「やりすぎ限界映画」とは?[定義①] | やりすぎ限界映画入門

やりすぎ限界映画入門

ダイナマイト・ボンバー・ギャル @ パスタ功次郎

■「やりすぎ限界映画工房」
■「自称 “本物” のエド・ウッド」

やりすぎ限界映画入門


■第3稿 2018年 4月25日 版

[『やりすぎ限界映画入門』]

「感動」とは「共感」である。

人間が映画を見て怒り、笑い、泣いたりするのは、「登場人物の感情」や「テーマが訴える価値観」に「共感」するからだ。感情移入できる「共感」の「多い」「少ない」が、その人間にとっての「面白い映画」「つまらない映画」を決める。

「本当に共感できること」を描かなければ人間を共感させることはできない。表現の世界では「本当に共感できること」に「リアリズム」という言葉を使う。映画においては「どこまで本当のことに見えるか?」が「リアリズム」の優劣を決める。名作と言われる映画が多くの人間に共感されるのは、多面的に多くのリアリズムがあるから。またつまらない映画が「こんなの嘘だ」と共感されないのは、感情移入できるリアリズムがないからだ。「眠くなる」のは「感情移入できない」正直な感想となる。

だがリアリズムが多い「名作」を見ても感動できなくなった人間達がいる。「人間失格」「血尿が流れた」「死の直前」など、「最低の限界状態まで追いつめられた人間」達だ。人間が到達する「極限の感情」と「極限の行動」の真実を見た人間。極限まで人間の醜さ汚さを思い知らされた人間。これらの人間には「名作」が「共感できない昔の価値観」へと変化したせいだ。

名作の基準を越えた「もうやりすぎ」という映画。鑑賞後に不快な気分に陥る極限のリアリズムがある映画。灰色で誤魔化さない白黒の結論が明確な映画。「最低の限界状態まで追いつめられた人間」達が「共感」する映画が「やりすぎ限界映画」だ。

追いつめられた経験がない普通の人間には、「やりすぎ限界映画」こそ「こんなの嘘だ」と共感できないだろう。だが「やりすぎ限界映画」に共感できないことは、「幸せ」かもしれない。「やりすぎ限界映画」に共感しない人間こそ正常な人間であり、共感する「最低の限界状態まで追いつめられた人間」は、もはや危険異常者の可能性が高いのかもしれない。

「映画を見ること」は「人間の行動を見ること」。「人間の行動を見ること」は「人間の思想を見ること」。

人間は大きく二種類に分かれる。「善人」と「悪人」。または「他人のことを考える人間」と「他人のことを考えない人間」。「やりすぎ限界映画」は良くも悪くもその「極限」に到達した人間を描く。「やりすぎ限界映画」が見せるのは人間の “本気” で生きる姿だ。

映画は絶対1人では作れない。映画製作は数多くの人間との共同作業。膨大な思想の激突を経て1本の映画が完成する。膨大な問題を克服する計り知れない作業から1本の映画が生まれる。映画自体、完成することが本当は「奇跡」なのかもしれない。

「やりすぎ限界映画」は「奇跡」の中の「奇跡」の映画。「極限」の「人間の思想を見ること」など滅多にできないからだ。だから「奇跡」の中の「奇跡」の思想を観れることに、「歓喜」と「感謝」を感じずにいられない。「やりすぎ限界映画」が見せる「行動」「思想」は、自分の人生を意味あるものに変える、何かを見出させてくれるはずだ。だから僕は、「奇跡」を生み出した人間達、「誰にでも真似できることではない」「偉業」を成し遂げた人間達、「やりすぎ限界映画」を製作したスタッフ達を、心から尊敬し賞賛する。


『やりすぎ限界映画』とは?[定義①]
『やりすぎ限界映画』とは?[定義②]
『やりすぎ限界映画』とは?[定義③]
『やりすぎ限界映画』とは?[定義④]
『やりすぎ限界映画』とは?[定義⑤]

画像 2012年 8月