原子力発電所の存否について、色々な議論を読みましたが、どうも議論が噛み合っていないような気がします。その理由を考えてみました。
まず、一つは先のエントリー に書いたとおり、「時間軸」が合っていないことが多いのです。色々な将来像に対して、短期的にそれを実現するのか、中期なのか、長期なのか、超長期なのかというところが合っていないと、議論が噛み合いません。「即脱原発」なのか、「脱原発」なのか、その間には相当な差があるということを踏まえる必要があります。
そして、あと2つくらい議論を混乱させる要因があると思いました。「規模」と「確度」です。
「規模」については、例えを使うと「白鵬は強い」というのと「カブトムシは強い」というのが混在しているということです。非常に強力な発電能力がある原子力発電所に対して、非常に発電能力が低い代替案が出てくることが多いです。そこはお互いに具体的な数字を出す議論が不可欠です。「即脱原発派」の方にご理解いただきたいのは、そこの規模感が合わない時、「再稼動派」の方は脱力してしまって、議論を続けようという気力を失っているということです。
原子力に伴うコスト負担のあり方についても同じようなところがありまして、なんだかんだで消費税数パーセントに相当する数兆円のコストを何処から捻出するかが課題です。そこをどう賄うかというところから議論をスタートする必要があります。
「確度」については、「時間軸」と重なるところもありますが、例えば、私が見ていて「リスク(ある行動に伴って危険に遭う可能性や損をする可能性)」と「ハザード(危険の原因・危険物・障害物)」の議論が混在しているなと思います。原子力発電所については、ハザードは非常に大きいものがあります。そこから、その事故が起こる可能性を掛け合わせてどうリスクを判断するかということになります。
「即脱原発派」の方は、リスクではなくハザードの議論をしているか、あるいはハザードが事実上無限大と想定してリスクも無限大としているか、のどちらかです。「再稼動派」の方にご理解いただきたいのはここでして、事故の起こる可能性をどんなに低く見積もったとしても、結局リスクは無限大に大きくなる論理構成があり、そこが噛み合わない時に「即脱原発派」の方がもどかしい思いをしているということです。「リスク極小化」という考え方そのものが存在しない、ということです。
また、「確度」については、将来的な再生可能エネルギーの発展可能性ということについても、齟齬が生じがちです(ここは時間軸と重なります。)。更には「可能性が高いか、低いか」の議論に加えて、「可能性が低くても、その可能性に賭けるべきかどうか」という点もあります。
どうも、この辺りの認識が揃わないまま、多くの議論が横行しています。「時間軸」、「規模」、「確度」の基本認識が揃ってくれば、仮に導き出される結論が異なったとしても、議論そのものはとても建設的なものになると思うのです。時に「この人は意図的にこの辺りを曖昧にしているのではないか」と思える論者すらいます。
もっとも、そこが揃えば更なる議論の余地はなくなってくるのかもしれませんが。