島原にある角屋です。

 

 

島原で営業していた元揚屋。

角屋は、天正17年(1589年)、二条万里小路に傾城町が開かれた頃に、初代徳右衛門が揚屋として営業開始。揚屋(料亭兼宴会場)、茶屋(宴会場)、置屋(傾城が所属)のうち揚屋に属し、宴会場と料理を提供。置屋から客を接待する傾城を呼びました。慶長7年(1602年)、傾城町が六条三筋町に移転し角屋も移転。寛永18年(1641年)、現在地に移転。この建物は六条三筋町の頃に建てられたものを現在地に移築し、延宝年間に北側へ、天明7年(1787年)南側へ増築し、二階を付けているそうです。

公家を客として発展した島原は文芸が盛んで、江戸時代中期には与謝蕪村が角屋で俳諧の師をしていました。角屋が所蔵する与謝蕪村の「紅白梅図」は重要文化財。

幕末の島原は志士たちの集う地となります。倒幕の軍用金調達のため御用商人たちの接待に使われ、西郷隆盛(薩摩藩士)、久坂玄瑞(長州藩士)、坂本龍馬(土佐浪士)ら尊王攘夷派志士が集います。これを取り締まる佐幕派の新選組も出入り。文久2年(1862年)9月18日、新選組(当時は壬生浪士隊)筆頭局長・芹沢鴨は角屋で宴をして泥酔した夜、屯所の八木邸で殺害されています。

角屋は、明治5年(1872年)まで揚屋として営業した後、茶屋となります。大正14年(1924年)、松の間焼失、翌年、再建。昭和27年(1952年)、「角屋一棟」として重要文化財に指定(大正時代に再建した松の間以外)。昭和後期より島原は芸奴の数が激減。昭和51年、島原は京都花街組合連合会を脱会、組合も解散。昭和60年まで宴会場。平成元年(1989年)、角屋保存会が結成され、一部公開。平成10年より「角屋もてなしの美術館」となり一般公開。現在も末裔の方が所有、館長を勤めています。

角屋の一般公開は、3月15日~7月18日、9月15日~12月14日。この他に特別公開されることもあります。拝観は、最初に1階松の間で説明が行われ、その後、自由拝観。2階の見学は時間指定で要予約。2階の撮影は禁止です。

 

 

拝観入口。

 

 

入口傍に建てられてある新選組刀傷の角屋碑。

通常、客は入り口で刀を預け、中まで持って入ることはできませんでした。しかし、新選組は取り締まりと称して帯刀したまま入ったようです。

 

 

台所。

料亭でもあった揚屋では調理が行われていました。角屋の往時には20人程度の料理人が料理を作っていたそうです。

 

 

現在は締め切ってありますが、かつて客は表の通りからここを通って出入りしました。

 

 

新選組の刀傷。

ここの他、2階にも刀傷があるとのこと。

 

 

玄関。

この奥が網代の間。

 

 

刀掛。

玄関を上がった客はここに刀を掛けました。

 

 

刀箪笥。

刀掛に架けられた刀は、帳場の傍の刀箪笥に帰るまでしまわれました。

 

 

帳場。

 

 

中庭。

網代の間から眺めることができます。

 

 

松の間。

大正13年、松の間から出火し、現在のものは大正14年の再建。

従来、揚屋は1階に居住部分と台所を持ち、2階に客を上げたために揚屋の名があるといい、角屋も2階に趣向を凝らした宴会場を持っていました。しかし、文化の地でもあった島原では昼間に句会や茶会を行うために、1階にも宴会場を持って庭を見ながら俳句を詠んだり茶室で茶を嗜んだりしたそうです。松の間からは江戸時代に京の名所ともされた臥龍松を見ることができます。芹沢鴨が殺害された日の夜、宴会を行っていたのもこの松の間だそうです。

 

 

臥龍松。

現在のものは大正時代に植えられたもの。

 

 

こちらが初代の臥龍松。

現在は幹のみ。

 

 

曲木亭。

茶室。

角屋には3つの茶室があります。

 

 

長州藩志士久坂玄瑞密議の角屋碑。

幕末には倒幕を志す薩摩や長州の志士たちが御用商人を角屋で接待し、軍用金捻出の密議を行いました。長州藩志士・久坂玄瑞も角屋に通い、馴染みの芸奴がいたといいます。

久坂玄瑞(1840~1864)は、長州の志士。藩医・久坂良迪の三男。14歳で母、15歳で父兄が没、家族を失います。安政4年(1857年)春、松下村塾に入門。高杉晋作、吉田稔麿、入江久一とともに松下村塾四天王と呼ばれ、同12月5日、師である吉田松陰の妹、文と結婚。安政6年、革命的な討幕思想を持つ松陰が、安政の大獄で処刑されます。松陰の思想は久坂らに引き継がれ、文久3年(1863年)5月10日、久坂は光明寺党を結成。攘夷を実行するべく関門海峡を通過する外国船を砲撃(外国船砲撃事件)、米仏艦隊から報復攻撃を受けます。同6月、光明寺党は奇兵隊と名を変え、高杉晋作が総管に就任。上洛した久坂らは尊王攘夷派公家・三条実美と結び、同8月13日、孝明天皇の大和行幸を発表。孝明天皇が神武天皇陵や伊勢神宮を行幸することを名目に長州が警護として同行、倒幕まで行う計画でしたが、公武合体派であった孝明天皇は難色を示し京都守護職・松平容保に相談。同18日、八月十八日の政変により、長州は禁裏への出入り禁止、長州藩主と世子は謹慎、三条実美ら尊王派公家7名は洛外追放となります。元治元年(1864年)、長州は武力で孝明天皇を奪い返すことを計画。隊を3つに分け、久坂・真木らは大坂天王寺、来島・国司らは嵯峨天龍寺、福原らは伏見長州藩邸に着陣。同24日、久坂は、朝廷に長州の禁を解除するよう嘆願書を提出。孝明天皇は拒否、長州に退去命令。同7月17日、長州幹部は石清水八幡宮で会議を開き、久坂は孝明天皇の退去命令を重んじる意見を出したと言いますが、強硬論が通り、同19日、長州は御所へ進軍。来島、国司隊は会津・桑名藩が守る蛤御門を攻めるも落とせず、来島は薩摩の援軍に胸を撃ち抜かれ自決。久坂隊は福井藩が守る堺筋御門を攻めるも落とせず、塀の外に門があった鷹司邸へ侵入。久坂と寺島は鷹司輔煕に自分たちを同行して参内し孝明天皇に申し入れを行うよう要求するも、輔煕は久坂らを振り払って脱出。残された久坂と寺島は互いを刺し違えて鷹司邸で自決(禁門の変)。享年、25歳。

 

 

 

角屋;京都市下京区西新屋敷揚屋町32