今朝、マレーシアから帰国。
ちょうどクアラルンプールKLIAに駐機していたA330の機内に乗り込み、自席でベルトを締めた頃、恐らくキックオフの笛が鳴ったんだろう。
国内のキャリアなら話は別だったんだろうけど、いくらJALのコードシェアでもマレーシア航空の機内にはフライト中、到着地の気候以外一切のニュースはもたらされないし、情報を採る手段さえもたらされない。
(エコノミーだから仕方ないがw)
結果、日本が決勝トーナメントに進んだ事をKIXで知った訳だけれど、どうやら手元にくるプッシュを見る限り、電話のように「スマート」に進んだ訳では無さそうだ。
なんでも試合終盤の8分間、ボール回しに終始し、敢えて敗けを選択したSAMURAIBLUE、西野の采配に対して、心中穏やかでない国民やら海外メディアの声がある、とのこと。
帰宅後、朝のワイドショーで
『攻めて欲しかった』
『勝ちに行くべき』
『こんなのフェアじゃない』
そんな街の声に触れる。
『はぁ?w』
それが俺の印象。
多くの場合、やりたいこととやるべきことは必ずしも一致しない。
『最後まで攻めるサッカー』
これは代表がやりたいこと。
『どんな手を使ってでも決勝トーナメントに進む』
これは代表がやるべきこと。
西野監督はやりたいことより、やるべきことの優先順位を上げ、長谷部以下、選手もそれを受け入れた、ということ。
これはリスクマネジメントである。
野球のように攻守が明確に切り替わるスポーツなら攻めるしかなかったろう。
当然攻める以外の選択肢はない。
しかしサッカーは競技の性質上、攻めのミスから一転して攻め込まれるリスクを孕む。
万一カウンターに転じられた時、ファウルをしてでも捨て身で止めなくてはならない局面を招き、そこでイエローカードをもらってはすべてが水泡に帰す。
レッドに至る可能性もあるし、状況によればPKを与えることもあるかもしれない。
そのリスクを西野は冷静に認識していた、ということ。
加えて、コロンビアーセネガル戦の経過を知るや、固く決勝トーナメントに進む選択肢を探った。
「フェアプレーポイント」が導入された今大会の一次リーグを勝ち上がるためには、それが現状のベストではないにしろ、ベターだと判断したのだろう。
結果、あのボール回しの8分間に繋がった。
何故、批判に曝される必要があるというのか。
例えば人が何かを決断するとき、それが英断か誤断かを判断する材料は決断の瞬間にはほぼないと言っていい。
あるのは後に訪れる結果だけ。
その結果を如何にコントロールするかを考えるプロセスに於いて、複数の選択肢を自らの経験測も含めた観測で消して行き、残ったリスクの重み付けをし、重いリスクを炙りだし、そこに足を踏み入れずに過ごす方法を見つける。
そして西野は決断した。
そしてSAMURAI BLUEは結果を出した。
これ即ち、『英断』だったのである。
ヨーロッパのメディアや、他のアジア諸国のサポーター達がこの英断を受け入れないのは、SAMURAI BLUEの老獪さに対するjealous以外にないだろう。
サッカー後進国と揶揄された東アジアの弱小国に結果をコントロールされたこと。
それが癪なだけだろうと思う。
そして我が国の『幼い』サポーター達がこの英断を受け入れないのは、彼らの人生にまだ『糧とすべき失敗の経験』が少ないからである、と思う。
ドーハの悲劇。
あの組成を思い返せばよい。
当時のSAMURAI BLUEが、憧れに憧れたアメリカの地をナショナルチームとして踏めなかったのは、リスクマネジメントをするだけの経験も、発想も、力もなかったから。
あの局面で攻め続けることこそが美徳だとの古めかしい価値観に支配されていたから。
大東亜戦争戦敗国のmentalityのままだったから。
しかし、あれは『アジア最終予選』での話。
今回、それが『本大会の一次リーグ最終戦』で機能した。
ここに意味がある。
JFAは確実に成長している。
ハリルホジッチを解任した以上、西野は、いやJFAは結果を出す必要があった。
戦う選手達の利害と、試合を観る我々の利害。
同じようだけれど、これは違う。
その違いを認識すれば、西野が選択した戦術に拍手こそすれ、批判には値しないことがわかるはずだ。
この英断のおかげで、我々には来る7月3日、午前3時に目覚まし時計を合わせる理由がもたらされたのである。
躍動する藍色が、赤い悪魔を退治する場面に臨めるのである。
それを喜べてこそ『SAMURAI BLUEのサポーターである』と俺は思う。
進め一億火の玉だ。
がんばれ!ニッポン!
