『ニキータ』 | やりすぎ限界映画入門

やりすぎ限界映画入門

ダイナマイト・ボンバー・ギャル @ パスタ功次郎

■「やりすぎ限界映画工房」
■「自称 “本物” のエド・ウッド」


■『ニキータ』
やりすぎ限界映画:☆☆☆☆★★★[95]

1990年/フランス映画/117分
監督:リュック・ベッソン
出演:アンヌ・パリロー/ジャン=ユーグ・アングラード/ジャンヌ・モロー/チェッキー・カリョ/ジャン・レノ/ジャン・ブイーズ

1991年 第7回 やりすぎ限界映画祭
1991年 ベスト10 第9位:『ニキータ』
やりすぎ限界女優賞/やりすぎ限界男優賞/やりすぎ限界監督賞/やりすぎ限界脚本賞:『ニキータ』


[ネタバレ注意!]※見終わった人が読んで下さい。



やりすぎ限界女優賞:アンヌ・パリロー


やりすぎ限界男優賞:ジャン・レノ


[「実話」と「フィクション」]



「スパイ」には一体どんな人間がなるのか? 『007』シリーズ、『ミッション:インポッシブル』シリーズなどに登場する「スパイ」。僕は実際自分の目で「一度も見たことがない」ので、「本当にスパイなんているの?」と思ってたが、アメリカの「CIA」、1987年の大韓航空機爆破事件の「金賢姫」などの存在から、「現実」であることを思い知った。



「一度も見たことがない」人間にとって、スパイが実際どんなことをするかは、あらゆるメディアから知るしかない。報道や出版物には現実の「実話」と創作の「フィクション」が混在する。映画にも「実話」と「フィクション」が混在する。また「実話」を諸事情により「フィクション」と偽る場合もある。「実話」と「フィクション」を見極めるには、知ったことが「真実」か「嘘」かを調べるしかない。

[「実在のスパイ像」恐るべき極限のくそリアリズム]



だが「真実」と「嘘」を調べるにも限界がある。当事者でない限り、この世の大多数の人間に、スパイがどんな人間かを完全に知ることはできない。どんなに真実が知りたくても、「一度も見たことがない」人間には結局想像しかできない。



『ニキータ』がなぜ映画史に刻まれる偉大な映画なのか? 『ニキータ』が成し遂げた偉業は、殆ど誰も見たことがないスパイがどんな人間か、「想像力」で「人物像」を追究し、「本当にそう見える」まで、真実が「恐らくこうであろう」というまでの「仮説」を「成立」させ、世界中の観客を「納得」させたから。「リュック・ベッソン監督」が創作した「実在のスパイ像」が、僕には「実話」にまで見えた。『ニキータ』の恐るべき極限のくそリアリズムに震撼した。

[「国家のために命を捨てられる人間」「死んでも任務を遂行する人間」]



「ロジャー・ムーア」の『007』のように一目瞭然で「嘘」にしか見えない創作。『ミュンヘン』のように「真実」にしか見えない創作。『ニキータ』の創作が「嘘」を通り越して「実話」に見えるのがなぜかを考える。



多くの「スパイ映画」の「共通点」。「国家のために命を捨てられる人間」「死んでも任務を遂行する人間」。「もし」僕がスパイだったとして、「国家のために命を捨てられる人間」「死んでも任務を遂行する人間」になど本当になれるだろうか? 僕は死ぬのが怖い。スパイになんか絶対なりたくない。「国家のために命を捨てられる人間」「死んでも任務を遂行する人間」までの強い「精神力」になど、とても到達できない。一体どんな人間なら現実になれるのか?



