有していたのだと、範囲が広がっていくのだと。


ひとりで過ごすときのは、どっぷりアニメの世界に浸れて、食べたいものを集中して味わって食べられる幸せがあって。

でも恋人といるときは、恋人の存在が横にいるとどうしても気が散ってしまう。

 

そうなると、ひとりのときよりアニメの世界に没入できませんし、話しながら食べるから、食べたいものをおいしいなあって集中して味わうこともない。

でも恋人といるときは、一緒のものを見るという共有した幸せを味わえるし、彼と色々なことを語らう幸せがある。

かといって、じゃあ他人とは恋人とだけいれば幸せかというと、そうではなく。

 

たとえばアフタヌーンティやディズニーに一緒に行くなら、大好きな友達と行くほうが「可愛いね、おいしそうだね」ってきゃっきゃっできる幸せがあって。


ひとりで過ごす「幸せ」も、恋人と過ごす「幸せ」も、友達と過ごす「幸せ」も、同じ「幸せ」

だけどその味わっている幸せの感覚が、どれも微妙に少しずつ違います。

 

 

感情に価値を置くようになると、どれも味わいたい大切なものだって感覚でわかるようになっていきます。


恋人は、友達と過ごす幸せや、ひとりで過ごす幸せは与えてくれない。

友達は、恋人と過ごす幸せや、ひとりで過ごす幸せは与えてくれない。

ひとりは、友達と過ごす幸せや、恋人と過ごす幸せを与えてくれない。
 

どれもかけがえのない幸せの体験で、どれが上でどれが下かなんて決められない。


これが幸せというものを状況ではなく感覚でとらえる、感覚思想側の体感したときの世界。

 

感覚思想の世界に入ると、みんなと比べて下にいるとも上にいるとも感じなくなります。

 

ましてや自分には価値がないとも感じません。

ただまっすぐフラットに「私はわたしとして在る」という感覚が宿る。

 

「ああ、私はこういうときこう感じるのだなあ」「今のこの状況、私はどう幸せを感じていこうか」と、たくさんの種類の感覚を味わうために、自分という存在がここに在るという感覚になります。


そのため、ひとりでいる日常も、彼といる日常も、幸せの感度は同じくらいです。



彼がいるから、彼がいないからで、自分の幸せは左右されないし、いるならいるゆえの幸せを、いないならいないゆえの幸せを、味わえるから。



あなたは幸せであれる人。

 

なのに、社会の幸せの公式にあてはまらないからと、自分は幸せではないという答えを導き出してはいませんか?

 

そうして、自ら自分を不幸にしていませんか?

あなたは、幸せをこういうものだと決めつけてはいませんか?


あなたは周りに幸せにしてもらおうとしなくても、大丈夫なんですよ。

 

あなたの心にはすでに幸せになれる力が宿っているから。

 

あなたの手で自分を幸せにしていけるし、幸せにしていいんです。

 

 

誰かが幸せにしてくれるのを待つなんて、その待っているあいだにあなたが幸せにならないの、人生もったいないじゃないですか。

 

自分の手で自分が幸せになっていく過程で、周りの手でも自分のことを幸せにしてもらえたら「あら、自分の手で自分を幸せにしていたら、人からもこんなにもらえたわ」っていう感じがいいですよね。

 

だって、自分の手で十分幸せでいられているのに、さらに上乗せであなたに幸せが降り注ぐのですから。

 

 



ほんとうは、世界にはあなたが幸せになれるもので満ちあふれています。







幸せの定義が、社会思想の公式から、新たな自分の幸せの感覚思想公式へと塗り替えることができたあの瞬間。

 

ひとりでも、自分の手で、自分を幸せにできたあの瞬間。

 

 

―与えるものが受け取るもの―

という意識の法則が発動しだす。

 

 

自分が自分に与えた感覚も例外ではないから。

 

自分に与えた感覚と同じ感覚を世界から受け取ることになります。



これは私の実体験ですが、

アニメを見る幸せ、おいしいものを食べる幸せ、温泉に入って癒される幸せetc…

 

こんな種類の幸せもあっていいよねと自分に色々な種類の幸せの感覚を与えることを許せたら、そしてそんな自分を「あ、私ってすごい私から愛されているな」と味わえたら、

 

世界からはあらゆる種類の「あなたのことを愛しているよ」という幸せのギフトが贈られます。

 

 

この感覚が=イコールで世界と一致していくんです。

 

つまりどういうことかというと、私の実体験で説明しますね。

 

「私はこんな私のこと好きだと思えない」という感覚を自分に与えつづけていたら「2度と姿を見せるな」という態度をされました。

 

自分が自分のことをないがしろにしているなって感覚があり、四六時中彼のことばかり考えていたときがありました。

 

「私のことどう思っているの?」「ほんとうに愛しているの?」と不安で悲しか感じる毎日を過ごしていたら、彼からさらにないがしろに扱われました。

 

付き合っていたときでさえ、クリスマスも年末年始も「友達と過ごす」と言われて、誕生日は「忘れてた」と言われました。

 

「私のことどう思っているの?」「ほんとうに愛しているの?」って感覚がますます強まっただけでした。

 

 

 

でも「私ってすごい私から愛されている」って感覚を自分に与え続けたら、彼から「あなたのことを愛しているよ」と感じられる態度にみるみる変わっていきました。

 

 

たくさんの種類の幸せを自分に与えてあげて、自分から愛されているなって感じることをする。

 

それが「今の自分の存在」に満ちたら、今度は彼とたくさんの種類の幸せを体験できることが起きるんです。

 

こうして最初に話した、彼とイルミネーションを見る幸せ、おうちでお酒をしっぽり飲んで色々なことをおしゃべりする幸せ、誕生日はホールケーキのロウソクを吹いて消す幸せ、カウントダウンをして初詣に一緒に行く幸せという体験も、世界から受け取りました。

 

 

 

自分に幸せの感覚を与えてあげるだけでよかった。

 

愛されるために、彼に尽くすとか、彼の好みに合わせるとかいらなかった。

 

なんだか、肩透かしをくらったように感じましたが、これが意識の世界のことわりの真実です。



「ザ・キー」という本には、今の自分を満足させることの大切さが説かれています。


「わたしは十分に満足しているわ。ただ、もっとほしいだけ」この考え方こそ成功へのカギなのです。

それ以上を必要とせず、それ以上を求めること。

多くの人はその瞬間を生きていません。パワーの基点、真の奇跡が今ここにあるということに気づいていません。

いま、満足すること。それが成功へのカギです。

 

奇跡は、今幸せな人にもたらされます。

 

――『ザ・キー』ジョー・ビタリー博士――

 

 

ただその瞬間の状況の自分を、今そのときにできる精一杯で幸せにしてあげる。

すると、その瞬間の自分が、次の瞬間の自分へと、1秒後1分後1日後という未来の次の自分が「幸せ」になれるように「幸せ」の世界を創るバトンを渡してきます。



こうしてそのバトンを受け取った今2022年12月31日の「わたし」は、家で彼と焼肉しています。

 

 

 

 



実現させるとは、自分を創りなおすことなんです。

世界を創造するとは、自分を創造することなんです。

愛されていない自分から、愛されている自分へ。

幸せじゃない自分から、幸せな自分へ。


あなたもなれます。

 

自分の心に価値を置いてみて。

 

あなたの心自体が、あなたの存在自体がギフトだから。

だって、あなたはあなたなりの幸せを感じるために生まれてきた、宇宙から選ばれた存在なのだから。