いやー 参りました。
再結成してからひとつづつ洗練されていく感じ。
デイビッドボウイに、トレヴァーホーンに、吉井和哉が何を思うのか。
かつてバグルスは、「VIDEOがRadiostarを殺す」と歌ったけれど、21世紀、インターネットが殺したものは計り知れない。
レコードがCDに殺され、CDがインターネットに殺されたこの時代にもRockStarは永遠なのだと身をもって証明しようというなら、この国の今には、吉井和哉しかいないように思う。
グラム、プログレ、かつてのイギリスを彩ったミュージシャンたちがこの音を聴いたら、きっと笑ってくれる、そんな気がする。
おっさんたちの心の表面に張った瘡蓋。
はがそうじゃないの。
掛布が辞める。
これは我々世代にとれば由々しき事態である。
何故、掛布が辞めなければならないのか。
巷間囁かれていることを要約すれば、即ち『掛布の甘さが金本の癇に触った』と言うことのようだ。
本当に掛布が甘いのか、それとも単純に金本が『脳ミソ筋肉野郎』なだけなのか。
その方針に齟齬があった、という事実を、掛布、金本、各々の「プロ野球選手としての生い立ち」の観点から考察してみたい。
自らの体験を後進に課す、というのは極めて一般的な「人の習性」だと言える。
例えば育児だが、多くの親は、幼少期に自分が如何に大人に扱われたか、というのがひとつの指針となる傾向にあるようだ。
但し、それを踏襲するか、はたまた否定して別の方向を見出だすかについては、結局、その人間が幸せだったのかどうかが決めるように思う。
子供の頃、親に厳しく躾けられて育った人間が、大人になった自分の人格形成に親の躾が寄与したと自覚しているなら、やはり自らの子にも厳しくなるだろうし、奔放にのびのびと大人になった人間が、例えば世間の荒波にもまれ、自分の甘さを強烈に自覚したなら、自分の生い立ちを否定する局面もあるかもしれない。
逆に、その厳しい躾によって今の人生が壊されたと感じているものは、我が子から厳しさを遠ざけるだろうし、愛情を滝のように浴び、慈愛の心に溢れて育った自分が幸せなら、子にもそうするのが当たり前である。
ではこの二人の、プロ野球選手としての生い立ちがどうであったのか、という部分を比較してみよう。
掛布雅之 現役通算15年 1625試合 5673打数 1656安打 打率0.292 349本塁打
金本知憲 現役通算21年 2578試合 8915打数 2539安打 打率0.285 476本塁打
掛布は高卒で18歳からのプロ生活なのに対し、金本は二浪で大卒。プロ野球選手は24歳からである。掛布の引退は33歳。金本は44歳まで現役を続けた。
打撃成績を見れば、打率を除き、すべて金本が勝っている。
二人がプロ野球選手として過ごした時代こそ違え、この成績を見ればプロ野球選手として成功したのは掛布より金本、ということになる。
二人に共通するのは、二人ともが「練習の虫」と言われるほどに練習に明け暮れた、ということ。
「人の三倍練習して一番になれ」という父親の思いが31という背番号の由来だといわれるほど掛布は練習したというし、金本も広島時代に、三村、山本という厳しい二人の指導者に出会って、「人間扱いされなかった」というほどに練習したと伝えられる。
そんな厳しい現役生活を同じように過ごした二人に、なぜ野球観に違いができ、袂を分かつに至ったのか。
私は、それがこの二人の打撃成績に表れているような気がしてならないのである。
金本は、激烈な練習をこなし、強靭な肉体と、故障に負けない精神を手に入れた。
