八木邸~新選組屯所遺蹟碑 | 古都の礎

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壬生にある八木邸です。

 

 

幕末、新選組の屯所となった壬生の郷士・八木源之丞の邸宅。

文久2年(1862年)正月、江戸幕府14代将軍・徳川家茂上洛の洛中警護のため、幕府は庄内藩郷士・清河八郎の建議により江戸で浪士を募集。同2月3日、集まった234人が江戸を立ち、同23日、上洛。二条城に近く寺や郷士屋敷が多かった壬生が浪士たちの滞在地となり、八木邸も浪士の宿泊地となりました。到着の夜、新徳寺に浪士たちを集めた清河八郎は、尊王攘夷を行うべしと演説。浪士たちから血判状を集め、翌日、朝廷に提出。清河の動きを危険と判断した幕府は浪士隊の引き上げを命令。芹沢鴨・近藤勇ら13名は幕府への恭順と洛中警護のための在京を求め、京都守護職・松平容保に嘆願書を提出。同3月12日、容保了承のもと会津藩預かりとして壬生浪士組が結成されます。八木邸が屯所となりました。

壬生浪士隊は当初、筆頭局長・芹沢鴨、局長・近藤勇の二頭体制でした。水戸脱藩士の芹沢鴨ら水戸派と、江戸の剣術道場・試衛館門人で庶民の出であった近藤勇ら試衛館派は対立があったといいます。八木家は浪士組に提供した離れは板敷きであったため、水戸派は八木一家が生活する畳敷きの母屋に寝泊まりし、離れには試衛館派が寝泊まりしたといいます。浪士組は隊員を募集し三十数名に増えたため、南隣の南部邸(現存しません)、向かいの前川邸も借り、試衛館派は前川邸に移ります。同8月18日、八月十八日の政変に出動。芹沢らは各地で乱闘事件を起こすなどしたため、試衛館派は容保から誅殺の容認を得たと言います。同9月18日、島原の角屋で宴会を開いた芹沢ら水戸派は泥酔して帰宅。八木邸の母屋で妾や芸奴を呼んで飲み直し、芹沢鴨は妾・お梅と、平山重助は芸奴・糸里と、平間重助は芸奴・吉栄と同衾。深夜、刺客が彼らを襲い、芹沢と平山は斬殺、お梅も巻き添えになって斬られ、平間、糸里、吉栄は逃亡。壁一枚隔てた隣の部屋では八木家の人々が就寝しており、後世、八木家などへの取材により、土方歳三や沖田総司らを実行部隊とする試衛館派が行ったことが知られますが、当時は近藤らは長州の尊王志士の仕業と吹聴していました。

水戸派が一掃されたことで近藤勇が局長となり、同25日、壬生浪士隊は新選組と改名。元治元年(1864年)、池田屋事件や禁門の変で軍功を挙げた新選組は、朝廷や幕府、会津藩から200両の恩賞を受け、新たな隊士を募集。人数が200名程度に膨れ上がります。元治2年3月10日、新選組は壬生を去り、屯所を西本願寺に移しました。

現在も、八木家の末裔の方が所有。芹沢鴨、平山五郎、お梅が殺害された刀傷が残る当時の邸が現存、公開されています(離れは現存していません)。末裔の方が手前で「京都鶴屋」という和菓子屋を経営しており、拝観料にお茶と菓子代が含まれます。

八木邸は内部写真撮影禁止。

 

 

新選組屯所遺蹟碑。

新選組が壬生浪士隊として結成された当初より西本願寺へ屯所を移す元治2年3月10日まで2年余り滞在したことにより、碑が立てられています。

 

 

 

八木邸;京都市中京区壬生梛ノ宮町24