■『あの夏、いちばん静かな海。』
☆☆☆☆★★[90]
1991年/日本映画/101分
監督:北野武
出演:真木蔵人/大島弘子/河原さぶ/藤原稔三/寺島進/小磯勝弥/松井俊雄/石谷泰一/窪田尚美
1991年 第7回 やりすぎ限界映画祭
■やりすぎ限界監督賞/やりすぎ限界脚本賞:『あの夏、いちばん静かな海。』
[ネタバレ注意!]※見終わった人が読んで下さい。
■第2稿 2018年10月16日 版
[北野武監督第3作目]
第3作目が公開されるなど完全に無関心だった。『あの夏、いちばん静かな海。』の公開が、日本映画に偏見を持つ僕の、全人生を悔い改める大事件となった。淀川先生の壮絶評価が全世界を震撼させた。
■「僕、たけしという人、好きじゃなかったの。だから、この人の映画、一本も見なかった。ところがこの映画見て、なんていい人かわかった。うまいの。おおげさに言ったら、映画知ってる」
(『おしゃべりな映画館③』より)
『ダンス・ウィズ・ウルブズ』『羊たちの沈黙』『シザーハンズ』『ターミネーター2』だけが偉大な映画だと信じてた僕は、大きい方が出るギリギリだった。ルーカス監督とスピルバーグ監督が崇拝する、黒澤明以外の世界に通用する日本人映画監督。無知な自分の愚かさを懺悔した。僕は怖くなり初めて北野監督の映画を映画館に見に行った。だが当時の僕に、淀川先生の言葉は全く理解できなかった。
[北野武と淀川長治]
今この歳になって、淀川先生の言葉が少し理解できるようになった。今まで理解できなかったのは、僕自身が人間を知らなかったことに尽きる。『あの夏、いちばん静かな海。』の見方は淀川先生の仰る通りで、僕自身が教えてもらったことしかない。人間を見つめる淀川先生の視点に震撼する以外もはやなす術はない。
[「ノン・リアリズム」]
■「最近の日本映画、結構な評判をとったものでも、見とれんぐらい表現が貧しい。でもこれは、じっくり撮ってるし、いい感覚してますよ。
詩みたいにね、ノン・リアリズムで撮って、家族はどうしてるとか、どうやって知り合った、というような要らんことを全部省略してるの。男の子がいなくなっても、探したり葬式したり、そんな場面は出てこない。変にリアリズムしないところが、上手いよ、こいつ。きざだけど、洒落てる」
(『淀川長治のシネマトーク』より)
淀川先生が「ノン・リアリズム」と表現しても、北野映画全作品に共通するのは絶対的な「極限のくそリアリズム」。まず登場人物達が「本物の生きてる人間に見える」ことに始まり、映画の世界観が「現実の社会で実際に起きてることに見える」かが徹底して貫かれる。それが成立した上で「省略」した「ノン・リアリズム」の表現が、淀川先生に「きざだけど、洒落てる」と言わせた。21歳のくそガキには全く理解できなかった。
[「耳が聴こえない」]
■「主人公の男の子と女の子、二人とも耳が聴こえない、口がきけない同士なの。そういう持って生まれた不幸をテーマにして、楯にして、悲劇的なところに陥らない。そこはこの監督、偉いと思う」
(『淀川長治のシネマトーク』より)
■「あいつら きてた? 耳の聴こえない奴」
「いたいたいたいたいた」
「呼び出し聴こえなくて 出られなかったみたいですよ」
「失格だよな」
「多分」
「何だよ お前らちゃんと面倒見てやれよ」
現代の日本で聴覚障害者と耳が聴こえる人間達が仲良く遊んだり出かけたりする光景を僕は見たことがない。『あの夏、いちばん静かな海。』のサーフィン大会は、淀川先生の「ノン・リアリズム」の世界かもしれない。だが徹底した「本物の生きてる人間に見える」登場人物達への演出が、サーフィン大会を「現実の社会で実際に起きてることに見える」領域に到達させた。「ノン・リアリズム」の「聴覚障害者と耳が聴こえる人間が共存する理想郷」を、北野監督が「極限のくそリアリズム」で見せたのだ。「なんていい人かわかった」という淀川先生の言葉がもはや怖すぎ。21歳のくそガキには全く理解できなかった。
