『シザーハンズ』 | やりすぎ限界映画入門

やりすぎ限界映画入門

ダイナマイト・ボンバー・ギャル @ パスタ功次郎

■「やりすぎ限界映画工房」
■「自称 “本物” のエド・ウッド」


■『シザーハンズ』
やりすぎ限界映画:☆☆☆☆★★★[95]

1990年/アメリカ映画/105分
監督:ティム・バートン
出演:ジョニー・デップ/ウィノナ・ライダー/ダイアン・ウィースト/ヴィンセント・プライス

1991年 第7回 やりすぎ限界映画祭
1991年 ベスト10 第4位:『シザーハンズ』
やりすぎ限界審査員特別賞/やりすぎ限界女優賞/やりすぎ限界男優賞/やりすぎ限界監督賞/やりすぎ限界脚本賞:『シザーハンズ』

D.B.G.生涯の映画ベスト100
第38位:『シザーハンズ』


[ネタバレ注意!]※見終わった人が読んで下さい。



やりすぎ限界女優賞:ウィノナ・ライダー


やりすぎ限界男優賞:ジョニー・デップ


■第4稿 2019年 4月22日 版

[淀川長治「愛の映画」]


■淀川長治



『日曜洋画劇場』の『シザーハンズ』TV初放映時の淀川先生の解説が忘れられない。今DVDで見れる解説は再放映時のもの。初放映時は「5回」見て「5回」とも「泣いた」と言う解説。もう一度今この解説が見たいが見れない。大きい方を漏らすほど怖かった。僕は21歳のリアルタイムで見た時、『シザーハンズ』の “本質” が「全然」理解できなかった。「5回」とも「泣いた」という淀川先生の言葉が「理解できない」恐怖。人間として僕に「やさしさ」がないことを思い知らされる恐怖。「女にモテない」恐怖。「映画監督になれない」恐怖だった。



あらゆる本に掲載された『シザーハンズ』の評論から、淀川先生がどれほど好きだったかが伝わる。僕が『ロッキー・ザ・ファイナル』を映画館に「4回」見に行ったのは淀川先生の影響だった。「愛の映画」の意味が最近まで理解できなかった。なぜ「愛の映画」かは、僕にとって淀川先生の評論以上のものはないと今思う。僕は今も淀川先生から映画を学んでる。

[「まぁ可哀想に」]



■「ちょっと怖いね、グロテスクですね。長いハサミが、両手についてたんですね。そこへ、女の化粧品売りにきたおばさんが、それを見て「きゃーっ!」と言わないで、「まぁ可哀想に」、そう言ったんですね。いいなぁ、ここがいいですね。「まぁ可哀想に」「いらっしゃいいらっしゃい」」



■「化粧品売りのおばさんが、「まぁ可哀想ね」と言ったところで、この映画は見事な、愛の映画になりましたね。という訳で怖いもの、汚いものを見て、ああ汚いな怖いなと叩き潰す。こういう癖がありますね。みなさん毛虫を見ても蛇見てもああ怖いと叩きますね。殺しますね。蛇がどんな悪いことするんでしょうか? あの毛虫がどんな悪いことするんでしょう? 叩き殺しますね。いけないことですね」
(『日曜洋画劇場』より)



■「これ見たら、『E.T.』思い出した。妙な人間を、みんながびっくりしたり、珍しがったりしながら、これだけかわいがる。そこに感激した」
(『おしゃべりな映画館③』より)



「まぁ可哀想に」と言った「化粧品売りのおばさん」など、21歳の僕には「全然」見えてなかった。「全然」見えてなかったのは、「まぁ可哀想に」なんて考え方が「全然」できなかったから。「やさしさ」が全然ない「証明」だった。「外見で人間を判断してはいけない」ことを、僕は21歳の時『シザーハンズ』を通して淀川先生から思い知らされた。僕の人生の歪んだ「信念」「価値観」「倫理観」を捻じ曲げられる衝撃だった。「女にモテない」理由を思い知らされた。

[「やったらやれる」]



■「こういう人もやったらやれるということ。生活ね。そういうものをジメジメしないで描いている。それでいて、哀しいんだね。でも「エレファントマン」なんかと違って、みんながいじめないでしょ。そこが、うれしいな」



■「この子がだんだんデザイナーみたいになってくる。自分のハサミを使って、庭の木を刈り、奥さんたちの髪の毛をカットし、氷の彫刻まで作る。ああいう、ハサミの手でもやったらやれるんだということね」
(『おしゃべりな映画館③』より)




エドワードのハサミが、みんなに愛される「やったらやれる」という姿に見えなかった。エドワードのハサミが「コント」にしか見えなかった。「コント」にしか見えなかったのは、「どんな人間にも必ず取り柄がある」なんて考え方が「全然」できなかったから。21歳の僕に「やったらやれる」なんて考え方は「全然」できなかった。「やさしさ」が全然ない「証明」。「映画監督になれない」理由を「これでもか」と思い知らされた。

[「可哀想だと思いますね」]



■「抱いて」
 「出来ない」




■「このハサミ男が、可愛らしいお嬢ちゃんに、恋をします。好きになって好きになって、その彼女を抱こうと思っても抱けないのね。だってこの男は両手がハサミ。ハサミといっても日本のハサミみたいに小さいものじゃないんです。先が鶴の口ばしよりも大きなハサミなんです。だから、抱き合っても抱きしめられないのね。このあたりは観ていて可哀想だと思いますね」
(『わたしは映画からいっぱい愛をもらった』より)

「抱いて」「出来ない」という二人の姿が可哀想に見えなかった。僕に女を抱きしめた経験がないから、「非現実」にしか見えなかった。他人の哀しみを憐れむ心の余裕などない「惨めな人間」だった。「可哀想だと思いますね」と言う淀川先生の「やさしさ」を、「再起不能」になるまで思い知らされた。

[氷の彫刻から降る雪 “Ice Dance” 「極限の美」]



キムの氷の彫刻から降る雪の “Ice Dance”。「どんな人間にも必ず取り柄がある」ことが一番輝くシーン。ここまで美しい「極限の美」は滅多に見ることができない。淀川先生の「やったらやれる」「愛の映画」が何かを思い知らせる。映画史に刻まれる「この世にダメな人間はいない」と見せる「極限の美」を、「今」涙なしに見ることはできない。

[「君が頼んだから…」]



■「なぜ承知したの?」
 「君が頼んだから…」


強盗に入って逮捕されるエドワード。「君が頼んだから…」の一言でキムを許す。僕にもエドワードの心の度量と寛大さがあったら、僕の人生は今頃変わってたかもしれない。




「どこまで許せるか」で人間の度量は決まるのかもしれない。キリストが偉大なのは「全てを許した」から。今僕が不幸なのは『シザーハンズ』が「愛の映画」だと解らなかったから。初めて公開された1991年から現在まで、長い年月を掛けて、僕の不幸の原因がエドワードほどの「やさしさ」がなかったからだと思い知った。僕もキムと幸せになるため、エドワードの「やさしさ」に近づく努力を、これからもして生きたい。




画像 2019年 4月