掛布は、激烈な練習をこなしても、デッドボールに端を発した故障に苦しみ若くして現役を引退した。
おそらく、金本にとっての「厳しい練習」はその成功体験を形作り、掛布にとっての「厳しい練習」は、自らに挫折を強いた苦い体験を形作っているのではないのか、と思うのである。
前述のとおり、自らの体験を後進に課す、ということができるのは、成功体験を持つ者。
逆に自らの経験を反面教師ととらえて逆の方針をとるのは、成功体験に乏しかった者、である。
ミスタータイガースと呼ばれた掛布雅之でさえ、成績を見れば決して成功したといえない。しかし金本は、やはり成功者である。
この価値観の違いが、今回の亀裂を呼ぶことになったというのが私の見立てである。
今回の「掛布退団」という事件を情緒的に捉えるならば、確かに掛布の何が悪いんだ、金本め、となる。
でもしかし、こうしてその各々の実績を比べ、組成を紐解くと、なるほどな、と感じる部分もあるのである。
私は、掛布退団の事実をどう納得しようか考えていた。
そしてこの1週間、いろいろ考えているうちにこの結論にたどり着いたのである。
結論、金本が言う掛布の「甘さ」は、掛布の選手時代の挫折に起因しているのだと。
どちらが正しいかなんて一概には言えないが、一軍の監督が金本である以上、金本が正しいと言わざるを得ないのが実際のところではないか。
ため息とともにこう思う。
掛布雅之は、でもやっぱり、我々世代の大阪の子にとってはヒーローだし、背番号31の輝きは、今でも眩しく鮮やかな光に溢れている。
この光は未来永劫、影になることがないという事実だけ、胸に刻んでおけばいい。
そう自分に言い聞かせながら、この問題を理解しようと思う。
種田陽平、という男。
柔和で、物静かな佇まいのその中にある、「プロ」という形の凄まじさ。
昨今、メディアでは様々な「プロフェッショナルの形」にスポットが当てられる機会が増え、プロの一端、その形を覗く場面も増えた。
プロの形なんていろいろある。
自分にプロ意識があると自覚している者は、 そんな沢山の「プロフェッショナリズム」に触れるうちに、自分の中に「憧れのプロフェッショナリズムの形」が出来てくる。
そりゃ、俺だって例外じゃない。
しかし、この種田陽平という男がもつ"ISM"は、俺が抱き始めていた「憧れの・・・形」とは少し異なっていた。
なのに、そこに宿る彼の強烈な意志の力に、俺の「憧れの形」は瓦解させられた気がする。
決して主張しない。
表立って人に影響力を感じさせない。
自分がひっそりと持つ理念の確かさ、技術の高さ、そして何より、その感性の正しさ。
それを、来る日も来る日も、ただ一心に、「仕事」を通じて体現していくだけ。
人の迫力って、本当はこういうことなのかもしれない。
圧力でない、迫力。
強さでない、迫力。
本当の迫力とは、やはり"ISM"なのだろうと思う。
そして、その"ISM"とは、決して自らの口で、人に滔々と説いて聞かせるものではなく、その"ISM"に触れた人間が感じ取り、理解するプロセスで生まれる言葉を使って客観的に表されるべき性質のものであるべきだろう。
この人の仕事ぶりから何を感じ取るか。
なにが感じ取れるのか。
自分が試されている、と感じるほどに、凄まじい"ISM"に触れた、そんな週末の夜だった。
迫力って、やはり格好いい。
大阪桐蔭、天国から地獄…西谷監督、号泣選手かばう
8/19(土) 19:55配信(日刊スポーツ)
なかなか厳しい結果になった。
