今日、国会にLGBT法が提出されるはずです。元々存在していた議連案と(党内議論で若干の変更を加えた)自民党・公明党案が併存する形になると思います。審議するのであれば、私が所属する内閣委員会に付託されるでしょう。先日、自民党の提案者と衆議院法制局からお話を聞きました。

 

 自民党による変更点の一つとして、「性自認」を「性同一性」という表現に変えました。普通に読むと「性自認」は主観、「性同一性」は客観の要素が強いです。ただですね、用語の定義規定に変更が無いのです。いずれであっても「自己の属する性別についての認識に関するその同一性の有無又は程度に係る意識」です。「意識」である以上、「性自認」も「性同一性」も主観であるはずです。その点を衆議院法制局に確認した所、「主観」との回答でした。

 

 そうすると、「主観である性自認あるいは性同一性『のみ』に依拠した判断は何処まで許容されるのか。」という当然の問題意識が出て来ます。出来るだけ「カミング・アウト」みたいな事をしなくても穏やかに暮らせる世の中であるべきですが、性自認のテーマについてどうしても公権力が性別を分けなくてはならない事があります。私が強く意識しているのが「刑務所」です。少し前の「The Economist」で、レイプ犯として有罪になった者が性自認として女性を主張し、女性刑務所に入ったというスコットランドの事例が取り上げられていました。私の感覚では「さすがにこれは無いだろう」と思うわけですが、スコットランドのニコラ・スタージョン首相(最近辞任)は主観を重視する方向性をずっと追求して、中央政府と争って来ました。

 

 日本のLGBT法にある通り、私もLGBTの方々に差別する事は許してはならないですし、あってはならないと思っています。他方、上記のような限界事例について、一定の区別を設ける事は避けられないと思います。私から「不当な差別はあってはならないが、合理的な区別を設けざるを得ない所はあると思う。それはこの法律によってどうなのか?」という問を提案者にしました。この辺りはまだ明確になっていない印象を受けました。

 

 私は「差別は絶対にダメ。一方、合理的な区別は何処まで許容されるのか?」という議論をすべきだと思っています。特に公権力行使に際して、どうしてもその区別を設けなくてはならない分野を見極める作業をしないと、結果として当事者の方にも、非当事者の方にも良くない結果を招くと思うのです。「そんな事をしたら、パンドラの箱を開けてしまう」、その気持ちは分かります。しかし、ここから目を背けてはならないはずです。

 

 そういう基礎的な条件を整えた上で、差別不可で理解を増進しつつ、誰もが穏やかな環境で暮らせるような世の中にしたいと思います。

 以前から、私は憲法改正について以下のように考えています(その旨は当ブログやSNSでも書いてきました。なお、以下に書くのは基本的に私個人の見解です。)。

 

● 憲法89条(公の財産の支出又は利用の制限):私学助成やNPOに対する助成が違憲に読めるおそれがあり、改正すべき。

● 参議院の合区:早急に解消すべき。現在、合区となっている鳥取、島根、徳島、高知の4県の国政における代表性は確保しなくてはならない。そのためには参議院を一票の格差から解放する必要がある。一案として、参議院議員は「国民」の代表ではなく、「国土」、「自治体」といったものを代表するとの位置づけがあり得る。その観点から、現在自民党が出しているたたき台はダメ。

● 緊急事態:(以下の記載参照)
● 9条:現行憲法の「平和主義」の理念は揺るがせてはならない。その上で、日本の平和主義の理念を体現するための改正はあり得る(なお、私は自衛隊等の具体的なオペレーションに憲法を直接適用しようとするのは違和感を持っています。憲法はそういうものではありません。)。ただ、現在の自民党が出しているたたき台は何がしたいのか意味不明であり、論理的な整合性も取れていない。

 

 上記は自由民主党が出しているたたき台についてコメントしたものですが、その他にも、憲法第8章の地方自治の規定の充実化、環境、財政についての規定創設、個人の人格権(例:プライバシー)の更なる確立、衆議院の解散規定の具体化、天皇陛下の国事行為の明確化、といった点は改正の議論をすべきだと思っています。逆に2012年の(恐らくもはや有効ではない)自民党の憲法改正案にあるような、内心の自由を国家が保障すると規定する改正案については断固として反対です(私が頭の中で何を考えるかは、国家に保障してもらうようなものではありません)。