[「歩いてばかりおるの」]
■「このふたり、歩いてばかりおるの。延々と。女の子が絶対に何も求めない。もう疲れた、とか、あんた何食べたいの、なんていう素振りもしない。男の子のほうも、たまにはサンドイッチ持ってこい、とか求めないのね。
ただ淡々と、ふたり、仲よくしてるの。あれが日本人なの。この子たちはもう肉体的に結ばれているだろうけど、そんなシーンもない。日本人はアメリカ人のように感情を出さないでしょう」
(『淀川長治のシネマトーク』より)
「男は仕事」「女は家庭」が崩れ始めてる現代。僕が子供の頃見かけた大人の夫婦はまさに茂(真木蔵人)と貴子(大島弘子)だった。一人でバスに乗った貴子が降りて走るシーンが「現代の視点」で美しすぎた。もしこの二人が「美しすぎて見える」なら、現代の男女のあり方は歪んでることになってしまう。壊れ始めた男女のあり方を、北野監督が「静かな」演出で叩きつけた。21歳のくそガキには全く理解できなかった。
[「サービス精神」]
■「たけしのサービス精神なの。静かな映画作って、接吻も抱きあいもなく、これで終わったら、どうだろうというこわさがあったのね。最後に男を死なせたら、観客がどんなに喜んで帰るかという計算ができた。でも、この計算、僕にしたら、そう邪魔じゃない。やっぱり、泣きたい人もあるだろうから」
(『おしゃべりな映画館③』より)
映画監督にも「他人のことを考える人間」と「他人のことを考えない人間」がいる。「観客が見たい映画」を撮るのも「他人のことを考える映画監督」のあり方の一つ。映画には社会問題を叩きつけ、観客に苦しい現実と対峙させるあり方もある。だが現実が苦しいからこそ、映画を見てる時間は現実を忘れたい観客もいる。「なんていい人かわかった」という淀川先生の言葉に漏らした。21歳のくそガキには全く理解できなかった。
[「台詞がない」=「サイレント映画」]
■「しゃべれる人でもよかった。しゃべれるという設定でも、やっぱりあのくらいの会話しかないと思うね。
自分はしゃべる商売だから、セリフをつけるとなるとものすごく疲れるんですね。いろいろなことが気になって」
(『あの夏、いちばん静かな海。』プログラム より)
北野監督の当時のインタビューだが、主人公を聴覚障害者にしたのは「台詞を言わせない」ためだと僕は推測する。サイレント映画の頃からの大原則は「映画は目で見るもの」。淀川先生に「映画知ってる」とまで言われた北野監督は、「台詞を言わせない」ことで「全部を映像で見せた」。第3作目にして “本気” の「映画」に挑んだ。もう大きい方が出る限界ギリギリの真実だろう。「静かな海」の映像とは対極の、恐るべき攻撃的な演出にしか僕には見えなかった。
[「きざ」]
本当に「美しい」「静かな」映画は「やりすぎ限界映画」ではない。『あの夏、いちばん静かな海。』を☆☆☆☆★★★[95]にしたら僕は嘘吐きになってしまう。
淀川先生に「きざ」「モダン」と言われたかった。北野監督に心から憧れる。僕は残る人生を淀川先生に「きざ」「モダン」と言われる努力をして生きたい。
■『その男、凶暴につき』
■『3-4X10月』
■『あの夏、いちばん静かな海。』
■『ソナチネ』
■『みんな~やってるか!』
■『Kids Return』
■『HANA-BI』
■『菊次郎の夏』
■『BROTHER』
■『Dolls ドールズ』
■[Next]
画像 2014年 10月