「ツーアウト満塁の内野ゴロは一番近い塁でアウトな」
来る日も来る日も練習してきたやろに。
俺思う。
このプレー、確かにいろいろな伏線が絡まってたから、誰が悪いとか言われへんしね。
野球って、一個一個の局面ごとの積み重ねやから。
「切り替える」
という言葉がよく出るのも、そんな競技の側面があるからやろう。
7回裏、ファーストでの接触プレー。
バッターランナーに蹴られた足のことが気持ちにあったかなかったか。
これが伏線になっているかどうか、というのは外野の勝手な類推であって、実のところはわからない。
ツーアウトランナーなしからの逆転劇。
これが高校野球でしょう。
甲子園には魔物が・・・とはよく言うけれど、結局のところ魔物なんかいない。
魔物はすべての人間の中にいる。
人は、その魔物をいかに封じ込めるかをテーマに生きているんじゃないかな、とさえ思う。
言い換えれば、魔物は甲子園だけにいるのではなく、多分、舞洲にもいただろうし、万博球場にも、南港にも、山のグラウンドにもいたはずなんだ。
あの時、ショートがセカンドベース上にトスしていればベスト8だった、かもしれない。
一塁手は、「多分セカンドフォースアウトで試合終了」と思って一塁ベースにしっかり入れていなかったのかもしれない。7回裏に蹴られた足のことが気になったのかもしれない。
そんなたくさんの「かもしれない」が、どこにもいなかった魔物を顕在化させたのだとすれば、大阪桐蔭ナインにとって、そして中でも一塁を守っていた彼にとっては、厳しい結果になったなぁと思う。
夏の地方大会前のある日、横浜高校との練習試合に来ていた大阪桐蔭ナイン一行と新横浜駅で遭遇したことがあった。
西谷監督以下、統制された感じのする子たちだった。
整然と並び、他の客の迷惑にならないように振舞っていたあの姿。
「がんばれよ」と心の中で応援しながら自分が乗る新幹線へ向かった。
三回戦敗退となったら、国体にも出られない。
3年生の夏は終わった。
二年生中心の新チームは秋の大会に向かって、もっと言えばセンバツに向かってもう動き出す。
この敗戦は、マウンドで立ち尽くした2年生ピッチャーにとって、一番の魔除けになったかもしれない。
この秋からは自分たちのチーム。
二度と自分達の中にいる魔物が暴れ出さないように、この経験をおでこに貼って。
ツーアウト満塁のショートゴロをどう処理するか。
また練習すればいい。
甲子園には魔物なんかいない。
魔物は、全員の心の中。
西谷監督にだっている。
その魔物封じの戦いに、また明け暮れればいい。
お疲れ様。
今日、第99回全国高等学校野球選手権大会 大阪大会に母校の応援に行ってきた。
結果、負けたんやけど・・・・
弱い・・・・
練習が足らん。
なんやろ、この二の次感。
俺らの時は、みんな夏の大会最優先で、全部後回しにして練習しとった。
朝、昼休み、もちろん放課後。
今日試合見てて、ほんまに思った.
こいつら、練習しとらん。
野球を理解しとらん。
動作が身体に染みついとらん。
中継も内野の連携も。
いちいち動作が遅い。
試合中エラーしても、三振してもへらへら笑っとる。
声が出てない。
俺らの先輩の時も、俺ら世代の時も、後輩らの時も、試合に負けたらみんな泣きじゃくってた。
甲子園なんか行けるわけなくても、それでもなんとか勝つことに必死やったのに。
圧倒的に負けても、それでもベストを尽くしてる感じがみなぎってた。
どのプレーもいっぱいいっぱいやった。
だれがこんな硬式野球部にしたんや。
時代のせい?