 

 その上で、今国会、我々の会派「有志の会」は日本維新の会、国民民主党と緊急時の議員の任期延長に関する憲法改正案に合意しました。当会派きってのインテリ、北神圭朗議員が非常に重要な役割を果たした事は強調しておきます。これは要するに、東日本大震災の際、関連地方自治体の長や議員の選挙期日を延期した法律の国会議員版です。地方自治体の長や議員については法律で選挙期日の延期をする事が出来ますが、国会議員は憲法に身分の規定がありますので、そのような事態に対応するには予め憲法改正をしなくてはならないという事です。地方自治体で具体的事例がある以上、国でも制度を整えておくべき、ただそれだけの事なんです。

 

 懸念されるのは、時の政権・与党が恣意的にこの条項を使って選挙をどんどん後ろに倒し、結果として独裁のツールにならないかという事です。ナチス・ドイツの例がありますので、そこは我々としても慎重にやっています。我々の歯止めでは不十分だという議論はあり得るでしょう。そこは真摯な議論に応じたいと思っています。

 

 一方、「緊急事態」というと、まず思い浮かぶのは「緊急政令」です。法律によらず、政府が出す政令で人権制限をする事が出来るというものです。私はフランスでのこの手の緊急政令の歴史と運用を知っていますので、その便利さと危険性はよく分かっています。2015年のフランス・テロ事件を受けた緊急事態は何度も更新され、例えば、令状なしの捜査がかなり行われました(EUからかなり問題視されていました)。緊急事態は権力側にとって、とても使いやすいツールなのだという事を痛感しました。

 

 その上で、私は「徹底して法律で規律を作っていくべき。それでも対応できないものがあるとするなら、そこで憲法改正による緊急政令の議論が出て来る。」というのを基本的な視座としています。例えば、現在の原子力災害対策特別措置法における原子力災害対策本部長(内閣総理大臣)の権限は広範かつ強力です。様々な歯止めを入れつつ、機動的に対応する事が出来る仕組みを作っています。有事、テロ、災害、大規模感染症等の様々な緊急事態を想定しながら、同種の検討を法的に積み上げていく事で相当な対応が可能だと思います。そして、そこまでやっても対応出来ないのは「ムチャクチャ重大なもの」か「カスカスの残り」かだろうと思います。前者は「政体」そのものに関わるようなものであり、そもそも憲法での規定に馴染まないと思いますし、後者は本当にカスカスで憲法に書くようなものにならないはずです。ただ、これは具体的な検討をしてみないと確定的な事は言えません。

 

 そもそも、緊急政令というのは「いざという時、議会を経由した対応は時間が掛かる上に邪魔だ」という認識がベースにあります。フランスで何故緊急事態的な法整備が充実しているかというと、議会不信、司法不信を持っていたシャルル・ド・ゴールが議会や司法の権限を抑え込むような第五共和制憲法を作ったからです。上記のような邪魔者扱いに対して、我々議会人は「迅速に的確に対応するよう、私達が法律できちっと準備してみせる」という姿勢で臨むのが筋でしょう。議会側から軽々に「いざという時、我々は邪魔なので飛ばせるよう憲法改正しよう」と提起するような事は、私は福岡9区の皆様に送り出していただいている衆議院議員としてやりたくありません。ただ、それでも任期の問題だけは如何ともしがたい所があるので、上記のような改正案を作ったわけです。

 

 大体、これが憲法改正に対する私の意見です。徹底的に「立憲主義」を貫いているつもりです。国会議員たるもの、自分の憲法観を提示する事は大切だと思い、あえて踏み込んで書きました。異論、反論あるでしょう。それが大切な事です(ただ、議論の範疇を超えた罵倒はご遠慮します)。

 28日(金)、内閣委員会で一般質疑に臨みました。多分、今国会最後の一般質疑(何を質問してもいい機会)だと思うので、問題意識を持っている表題のテーマについて詰め込みました。少数会派なので、ストーリーを追いながら質問する事は出来ず、ズバッと聞くスタイルになってしまいます(笑)。

 

