「やりすぎ限界映画」とは?[定義⑤] | やりすぎ限界映画入門

やりすぎ限界映画入門

ダイナマイト・ボンバー・ギャル @ パスタ功次郎

■「やりすぎ限界映画工房」
■「自称 “本物” のエド・ウッド」




■第2稿 2018年 5月1日 版

[『恋愛映画における女優の私見』]


■綾瀬はるか


■新垣結衣

「もし僕が映画監督だったら」、被写体の女優と公私混同するくらい「この女と結婚したい」と思ってなければ、僕はその女優を極限まで美しく撮ることはできないと思う。映像というものが「本当に走らなければ走ってるように見えない」「本当に殴らなければ殴ってるように見えない」ことを、僕は映画学校の学生時代に学んだ。完全な真実が映ってしまう映像では、「嘘の映像」で観客を騙す方が難しい。だから「芝居」は難しい。もし僕が、本当は被写体の女優が好きではなく、実は美人だと思ってなかったら、その思ってない気持ちは全部映像に映ってしまう。人間の「思考」は全部「行動」に表現され、絶対隠し切ることはできないだろう。




[「恋愛映画」に求める「癒し」「憧れ」]


■アン・ハサウェイ


■イ・ナヨン

僕は「恋愛映画」というジャンルに「癒し」を求めてる。人間には「苦痛から逃げたい」本能と「幸せになりたい」憧れがある。バッド・エンドの映画よりハッピー・エンドの映画がうけるのは、「安心」を得たい憧れだろう。それほど人間の現実は辛くて苦しい「不安」ばかり。僕だって幸せになりたい。自分が不幸なら不幸なほど「幸せになりたい」「安心」への憧れは強くなる。「恋愛映画」の世界に「癒し」を求める観客は多いだろう。





■ヴァネッサ・パラディ


■韓英恵

また僕は「恋愛映画」を生きる努力の目標にもしてる。「癒し」の世界を見て「こんな美人と結婚したい」と思う「憧れ」が、苦しい現実で努力するための、僕には「目標」「エネルギー」になってるのかもしれない。




[女優の「結婚したい」と思わせる魅力]


■キーラ・ナイトレイ


■クリステン・スチュワート

「恋愛映画」で「男」に「癒し」「憧れ」を与えてくれる女優。女優が魅せる「癒し」「憧れ」の “核” こそが、僕は「この女と結婚したい」と思わせる魅力なのだと考える。





■コン・リー


■ジェニファー・ローレンス

僕に「この女と結婚したい」と思わせた女優を、僕は心から「尊敬」「賞賛」「震撼」してしまう。「この女と結婚したい」と思わせた女優に跪き、「下僕」と化す以外なす術を失う。





■ジョウ・シュン


■チャン・ツィイー

僕は男なので「女性の視点で女性を共感させるものはわからない」。だが僕にとって女優は、「芝居をする」他に、「この女と結婚したい」と思わせる魅力がなければ、僕は「心に残る忘れられない映画」として感情移入することができない。僕にとって「恋愛映画」の魅力は、「この女と結婚したい」と、どこで「悩殺」させられてしまったかなのだと思う。





■橋本愛


■ペ・ドゥナ

一人の映画ファンとして僕にとって女優は、脚本や監督の演出を超えた部分で、「この女と結婚したい」と思わせられるかどうかが最も重要なのだと思う。僕にとって「心に残る忘れられない映画」になるかどうかが決まる、「絶対領域」なのかもしれない。




[「映画」と「イメージ映像」の違い]


■ペネロペ・クルス


■満島ひかり

また女優がどんなに美しくても「つまらない映画」はかなり多い。「映画」とアイドルの「イメージ映像」は絶対違う。やりすぎ限界映画においての「恋愛映画」は、「この女と結婚したい」と思わせるほど、「もうこれ以上この女優を美しく撮れない限界点に到達した映画」であるか、そして「人種」「性別」を超えて「共感」できる「面白い映画」に成立してるかを、審査の基準に「忘れないよう」心掛けたいつもり。




『やりすぎ限界映画』とは?[定義①]
『やりすぎ限界映画』とは?[定義②]
『やりすぎ限界映画』とは?[定義③]
『やりすぎ限界映画』とは?[定義④]
『やりすぎ限界映画』とは?[定義⑤]

画像 2018年 9月