左は、トゲつき丸にYのマークは、明治26年創業の名古屋時計製造合資会社の出資者の一人吉村富三郎が明治35年に登録したマークです。
明治期のマークがなぜこの時計についているのか謎です。面白いので少し調べてみました。
まず、名古屋の時計産業の源流を辿ると、名古屋市史によると「明治17、8年ごろ岡崎の中条勇次郎と名古屋の水谷駒次郎という職人二人が掛け時計を製作」とあり、このうちの一人水谷駒次郎は腕を買われて、林市兵衛が興した時勢舎(後の林時計)の職長として最初に働きますが、その後名古屋時計製造合資会社の職長としてスカウトされます。
駒次郎は、名古屋時計製造合資会社で、自分の思うような時計を製造していましたが、日清戦争の不景気の中で、経営が傾き明治37年に解散します。駒次郎はその機械及び設備一切を譲り受けて、 明治37年、前ノ川町に水谷時計製作所を創立して、ボンボン時計の製造を始めたものの明治末期に廃業しています。(TIME KEEPERさん や日本古時計保存協会会長の資料より)
その後、職人達や機械や権利をどこが受けついだのか、記録にはありません。
ただ、水谷時計製作所の時代も吉村富三郎の資金援助を恩義に感じて、トゲ丸にYのマークを使っていたようで、いわば、水谷派という流れが名古屋の時計職人にあるとすれば、名古屋時計製造の本家のマークであり、水谷派の最初のマークがトゲ丸にYであったように思われます。
この頃 佐藤信太郎が、明治40年に佐藤時計製作所(明治32年創業の金城時計を改名)を経営しており、このメーカーは、戦後まで続きました。
さらに大正5年に三浦虎子太郎が出資、大橋美刀之助を代表社員として名古屋市中区御器所町鳥喰に合資会社三工舎が創業しました。三方置時計、金庫時計など個性のある変った時計を生産しており、戦後の昭和27に佐藤時計(後の飛球時計製造株式会社)に売却解散しています。
長々と名古屋の時計メーカーを並べましたが、この最後の三工舎と佐藤時計が謎のマークの時計を数多く作っている事も分かってきました。
実は、私のオーバーホールした時計は、機械にNEW ANSONIA KAIRYOとあります。
同じ機械を使った時計が、三工舎製の時計にも見られます。おそらく、トゲ丸のYのマークは三工舎製と見てほぼ間違いないと思います。
(吉村富三郎のトゲ丸にYマークにプレートはSK三工舎のマークのついた時計です)
三工舎は、アセンブリの得意な会社で、デザインや機械の改良など職人気質の強い印象を受けました。この辺りは、TIME KEEPERさんも同じ思いを書かれています。三工舎が水谷派を受けついだのではないかと。
三工舎は、アセンブリの得意な会社で、デザインや機械の改良など職人気質の強い印象を受けました。この辺りは、TIME KEEPERさんも同じ思いを書かれています。三工舎が水谷派を受けついだのではないかと。
さらに、佐藤時計は、mizu のブランドの時計を作っており、水谷のmizu を思わせます。
この3社はともに、機械を融通しあっていたようで、三工舎の時計の一部は、佐藤時計のOEMではないかとの推測もありえるのではないかと思っています。現実に、とても個性的な舘本時計は、佐藤時計のOEMだと分かっています。いい意味で佐藤時計は黒子となって、面白い攻めた時計を当時から作っていたのではないかと思われます。
このように三工舎と佐藤時計は互いに密接に繋がりながら、その流れには、元祖水谷駒次郎への職人としての思いが強く現れているように思います。
最後にもう一社 合名会社水谷時計製作所があります。TIME KEEPERさんから引用しますと、
合名会社 水谷時計製造所
水谷才次郎(明治11年生れ)は初めに金城時計製造所に入り、翌年河合時計製造所に転勤して約三年を過ごした。
明治44年に名古屋神楽町で掛時計と原料の卸商を開業し、大正14年には安房町にラージ、ファウスト等専ら天府振り掛時計の製造を 始めたが工場は戦争で閉鎖。戦後は卸商として活躍した。
この水谷才次郎が、駒次郎とどういう関係か謎ですが、キャリアのスタートが佐藤時計の前身の金城時計であり、機械の組み立てを得意としたと記録にもあり、佐藤時計と同じように、OEMで時計を作っていた会社であるようです。
面白い事に、トレードマークを比較すると、ひし形にSTが、佐藤時計、SKが三工舎、 SMが合名会社水谷 ととても似ています。
偶然の一致とはいえ、一連の同じ職人の流れ、人脈が繋がっているように思えてなりません。
元祖とも言える水谷駒次郎が、時計製造の経営から退いた明治末に、その一派が、どの会社に合流したか、あるいは分散したか、この辺りが分かってくると、謎のマークや攻めたOEMブランドの存在が一連のつながりとなって道筋が見えてくると思います。ご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示ください。
長々と書きましたが、スリムで存在感のあるデザイン。機械はアンソニア型を超えて改良を加えた、NEW ANSONIA。とても個性を感じる時計を見ると、Yマークの謎を辿ってみたくなりました。
遅れましたが、右は昭和初期頃の製造の明治時計です。振り子窓がレトロな草模様になって趣があります。
扉は一枚板のくり抜き加工で、経年変化で割れやすいのですが、乾燥が良かったのでしょうか幸いに割れはありません。
底には、真鍮の足がつけられていて、置き時計の様な使い方も出来る様になっています。
幸い機械もゼンマイ切れもなく、いい状態ですが、残念な事に、頭飾りに真鍮の画鋲が並んで刺さっています。当時のオリジナルかと思ったのですが、一つ画鋲を外してみると、錆のない新しいもので、板には数珠の形の塗装の跡がありましたので、頭の数珠飾りが欠損したため、どうも画鋲で跡を隠したようです。
箱は、チークオイルでメンテナンスしました。
ともに、いい感じに精度を追い込んで、完成も近づいています。