『アキレスと亀』 | やりすぎ限界映画入門

やりすぎ限界映画入門

ダイナマイト・ボンバー・ギャル @ パスタ功次郎

■「やりすぎ限界映画工房」
■「自称 “本物” のエド・ウッド」


■『アキレスと亀』
やりすぎ限界映画:☆☆☆☆★★★[95]

2008年/日本映画/119分
監督:北野武
出演:ビートたけし/樋口可南子/柳憂怜/麻生久美子/中尾彬/伊武雅刀/大杉漣/大森南朋/筒井真理子/吉岡澪皇/円城寺あや/徳永えり

2008年 第24回 やりすぎ限界映画祭
2008年 ベスト10 第11位:『アキレスと亀』
やりすぎ限界男優賞/やりすぎ限界女優賞/やりすぎ限界監督賞/やりすぎ限界脚本賞:『アキレスと亀』


[ネタバレ注意!]※見終わった人が読んで下さい。



やりすぎ限界男優賞:ビートたけし


やりすぎ限界女優賞:樋口可南子


やりすぎ限界女優賞:麻生久美子


やりすぎ限界男優賞:吉岡澪皇


■第2稿 2017年 10月30日 版

[北野武監督第14作目]



『座頭市』の後「3部作」と言って北野監督は『TAKESHIS'』『監督・ばんざい!』『アキレスと亀』を撮った。何の「3部作」か解らなかった。だが『アキレスと亀』を見て理解できた「かもしれない」。『ランボー 最後の戦場』『ダークナイト』『僕の彼女はサイボーグ』『フレフレ少女』の時代。「難解」と言われる『アキレスと亀』に挑む。

[「人間北野武3部作」]

DVD映像特典『監督・北野 武が語る『監督・ばんざい!』』において、「3部作」を『TAKESHIS'』は「役者のキャリア」、『監督・ばんざい!』は「監督のキャリア」、『アキレスと亀』は「あまり進化しない映画」、を「壊す」と監督自身が語った。



■「おい 口紅あるか?」
 「口紅?」
 「うん」
 「あんた やめて
  やめて
  狂ってる
  あんた もう狂ってる
  人間じゃない
  人間じゃない!」


「娘の死体の顔に口紅を塗る父親」倉持真知寿(ビートたけし)。母親幸子(樋口可南子)の言う通り「狂ってる」。誰が見てもいい気分はしないだろう。わざと「観客が見たくない映像」を撮ったのかもしれない。『アキレスと亀』は「娘の死体の顔に口紅を塗る父親」を、撮らずにいられなかった映画監督北野武、人間北野武の内面を描いた映画に見える。また「娘の死体の顔に口紅を塗る父親」を見て、『TAKESHIS'』『監督・ばんざい!』との繋がりが見えた気がした。



映画監督細野辰興の「教え」。「映画監督は一度は等身大の自分を描いた作品を撮る」。これは日本映画界だけかもしれないが、「黒澤明」「溝口健二」「小津安二郎」……、に到る全ての監督がそうらしい。北野監督が「等身大の自分を描いた」と思われるのが『TAKESHIS'』『監督・ばんざい!』『アキレスと亀』。この「3部作」は「人間北野武3部作」に見える。

[北野監督の「謙遜」]



9月28日に放送されたフジテレビ『みなさんのおかげでした30周年SP』で「保毛尾田保毛男」復活に対し激しい抗議の声が上がった。10月16日のAbemaTV『AbemaPrime』にウーマンラッシュアワーの村本大輔さんが出演し、「LGBT」と「表現」の問題について議論した。

■「漫才の中での “年配よりも若い女性の方がいい” という発言に対して “傷ついた” という意見をもらったことがある。でも、みんなが笑うものって、突き詰めていけば誰も触れないものとか、差別しているような意識がある。ハゲを扱うこともそう。普段笑っているもの、発している言葉のひとつひとつを見ていけば、誰も傷つけずに喋り切ることはできないと思う」
(『BLOGOS』「日本のテレビがLGBTをお笑いにするのは “時期尚早” だったのか 「保毛尾田保毛男」問題にLGBT当事者とウーマン村本の意見は」より)

以下に書く文章は「全部僕の推測でしかない」。「北野武監督本人に会ったことはない」から。


■『あの夏、いちばん静かな海。』より

■「僕、たけしという人、好きじゃなかったの。だから、この人の映画、一本も見なかった。ところがこの映画見て、なんていい人かわかった。うまいの。おおげさに言ったら、映画知ってる」
(『おしゃべりな映画館③』より)

