「映画を見ること」の大切さ1 | やりすぎ限界映画入門

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ダイナマイト・ボンバー・ギャル @ パスタ功次郎

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■第3稿 2018年 4月26日 版

[「自分のことを知らない」]

■「映画を見ること」は「自分以外の人間の思想を知ること」。

本を読むことも同じ。人間は誰でも自分一人の思考に限界がある。自分の価値観を変化させる「想像力」「知識」を得る方法は、「自分以外の人間の思想を知る」しかない。自分が異性にもてないなら「自分以外のもてる人間の思想を知る」ということ。「映画を見ること」で、自分の人生は変えられると僕は信じる。

「あなたの好きな映画を教えて下さい」と質問され、瞬時に「生涯の映画ベスト10」「その選考理由」を答えられる人間は殆どいない。殆どの人間が、自分の好きな映画を2、3本しか答えられない。これほど「自分の好きなもの」に対し、徹底的な自己葛藤をしてる人間は少ない。この世の殆どの人間が、自分で「自分のことを知らない」。映画でも本でも「それを面白いと思う自分のことを知らない」から、「何で自分がそれを面白いと思うのか」を他人に説明できない。

[「自分のことを知らない」から「自分を知る」へ]

「映画を見ること」は「自分という人間を客観視する作業」でもある。映画館で見た時の観客の反応がわかりやすい。「皆が笑うのに自分は笑わない」「自分が笑うのに皆は笑わない」。「映画を見ること」は「ある共通の体験を他人と共有すること」だ。「面白い映画」「つまらない映画」の、「自分の価値観」と「他人の価値観」との比較が、映画館では自分と最大公約数の「社会の価値観」にまで拡がり、その「ズレ」を知ることができる。誰も笑わない部分で自分だけ笑う価値観こそが自分の「個性」だ。あるいは社会の価値観から間違ってる自分を思い知る現実となるかもしれない。

「自分の好きなもの」への自己確認。「自分と他人との比較」。これらの追究から人間は、自分に一番大切な「信念」「価値観」「倫理観」を知ることができる。さらに数多く映画を見続けていくと、自分が共感した映画全てに共通する「信念」「価値観」「倫理観」も見えてくる。「自分が好きなもの」を「好きな理由」、自分が知らなかった「自分を知る」作業となっていく。

[「自分以外の人間の思想を知る」]

自分がどんな人間か覚醒した後、同じ映画を見た「他人との会話」が最も大切になる。「映画を見ること」の大切さがここにあると思う。「自分は眠くなったのに泣いてる人間がいる」。僕自身がそうだった。「どうして泣いたのか教えて下さい」ということが、「自分以外の人間の思想を知ること」なのだ。

完全に自分と同じ思想の人間は、絶対この世に二人といない。「どうして泣いたのか教えて下さい」は、自分に全く想像できなかった新しい「信念」「価値観」「倫理観」を知る作業。この会話によって、自分の「欠点」や「間違い」、「これしか考えられなかった自分」が見える。「自分以外の人間の思想を知る」ことができる。

「自分以外の人間の思想を知る」ことで、自分の価値観を変化させる「想像力」「知識」はいくらでも得られる。それはさらに、自分に一番大切な「信念」「価値観」「倫理観」を増していく作業に繋がる。映画はそんな役立ち方もする。「映画を見ること」は「自分以外の人間の思想を知ること」なのだと僕は思う。


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画像 2012年 8月