大慈寺跡碑~源実朝創建の寺 | 古都の礎

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鎌倉にある大慈寺跡碑です。

 

 

鎌倉幕府3代将軍・源実朝が創建した大慈寺跡に建てられた碑。

「吾妻鏡」によれば建暦2年(1212年)、源実朝の発願により建立。建保2年(1214年)の落成法要には、実朝や北条政子らが参列しました。

源実朝(1192~1219)は鎌倉幕府3代将軍。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の次男。母は北条政子。幼名、千幡。乳母は阿波局(北条政子の妹)。建仁3年(1203年)8月、兄鎌倉幕府2代将軍源頼家が危篤となり、外祖父北条時政は頼家死去のため弟千幡を征夷大将軍とするよう朝廷に要請。同9月2日、比企氏の変。同7日、頼家失脚、12歳で征夷大将軍となります。幼将軍を代行して外祖父北条時政が御家人に出す御教書を代行、これをもって時政は初代執権となります。同10月8日、元服。元久元年(1204年)、後鳥羽上皇の従妹・坊門信清女と結婚。元久2年(1205年)、牧氏の変で時政失脚、叔父北条義時が2代執権となります。建保4年(1216年)6月、権中納言。同11月、渡宗計画を立てるも鎌倉の浅瀬の海に船は浮かばず断念。建保6年正月13日、権大納言。同12月2日、右大臣。建保7年1月28日、右大臣昇進報告のため鶴岡八幡宮を参拝。甥の公暁に殺害されます。

源氏将軍が絶えた後も鎌倉幕府が庇護。鎌倉幕府6代将軍・宗尊親王が大規模修繕を行ったことが吾妻鏡に残ります。室町時代後期以降記録から消え、廃寺になったとみられています。

 

 

 

大慈寺跡;神奈川県鎌倉市十二所