■『スリー・ビルボード』
やりすぎ限界映画:☆☆☆☆★★★[95]
2017年/イギリス=アメリカ映画/116分
監督:マーティン・マクドナー
出演:フランシス・マクドーマンド/ウディ・ハレルソン/サム・ロックウェル/アビー・コーニッシュ/ジョン・ホークス/ピーター・ディンクレイジ/ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ/ルーカス・ヘッジズ/ケリー・コンドン/ダレル・ブリット=ギブソン/ジェリコ・イヴァネク/キャスリン・ニュートン/サマラ・ウィーヴィング/クラーク・ピータース/サンディ・マーティン/アマンダ・ウォーレン/マラヤ・リヴェラ・ドリュー/ブレンダン・セクストン三世/ジェリー・ウィンセット
■2018年 劇場公開作品 18本目
「予備知識皆無」で『スリー・ビルボード』を見て一番気になったのは、あまりに恐るべき極限のくそリアリズム「あり過ぎ」で「実話」に見えること。だが「完全」「創作」だった。
「話」「内容」は「何一つ殆ど砂粒ほども知らなかった」でも、「2018年第74回ベネチア国際映画祭脚本賞」「2018年第92回キネマ旬報ベスト・テン外国映画1位」「スクリーン2018年度第64回外国映画ベストテン1位」…………である「噂」は聞いてた。それが「完全」「創作」だったと思い知り「超警戒」。「絶対だまされない」と身構えた。
「こんな悪い奴本当にいるのか?」 「サム・ロックウェル」「ディクソン」の「最凶悪」ぶりの「怖さ」に「おしっこ垂れ流し」。ここまで「最凶悪」の「警察」がアメリカには「実在」するのか? 実在の「モデル」がいるから映画化されたのか? 「マーティン・マクドナー監督」の映画を初めて見たが、あまりに恐るべき極限のくそリアリズム「あり過ぎ」なのは、何か基になった「事件」「人物」があるのか「不安」に追い込まれた。「南部」と聞いて根深い「人種差別」を思い出し、ここまで「最凶悪」の「警察」が「まだ」アメリカに「実在」する「かもしれない」「恐怖」「不安」を感じたが、「全部嘘だったらどうしよう?」の方に「もっと」「恐怖」「不安」を感じた。
「自分が他人にしたことは、いずれ全部自分に返ってくる」。「こんな悪い奴本当にいるのか?」まで、「最凶悪」な「警察」「サム・ロックウェル」「ディクソン」が、どれほど恐るべき「壮絶極まりない」「最期」を迎えるのか? 『スリー・ビルボード』という映画は、「サム・ロックウェル」「ディクソン」が、どれほど恐るべき「壮絶極まりない」「最期」を迎えるかを見せる映画なのだと、僕の「偏見」「先入観」「思い込み」が「極限領域」で「勝手に」「確信」した。
だが「完全」に「だまされた」。「ごめんなさい」「本当に申し訳ありませんでした」「心から謝罪致します」。何で「2018年第74回ベネチア国際映画祭脚本賞」「2018年第92回キネマ旬報ベスト・テン外国映画1位」「スクリーン2018年度第64回外国映画ベストテン1位」だったのか? 恐るべき『スリー・ビルボード』「マーティン・マクドナー監督」の「怖さ」に「泣きながら」「大きい方垂れ流し」。恐るべき「愛の映画」。
「警察」ではないかもしれないが、「サム・ロックウェル」「ディクソン」級「こんな悪い奴」は「実在」する。だから『スリー・ビルボード』が作られた。
「フランシス・マクドーマンド」は恐るべき “極限ダイナマイト・ボンバー・ギャル” 「じゃないかもしれない」が、「凄かった」。「全部」は褒められないが「部分的」には「敬意」「賞賛」「崇拝」。だが『スリー・ビルボード』は、「フランシス・マクドーマンド」が「やったこと」「だけ」を恐るべき極限のくそリアリズムで見せるための「創作」じゃない。
「自分が他人にしたことは、いずれ全部自分に返ってくる」、「まで」程度「しか」「考えることができなかった」僕の「猿知恵」を、『スリー・ビルボード』に「これでもか」と「再起不能」まで思い知らされ「泣きながら」「大きい方垂れ流し」。
「申し訳ありませんでした」。
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画像 2021年 8月