くそ暑い中、球場に足を運んでこの目で確かめたのは、くそ弱くなってた母校の硬式野球部の姿だけ。
夏の大阪大会ベスト16は遠い昔の話。
わが母校が、舞洲で試合する日はくるんかなぁ。
しっかりやれぇい!
さユり、新宿駅前ライブにファン2,000人集結
という話題に触れて
出ましたね~ アルバム。
「ミカヅキの航海」
初めて聴く曲って少ないけれど、でもまぁ、凄い出来だなぁと思う。
3曲目に「十億年」という曲が入っているけれど、このアルバムの中では出色よね。
モード学園を思って書いた曲だと言っていたけれど、でもモード学園のCMで使われる曲は本当にセンスがいい。
20歳、といえばもう娘でもおかしくない年だけど、この子の感性には本当に舌を巻く、というかなんというか。
自分が20歳だった頃、果たしてこの子みたいに自分のことや、世の中の事、自分と世の中の関係とか、そんなこと感じられていたか、気が付いていたか、考えていたかと思うと、ちょっと恥ずかしくなるほど。
時代だといえばそれまでの事だけれど、どの時代に於いても、若い子の中にはその時代時代の葛藤やら、苦しみやら、不安やら、焦り、そんな感情があるんやなぁと。
改めて感じた気がしてね。
ほんの少し、今の若い子たちの感性を理解してあげられるのかな、って気になったり。
この「十億年」という曲。
メロディがいい。
素朴で、混じりっ気がない真っすぐなメロディ。
ブレスのたびに聴こえるこの子の息を継ぐ音は、まさに次を続けるための意志の音なんだと思う。
歌に支えられて、感性に支えられてそして、その才能で歌い続けることを勝ち取ったこの子の勝鬨なんだと思う。
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怖くて目を開けられなかったけど 今なら
信じられるような気がした 海の底
巨大な巨大な不安と戦ってやっと出会えたんだ
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この感覚は、多分、世のおっさんたちやおばちゃんたちがかつて、感じていながら言葉にできなかった感覚。
みんな、若い時というのは不安でね。
その不安を打ち消すために生きているようなもので。
真っすぐに自分を磨いた者、現実逃避をその術とした者、何かに頼った者、打ち消し方は人それぞれだけれど、みんなそうやって年を取ってきたんだと思う。
そんなそれぞれの不安の打ち消し方こそが、おそらく今のおっさんやおばちゃんたちの力として、いろんなものを支えているんだと思う。
多分、この子は自分の才能を磨くことでその不安と戦っているんだろうと思うんだな。
一生懸命歌うことで、言葉やメロディを捻り出すことで、おっきな不安と戦っているんだろう。
「欠けた何か」は誰にも、どの瞬間にもある。
それを埋めようとする、その行為そのものが生きることなんだと彼女は歌う。
それこそが「呼吸の意味」なんだと。
しっかり生きること、というのは、しっかり不安と戦うことなんだと、彼女の立ち姿を見るたびに思う。
欠けたミカヅキが満月になる夜。
いつ来るのかわからないけれど、その瞬間まで歌い続けてほしいな、と思う。
もし、彼女のこのアルバムが評価されないなら、日本の音楽シーンはもう終わりだと思えるほど、いい出来だと思う。
素晴らしい。
俺にこう言わせた歌い手は、そういない。
■侍ジャパン、2大会連続で準決勝敗退 米国に敗れる
(朝日新聞デジタル - 03月22日 09:07)
というニュースに触れて
いつもいうけど、TBS系列がこの曲をテーマに選んでいるというのは素晴らしいw
遠く離れたアメリカで頑張ってるんやで、という感じねw
ええと思うで。ばっちりやん。