● 行革

 2015年に「内閣官房・内閣府スリム化」なるものが通った後も、内閣官房や内閣府はどんどん肥大化していっています。国会で内閣委員会に所属していると分かるのですが、「この役所は何をやる役所なんだ?」と思う事ばかりです。「スリム化した後、どれくらい仕事増えたの?」と官房長官に聞いています。法令上の権限(仕事)も、定員もまあまあ増えています(ただ、私の想像よりは少なかったです)。ともかく放っておくと、どんどん肥大化していく組織である事は間違いありません。こうやって国会で取り上げておく事で圧力を掛け続けたいと思います。というか、こういうのは政府・与党でもっと問題意識を持ってほしいです。

 

 また、内閣府(+内閣官房)は総合調整の役所のはずですが、スタッフ制の元、各部局がタコツボ化して似たような事業をやっている所が多いのです。各省庁から出向してきた審議官、参事官の元、相互に連携することなく、成果物も似たようなものが出ている、こんなケースは枚挙にいとまがありません。内閣府のこの幹部名簿、見ていただければどれだけ重複があるのか恐ろしくなります。この問題点は旧知の内閣府幹部からも指摘がありました。なので、厳しく指摘しました。これは既得権化しているところがあり、内在的な論理では絶対に解消しません。政治が乗り出して、ガサッと整理しなくてはなりません。

 

 そして、中央官庁が行革をしようとしても、そのリーチが及ばない対象として「議員立法」があります。地方自治体から「国から計画作れ、計画作れと言われてキツい」と苦情が来ており、中央省庁としては対応を始めましたが、議員立法で創設されるものについては手が付けられません。私からは「議員立法はとても大事だが、中央官庁としてそれを上手く受けるためのメカニズムを創設してはどうか?」と指摘しました。これは三権分立の中、難しいテーマですが、官僚諸姉諸兄の中には理解してくれる方が多いと思います。

 

● 叙勲

 次に叙勲について取り上げました。孤独・孤立対策推進法審議の際、NPO法人あなたのいばしょ理事長から「NPO法人関係者は叙勲で報われない」との話がありました。今、叙勲されている方は非常に高い功績を挙げた方だが、一方、所管官庁から推薦ルートが半ば固定化している印象を受けており、社会で地道に頑張る方を汲み上げるルートをもっと開くべきでは、と指摘しました。内閣府賞勲局に少しでも響いていればいいなと願います。

● TPP・日米貿易協定
 英国加盟が実質妥結しましたが、英国が太平洋地域に持つ領土は、絶海の孤島ピトケアン諸島のみです(是非、リンクを見てください)。環太平洋パートナーシップとはおよそ無縁。それでもTPPに入れるという事は、TPP加盟には地理的要件は求められていないのかと質問しました。結論から言うと「無い」そうです。世界中、どの国でも加盟申請可能だとの事。


 その上で、現在申請が出ている中国・台湾の扱いについて質問しています。外務大臣政務官から「台湾の加盟申請は歓迎」という答弁がありましたので、「中国は歓迎していないという事か?」と更問をしました。政務官は色々と言っていましたが、基本的にあまり理解が高くないのでしょう。今一つピンとは来ませんでした。政府参考人にプロが居たので、そちらに当てればよかったかなと反省しています。

 あと、安倍総理・トランプ大統領間での日米貿易協定交渉の際、官邸での総理と関係省庁次官級協議に必ず防衛審議官が入っていた事を踏まえ、当時の日米間全体のディールの中で防衛装備品購入はバランスの中に入っていたのか、と質問しました。これは現在の防衛費増額の議論とセットになっている所があります。アメリカからの防衛装備品購入が、日米貿易交渉前後からどんどん増えています。防衛費増額の背景の一つには、アメリカからの購入によって国内防衛産業が苦しくなっているという背景があるはずです。答弁は見ていただければ分かりますが、「ディールが何を指すか不明」とか、「防衛装備品の購入は日米貿易協定の対象外」とかいったものでした。いずれもについては「他の議員にならともかく、僕にその答弁かよ。」と呆れました。まあ、答えにくいという事です。

 

● 日本学術会議と防衛関連研究

 最後に、日本学術会議についてですが、与党があれこれ手を突っ込もうとしているのは、同会議が防衛関連研究に悉くノーを出したからのはずです。今後の検討に際し、日本学術会議に対して、どの程度の防衛研究であればOKなのかの議論をしてはどうかと質問しています。「防衛省」が発注元だからという理由だけで研究を拒むというのは、おかしいです。国民はその議論を見たいと思っているでしょうし、その回答で日本学術会議自体が評価されるべきだと思うわけです。答弁の最後、後藤大臣は軍用汎用品(デュアル・ユース)の重要性についてご自身の言葉で語りました。それで良いと思います。