淀川先生が「好きじゃなかった」と言う映画監督になる前のビートたけし。『オレたちひょうきん族』の「タケちゃんマン」の惹句は「強きを助け 弱きをにくむ」。当時「教育に悪い」めちゃくちゃなことをしてた。「小学校」で僕は「『オレたちひょうきん族』を見るな」と言われた記憶がある。「誰も傷つけずに喋り切ることはできないと思う」と言うウーマン村本さんのように、北野監督も同じだったかもしれない。


■『TAKESHIS'』より

■「ものすごい、良い映画というのは、のめり込んだ人達の作品であるのね。で、その反対側にポツンと衛星のように、惑星か、のように俺の映画がある訳。これがないと俺の映画は成り立たない訳。でも、英語で言えばアウトスタンディングなんだよ。なぜアウトスタンディングかと言うと、本流があるからだよね。そういう意識でしかないの」
(DVD映像特典『TAKESHIS' TAKESHI』より)



今は「監督・ばんざい!賞」の「世界の北野」でも、昔の「フライデー事件」を忘れてない人もいる。「謙遜」とは裏腹にどんどん「世界の北野」へと昇りつめてく評価に、「自分はそんな偉大な人間ではない」ことを訴えたかったのではないだろうか?

[「人間北野武3部作」共通点「紙一重」]


■『TAKESHIS'』より

「役者のキャリア」を壊す『TAKESHIS'』。「大スター」と「アルバイト」。「顔がそっくり」なのにここまで「格差」がある世の中の「理不尽」「不平等」「不公平」。


■『監督・ばんざい!』より

「監督のキャリア」を壊す『監督・ばんざい!』。興業的成功を強いられる「不安」に行きづまり「病院」に行く、普通の人間と変わらぬ姿。



「あまり進化しない映画」を壊す『アキレスと亀』。「売れる絵」と「売れない絵」は「良い映画」と「悪い映画」の投影か? 「優れた芸術」とは何をもって決まるのか?



「人間北野武3部作」の共通点は「紙一重」に見える。自分の「俳優」「監督」「作品」のキャリア全部を「紙一重」と「謙遜」してるように感じた。

[「パラドックス」]



■「パラドックス(paradox)とは、ギリシャ語で「矛盾」「逆説」「ジレンマ」を意味する言葉。数学・哲学の分野では「一見間違っていそうだが正しい説」もしくは「一見正しく見えるが正しいと認められない説」等を指して用いられる」
(『ニコニコ大百科』より)

タイトルの『アキレスと亀』とは「ゼノンのパラドックス」。「パラドックス」とは「一見間違っていそうだが正しい説」「一見正しく見えるが正しいと認められない説」。「映画」「絵」を含める「芸術」全般に「正しいものがない」ことを表現してるように見える。「自分が受けた評価の全部」を「紙一重」だと「謙遜」してるかのようだ。

[「娘の死体の顔に口紅を塗る父親」]



「フライデー事件」の時、北野監督の家族はマスコミの取材を受けた。北野監督は「約8ヶ月間謹慎処分」となった。



北野監督の家族はどんな心境だったのだろうか? 「全部僕の推測でしかない」が、「自分はいい父親ではなかった」こと、実の家族に対し「娘の死体の顔に口紅を塗る父親」のような酷いことをしてきた人間だと訴えたかったのかもしれない。「娘の死体の顔に口紅を塗る父親」の「人間じゃない」姿を見せたのは、自分への厳しさなのだろうか? 「世界の北野」と呼ばれるような、「自分はそんな偉大な人間ではない」、と言いたかったように僕には見えた。

[人間の「美点」と「欠点」]



人間の「美点」と「欠点」。「完璧な格好良い人間は絶対いない」。『アキレスと亀』は、「娘の死体の顔に口紅を塗る父親」が「こんなに美しい絵」を描くことを見せる。


■『あの夏、いちばん静かな海。』より

■「たけしのサービス精神なの。静かな映画作って、接吻も抱きあいもなく、これで終わったら、どうだろうというこわさがあったのね。最後に男を死なせたら、観客がどんなに喜んで帰るかという計算ができた。でも、この計算、僕にしたら、そう邪魔じゃない。やっぱり、泣きたい人もあるだろうから」
(『おしゃべりな映画館③』より)



『あの夏、いちばん静かな海。』の淀川先生の言葉。「娘の死体の顔に口紅を塗る父親」を支えた妻の「愛」は「極限の美」。人間の「美点」。妻の「愛」の美しさが北野監督の「サービス精神」「愛」に見えた。「娘の死体の顔に口紅を塗る父親」を撮らずにいられなかったのかもしれない。だが最期は「愛の映画」に変えて僕達を安心させてくれた。




[Previous]
『座頭市』
『TAKESHIS'』
『監督・ばんざい!』[前][後]
『アキレスと亀』

画像 2017年 10月