仕事しながら途中経過を盗み見て、昼飯もそこそこな昼休み、手のひらの上で繰り広げられていた8回の攻防に固唾をのんだ。
いやぁ、惜しかった。
ちょうど13時のチャイムが鳴り終わると同時くらいに、筒香がライトフライに打ち取られ、そのまま午後の仕事に入った。
プッシュが来たのはそれから30分くらいだろうか。
「侍ジャパン 2大会連続準決勝敗退」
あぁーあ、という気持ち。
まぁしゃあないか、という気持ち。
勝ってほしかったなぁ、という気持ち。
でも、日本の野球はやっぱり強かったなぁという気持ち。
真剣勝負、本気のアメリカを相手に、これだけのロースコアゲームを展開できた、ということ。
本当はこのことに喜ぶべきなんだろうなぁと感じている。
野球もベースボールも、各々の国でまだまだ進化しているんやね。
時代の趨勢は、各国によって異なるんやろう。
その趨勢にもまれた各々のスタイルが、ひとところで激突するというこの緊張感。
やはりWBCって面白いなぁと改めて思った。
日本の野球はやっぱりあくまで「野球」だったし、アメリカをその土俵に引きずり込んだという事実が誇らしい。
その土俵で勝てなかったことは悔しかったのだけれど、でも、立派な試合やったやんかと思う。
日本のメンバーのうち、MLB所属の選手は青木ひとり。
それ以外はすべてNPBの選手。
MLB至上主義ともいえる世界のベースボールシーンに於いて、極東の島国でつつましく行われている「日本野球」のレベルは決して低くなんかなく、むしろ、POWER差を感じつつ強者を倒しに行く方法としては、一番効果的なんだと証明したような気がする。
2次リーグを勝ち上がった時に、おそらく、小久保監督は改めて思ったんじゃないかな。MLBの選手じゃなく「NPBの選手で世界を獲りに行く」と。
俺もここまで来てようやく気が付いたのだけれど、2度世界を制したのはNPBとMLBの混合チームだった。
そうじゃなかったんやろう。
今度世界一を奪回する時は、純粋にNPBの力で世界を獲ってこそだと思っていたのではないかな。
なんかそんな気がした。
第一回、第二回・・・
NPBで培った力をMBLにぶつけるために渡米した選手達が、日の丸の下に集い、連覇。
前回大会、NPBの選手だけで挑んだけれど、無念のベスト4。
そして迎えた今回大会、青木だけが戻ったけれど、結果的にほとんどはNPBの選手。
やっぱりこれで勝ちたかったよなぁ。
でも、今日のアメリカ戦、がっぷり四つやったよね。
2-1なんてスコア、実力が拮抗していないと落ち着かないスコアではないかなと思う。
負けたことは悔しいけれど、でもこれでよかったと思う。
俺、本当はMLBの選手も全員戻して、本当の最強を決めないと、と思ってた。
でも、今回の戦いぶりを見て、NPBの野球こそ最強なんだということを突き詰めていくというのも、価値のあることかもな、と思った。
MLBは確かに憧れだし、POWERもSPEEDもそりゃ凄い。
でも、きっちりと要所を締めて、手堅く、賢くやるNPBの野球がそれに向かうという図式は、なんかワクワクするなと思えた。
次、東京オリンピック。
MLBの日本人選手はちょっと置いといて、純粋なNPBの選手で組織した代表にこだわるっていうのもいいかも。
それでNPBの価値をもう一度考えるきっかけになるなら、それもいいなぁってちょっと思ったんよね。
確かに、メジャーで活躍する日本人選手に、同じ日の丸のユニフォームを着せるのもそりゃ見たい。
でも、日本のプロ野球は決してMLBに負けていない、というのを確かめる、というのも、なんか誇らしくていいやん、って思えた、今回のWBCでした。
選手たちは帰ってきたらすぐにシーズンが始まるけど、まずはお疲れ様でした。
気を付けて、胸張って、はよ帰っておいでね。