 

 16分の割当(実際には18分程度)でこれだけやろうとするのは大変なんです(笑)。

 私の所属する衆議院内閣委員会で「孤独・孤立対策推進法」が審議され、先日、衆議院を賛成多数で通過しました。

 

 非常に気になったのが「孤独」と「孤立」を並べて大半の議員が「孤独・孤立」と繋げて議論していた事です。そうやってこの2つを括ってしまうのは事の本質を見誤ると思い、私はこの2つを明別して議論しました。私の質疑に対して、政府も孤独は感情、孤立は客観的状態だと答弁していました。そして、私の参考人質疑NPO法人「あなたのいばしょ」の大空理事長が喝破したように、今回、「孤独」にフォーカスを当てた事に意義があります。

 

 

(なお、大空理事長は本当に卓見の持ち主で、その一言一言に感銘しました。)

 

 これまで法令用語で「孤立」という言葉はそれなりにあったのですが、「孤独」という言葉は初出です。つまり、これまでの日本のアプローチはどちらかと言えば客観的状態である孤立にフォーカスしていたのが、そうではなくて感情である孤独に目を向けなくてはならないという事になったのが意味があるのだと思います。孤立していないのだけど孤独を感じている人への対応というのは難しいですが、それが現代的な課題のはずです。

 

 その観点から、逆に「孤立しているのだけど、孤独を感じていない方」への対応はどうあるべきか、という事が問題になります。この法律における「孤独・孤立の状態」とは、「日常生活若しくは社会生活において孤独を覚えることにより、又は社会から孤立していることにより心身に有害な影響を受けている状態」と定義されます。孤独を一切感じていない中、孤立している方で心身に有害な影響を受けている方というのは、居ないとまでは言いませんがかなり限定的であり、そもそも何処まで公権力の射程に置くべきなのかという事をかなりしつこく聞いています

 

 私の問題意識は、上記にも書いたように「結局、集中的に対応しなくてはならないのは『孤独』なのではないか。そういうふうに大きく問題意識を振ったのがこの法律ではなかったのか?」という事です。

 

 その後、行政改革を重視する私は「この法律で行われる孤独・孤立対策は屋上屋になりはしないか。」という点を聞いています。自殺、刑務所出所者支援、引きこもり、不登校等、既にやっている事がある中、その上に「屋上屋」にならないようにする仕掛けはこの法律に盛り込まれていません。また、孤独・孤立対策本部は内閣府に置かれますが、内閣府の中にもDV、就職氷河期等を担当する部局があります。これら部局との調整についても現時点では行われていません。こういう事を言うと、「緒方は孤独・孤立対策に後ろ向きなのか?」と言われそうなのですが、そうではありません。現在、政府の中、特に内閣府には「似たような事をやっている組織が複数ある」のが散見されます。それを厳しく見ていかないといけない、という意識があるのです。

 

 また、地方自治体の負担増についても聞いています。昨今、特に安倍政権以降、国から地方自治体に「計画作れ、計画作れ」と話が降りて来る事が増えました。新しいコンセプトで法律が出来て、その法律に基本計画を都道府県に求め、市町村にも努力義務を課すパターンが非常に増えました。全国知事会からの苦情を受けて、昨年度の骨太方針ではそれを抑制しようという事になっています。孤独・孤立対策推進法では、自治体に基本計画を求める事はしていませんが、地域協議会の立ち上げを努力義務として課しています。

 

 自治体の発案で地域協議会が立ち上がる事はとても良い事なのですが、同時に気になる事があります。去年の骨太方針以降、地域協議会の立ち上げを書き込んでいる法律が増えたような気がするのです。邪推の極みなのかもしれませんけど、基本計画が抑制される中、その代替物として地域協議会という手法が使われているのではないかという懸念を持ちました。「努力義務なんだからいいじゃないか」という声はあるでしょう。しかし、過去に基本計画策定を努力義務としていても、計画を作っている自治体を担当省庁が一覧で公開する、ましてや計画を作らないとその事業でカネが降りてこない、といった事例が散見されました。これだと半ば義務化してしまうのです。作らない事で中央省庁から睨まれるくらいなら、作っておこう、そういう意識になるのは当然です。