実際はアメリカの「CIA」のように、「崇高な志を持った優秀な人間」が多くなるのかもしれない。だが世界中の全てのスパイが「崇高な志を持った優秀な人間」とは限らない。報道や出版物から「真実」であることが証明された北朝鮮の日本人拉致事件で、“本物” のスパイ「金賢姫」に日本語を教えたのは「田口八重子さん」なのだろう。殆ど実話に見える『レッド・ファミリー』のようなことは現実に実在してる。逆に今となっては『レッド・ファミリー』の真実が、1990年の「リュック・ベッソン監督」の「仮説」の「真実かもしれない可能性」を証明した。



『ニキータ』は「嘘」かもしれない。だが『ニキータ』の「怖さ」とは「嘘に見えない」こと。どうしたら「国家のために命を捨てられる人間」「死んでも任務を遂行する人間」になれるかが、「本当にそう見える」まで、「本当にあるんじゃないかと思わせる」まで、「成立」させた「リュック・ベッソン監督」の「想像力」が『ニキータ』の「怖さ」。「ブリジット・フォンダ」「マギー・Q」と、現代まで30年間に渡リメイクされ続けるのが理解できる面白さ。そして『レオン』が、「掃除人」(ジャン・レノ)の『ニキータ2』かもしれない面白さ。恐るべき「極限のやりすぎ限界映画」に「現代の視点」で「絶句」した。

[現代の「寓話」]



「イソップ寓話」の『アリとキリギリス』か? 「グリム童話」の『ハーメルンの笛吹き男』か? 『ニキータ』が恐るべき現代の「寓話」に見えた。



「スパイ」には一体どんな人間がなるのか? 「人間が絶対断れない理由」に「絶句」。警察官を殺害した薬物依存の犯罪者ニキータ(アンヌ・パリロー)の罪は、もう永遠に許されないのか? 「自分が他人にしたことは、いずれ全部自分に返ってくる」。「人を殺した人間」が受ける「永遠に人を殺さなければならない」罰。「「地蔵菩薩本願経 巻上」より これらのごとき輩は まさに無間地獄に堕ちる」。生涯「殺される恐怖」を背負って生きねばならないニキータ。「刑務所」が救いに見えるほどの「地獄」に「震撼」「驚愕」「圧倒」された。

[「アンヌ・パリロー」対「ブリジット・フォンダ」「限界悩殺美脚ダイナマイト・パンスト」対決]


■ブリジット・フォンダ



■『アサシン』より

「これだけ反省してるからもう許してあげたい」。『ニキータ』を見た人はみんなそう思うに違いない。「泣き虫の殺し屋、ニキータ。」の惹句に惹き込まれるのは、恐るべき “極限ダイナマイト・ボンバー・ギャル” 「アンヌ・パリロー」の「極限の美」に心奪われるから。



「食べ物」や「異性」の「好み」は年齢で変化する。「28年前」好みではなかった「アンヌ・パリロー」が、「現代の視点」で恐るべき “極限ダイナマイト・ボンバー・ギャル” に変化してた。瞬間で「時間が止まった」。『やりすぎ限界映画』とは?[定義⑤]『恋愛映画における女優の私見』において、「ジャン=ユーグ・アングラード」との恋に救いを求めた「アンヌ・パリロー」を見て、“本気” で結婚したいと思った。『ニキータ』は「もうこれ以上美しくアンヌ・パリローを撮れない限界点に到達してる映画」の1本。恐るべき「極限の美」に「眩暈」がした。




今日まで30年近く、リメイク映画『アサシン』を崇拝してた。恐るべき “極限ダイナマイト・ボンバー・ギャル” 「ブリジット・フォンダ」の、「ブリジット・フォンダ限界悩殺美脚ダイナマイト・パンスト」に、「アンヌ・パリロー」は絶対勝てないと思ってたから。だが僕の間違いを思い知る時がきた。『ニキータ』対『アサシン』が「28年間」の時を経て、「アンヌ・パリロー限界悩殺美脚ダイナマイト・パンスト」対「ブリジット・フォンダ限界悩殺美脚ダイナマイト・パンスト」に変化した。「アンヌ・パリロー」対「ブリジット・フォンダ」の「限界悩殺美脚ダイナマイト・パンスト」対決の勝敗が、永遠に決められないまでの “棲息速度域” に到達した。




画像 2019年 2月