「創作の世界のリアリズム」について | やりすぎ限界映画入門

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■『ターミネーター2』
やりすぎ限界映画:☆☆☆☆★★★[95]

1991年/アメリカ映画/137分
監督:ジェームズ・キャメロン
出演:アーノルド・シュワルツェネッガー/リンダ・ハミルトン/エドワード・ファーロング/ロバート・パトリック


■第3稿 2018年 4月25日 版

[「創作の世界のリアリズム」について]

「フィクション」という「作り話」の中に「リアリズムがある」という言葉で評価される作品がある。

映画に限らずTVや舞台、本などの表現世界で、「フィクション」と表記されるものは全て「作り話」だ。中には法に触れるなどの都合で、実話を「フィクション」と偽る場合もある。だが「フィクション」と表記された作品は、どんなにリアリズムがあっても「創作」が前提であることを忘れてはいけない。

映像には真実を描くドキュメンタリーというジャンルがある。だが「創作の世界のリアリズム」がまた別なことを、ジェームズ・キャメロン監督の『ターミネーター2』を例に説明する。

あるテーマを観客に伝えるため、どんな物語にしたら一番都合が良いかで「創作」が行われる。キャメロン監督は「反戦」「核の恐怖」を伝えるのに、「核戦争で滅んだ人間社会」「機械と人間との戦い」という架空の物語を創作した。SFの方がドキュメンタリーよりも幅広く、子供から大人までわかりやすいジャンルだと判断したことが推測される。だが「未来の世界からタイムマシーンでターミネーターがやってくる」のは、「子供マンガ」レベルの「全くリアリズムがない」大嘘だ。

「創作の世界のリアリズム」が別である原則は、まず作り話が大前提なので「ある大きな一つの嘘」は大前提で許されなければならないということ。それが「ドキュメンタリー」と「創作」で完全に違う部分だ。

したがって、

■「ある大きな一つの嘘の事件が起きた時、人間はどう反応するのか?」

において、

■「その人間の反応のリアリズムが、観客を共感させることができるかできないかを決める」

ということとなる。

「もし本当にターミネーターがやってきたら人間達は一体どうなるのか?」 このリアリズムが、観客の共感を得られるかどうかを決める。これがドキュメンタリーとは違う「創作の世界のリアリズム」だ。




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画像 2012年 8月