 

 あと、この手の話で一番難しいのは、孤独を感じておられる方に様々な支援メニューを用意しても表に出て来られない方です。これについても参考人質疑で提起しています。これは「支援メニューを知らない」ケースと「そもそも出たがらない」ケースがあります。どちらも対応が難しいです。私はよく地元の市民センターで「独居高齢者の中でこの市民センターに来て、活動している方は何の心配も要らない。課題は来ない方。」という話をします、まち協会長、市民センター館長、皆様が首肯されます。上記の2ケースそれぞれ対応は異なります。一歩踏み込んだ対策が必要だと思っています。

 

 採決前の討論では、国の行革の観点から「肥大化するなよ」と念押ししました。大英帝国の殖民地省が、領土が減っていたにもかかわらず拡大の一途を辿った事実を分析した「パーキンソンの法則」を引用しながらの話は与党議員にご好評でした。最後に1976年に出された内山田洋とクールファイブの「東京砂漠」にもあるように孤独という課題は昔からあるが、今問題となっている孤独には現代性がある。そこを透徹した目で見て、対策を充実させてほしいと訴えました。

 在フランス中国大使の発言が話題になっています。ウクライナの主権そのものを否定したとの事で、ウクライナのみならず、バルト三国からも強烈に反発が出ています。実際にTF1でのインタビューを聞いてみました。

 

 結論から言うと、該当部分ではそういう趣旨の事を言っています。正確には「クリミアの帰属」について問われ、「旧ソ連諸国の主権国家としてのステータスを確定する合意はない」という言い方です。これを言われてしまうと、旧ソ連諸国はその存在意義を否定されているのに近くなりますので、激しく反発するのは当然です。

 

 プーチン大統領の対ウクライナでの発言を聞いていると、(幾ばくかの強がりを込めて)ウクライナそのものが主権国家だと見なしていない姿勢です。自国防衛できない国など「主権」を持っているとは言えない、と思っている可能性が高いです。ロシアの理屈はかなり雑です。一方、中国は「建て前」だけはきちんとしています。中国の理屈を見ていると、我々からすると受け入れられないものの、それなりに国際法を引用しながら論理を立ててきます。台湾の領有についても、このインタビューで1943年カイロ宣言、1945年ポツダム宣言などをきちんと挙げます。

 

 中国の外交官と話すとよく分かるのですが、彼らなりの理屈がしっかりしています。それは日本としては受け入れられないものが多いのですが、かと言って、中国外交官の理屈を突き崩すのは大変です。日本の政治家の中に威勢よく「中国は〇〇でけしからん」と言っている方は多いのですが、多分、大半の方は中国の外交官と議論するとコテンパンにやられると思います。なので、私はいつも中国の外交官と話す時は、事前に頭を整理して、そして話している間はとても耳を澄ませて聞き、寸鉄人を刺す気持ちで居ます。

 

 さて、話を戻します。全体として「うちの国内事情に口出すな」と「世界は多様化している」という話が多いです。そして、非常に興味深かったのは、毛沢東時代の大量虐殺について厳しく問い詰められた時です。グサッと「毛沢東は歴史上の最大の犯罪人の一人」と質問するインタビュアーにはビックリしましたが、これに対する大使の激昂ぶりはなかなかのものです。「chicaner(誤魔化す)」、「racontar(無駄話)」といったあまり外交的ではない表現が出て来て、雰囲気のみならず、語彙からもイライラ感が伝わります。そして、29:00過ぎくらいに大使が「あなた勉強した事あるのか?」、「止めろ(Stop)」と言っています。「自分は今日ここにそんな無駄話をしに来たのではない」と強めに言った後、最後窮して「そんな事を我々に言うなら、日本が第二次世界大戦時に対中国でやった戦争犯罪に対して支払いをするよう、日本に求めろ。」とも言っています。ここが弱点なんですよね。「過去に対する不可謬や現代の人権問題を突かれると、中国の外交官はキレて強引に話を打ち切ろうとする」、これが今回のインタビューからよく分かります。

 

 それにしても厳しいやり取りです。勘違いして早く帰ろうとした大使に対して、インタビュアーが笑いながら「まだ、拷問は終わっていませんよ」と語りかけています。厳しいやり取りをしていますが、一応最後は社交的な感じで終わります。ちょっと話が飛びますが、私の考える報道の公平とはこういうフランスのジャーナリストの姿勢を指します。中国が好きとか、嫌いとかではなく、厳しく問う事で真実を追求する。これは一つの報道の公平性です。今国会で大きな議論になった放送法の「政治的公平」。私も一度、一般論としてこの議論をしました。少なくとも高市大臣は概念整理は出来ていませんでした。日本の政治家で正しく理解している方は少ないのではないかと思います。

 

 なお、盧大使のフランス語は「流暢」とまでは言えませんが、使っている語彙はなかなかのものです。日本の外交官でこの水準に達しているフランス語使いがどの程度居るかというと、甚だ心許ないです。

 日本学術会議法改正案の国会提出が断念されました。学術界の反対が強い事がその理由です。私の所属する内閣委員会に付託される予定だったので、それなりに準備だけはしていました。実は今日この時点で内閣委員会には「孤独・孤立対策推進法」の審議です。もう1本「DV対策法改正」が入って、その後に日本学術会議法改正案の予定でした。衆議院で審議入りできるのは、恐らくは5月中旬以降。参議院での審議まで念頭に置くと、そもそも6月21日の会期末までに成立させるのは日程的に無理なのではないかと当初から思っていました。

 

 事の発端は、防衛研究に悉く反対を出し続ける日本学術会議に対する政府の苛立ちが背景にあります。政府はこれを認めたがりませんが、どう見てもそうです。だから、無理を積み重ねて過去の方針を変更して、菅総理が会員任命を拒否しました。そして、その延長として、日本学術会議の会員選考プロセスに政府が選んだ第三者の目を入れようとするのが今回の法改正案です。

 

(時折、保守系の方が左派系の学者の思想を「偏っている」と批判して、菅総理による任命拒否を正当化する事があります。そのアプローチが正当化されるのは、左派系の方が保守系の学者の思想を「偏っている」と批判した際にも同じ立ち位置を維持できる時だけです。それが出来ないのであれば、すべてはポジション・トークになってしまいます。当に「不公平」です。)

 

 一般論として、身内の会員だけで新会員を選考すると、時折(常に、ではありません)奇妙な事が起きます。典型的なのが芸術の世界でして、芸術家の顕彰機関たる日本芸術院(文化庁の特別の機関)の会員になるためには「1億円」が必要とされていました。選考の権限を持つ現会員にお金を渡していくのが常態化していました。私が平成27年に「外部の目を入れるべし」と指摘し、当時の下村文部科学大臣は「指摘の通り。日本芸術院に検討を求める。」と答弁します。しかし、日本芸術院側はこれを無視し続けます。最終的に(日本学術会議の話が飛び火して)ようやく令和3年に選考プロセスを見直しました。この流れを牽引したのは萩生田文部科学大臣でした。

 

 何となくそれと似ているんだよな、とは思います。勿論、芸術と学術を一緒くたにするつもりはありません。ただ、いずれも政治との距離が微妙な世界です。その上で学術界が今回の日本学術会議法改正案を政治からの介入強化だとして反対する事については、私は「先の大戦中の政治、軍と学術界の関係を見れば、そういう慎重さを持っている事は分かる。」との立場です。

 

 ただし、だからといって私は日本学術会議側にフリーハンドを与えるつもりもありません。現代社会においては、様々な研究の中に軍民両用のものが増えて来ています。その中には経済発展に大きく資するものはたくさんあります。その観点からは、汎用品、汎用性のある技術の研究をすべて拒否する事は学術界には許されないと思います。また、発注元が防衛省だからという理由のみで研究受託を拒否する事も許されないと思います(ただ、それを警戒した政府は経済安全保障の枠組みの中で経済産業省と文部科学省が共同で研究のためのファンドを作って、そこに防衛省を加えるという形にしています。昨年法案審議の際、「そこまでやらなくてはいかんのか」と思いました。)。

 

 日本学術会議は、このまま法改正を拒むのであれば、それと同時に「軍民汎用性のある研究に何処までであれば関与するのか」という方針を世に打ち出し、それを大いなる議論に供するべきです。その方針が幅広く国民各層の理解を得るかどうかとこの改正案の今後は強くリンクしていると思います。ここが明確にならないと、法改正が断念された後、安全保障関係者と学術界の間の相互不信が常に燻ぶり続けるだけです。

 次世代医療基盤法(医療ビッグデータ法)改正案が、昨日審議されました。病院等から提供された医療情報を「誰だか分からないようにしたデータ(匿名加工情報)」まで加工して、医療研究や創薬開発に利活用するという仕組みです。私は6年前この法律を作った際、野党筆頭理事として修正案を出し成立させています。なので、参議院の審議では答弁にも立っています。そういう観点から、私はこの法律作成の当事者の一人だと自負しています。

 

 ただ、この法律を運用する中で、「誰だか分からないようにしたデータ」の不都合が出て来ました。医療研究、創薬開発をする際に「個人情報保護は担保しつつ、もう少しだけ情報を出してほしい」という要望がありました。それを踏まえ、今回は「『他の情報と照らし合わせないと』誰だか分からないようにしたデータ(仮名加工情報)」まで利活用可能にするものです。勿論、要件を緩和する以上、利活用する側にもこれまで以上の制限が掛かるようになります。審議会資料法案資料はそれぞれリンクを参照ください。

 

 実はこの法律、仕組みは出来上がっているのですが、あまり活用が進んでいません。実績もあまり上がっていません。私は6年前の段階から、この問題点を指摘していました。この仕組みが回るためには、カネが回る必要があります。カネを出すのはエンドユーザー(例:製薬会社)です。そのカネが医療情報を加工する業者に行き、更には医療情報を提供する事業者に行くという事になります。そのビジネスモデルの構築が弱いよな、と6年前の審議でも指摘していたら、やはりそういう事態になっています。一般論として、厚生労働省はこういう仕組みをビジネスとして回す事に好意的ではないのですが、それがマイナス面として出たよな、と私は思っています。

 

 そして、昨日、質疑に立ちました(そんなに長い映像ではないので見ていただければと)。私からは以下のような点を指摘しています。

 

● 仮名加工情報くらいまで緩和すると、超希少疾患等の方は特定できるはず。その観点から、広義の特異値が出る方については、この情報提供から外してもらう手続き(オプトアウト)を相当に慎重にやるべき。
 

● 「集団」として特異値を出す場合(風土病、特定の会社での業務に伴う疾患)について、地方自治体、会社、学校等の集団としての人権についても配慮すべき(← これは6年前も主張しました)。
 

● 医療情報を出してくれる協力事業者は国立病院機構系を始めとして公立病院がとても目立つ。要するに民間病院はメリットを感じていない。最後はエンドユーザーが払うお金が原資。この仕組みの最後の所にもっと明確に製薬会社をくっ付けるべき。
 

● 一例として、都道府県が旗を振って、その県内でこの医療ビッグデータの収集から加工、そして創薬ビジネスの誘致までを考えるのは推進すべき。その場合、加工事業者の要件が厳し過ぎるので考えてほしい。

 

 最後のポイントについては、福岡県や北九州市を念頭に置いています。現時点で医療ビッグデータを提供する医療機関は県内で限定的です。また、地方自治体の持つデータを活用するという発想があり、青森県弘前市、神奈川県逗子市が取り組んでいます(が、要するにあまりやっている自治体が少ないという事です。都道府県レベルでやっている所はゼロです)。私はこういうツールを活用しながら、医薬品産業を誘致、発展させるという発想を福岡県や北九州市に持ってほしいと思っています。地域限定型で、行政の持つデータ活用(例:定期健診)、公立病院・民間病院の関与を促しつつ、医療ビッグデータを利活用して、最終的には創薬開発の産業誘致までをセットにしたヴィジョンを描ける力はあるでしょう。高市大臣には「全国知事会、指定都市市長会に売り込みに行くべき。」という事を伝えました。爾後、内閣府担当から「考えてみます」とのお返事も頂いています。

 

 最後に討論に立っています(これも短いです)。賛成討論ではありますが、上記のような思いを纏めて提言っぽくしています。あと、何でもかんでも附帯決議でお茶を濁すな、必要なら果敢に法案修正協議をやるべし、と野党各位にハッパを掛けました。

 最近、自分の主たるテーマとして「危険運転致死傷罪」に取り組んでいます。報道を見ていて、「聞くに堪えない事例」に接する事が多い事から国会で取り上げています()。その中で幾つか首を傾げる事案が出ています。

 

 まず、「危険運転致死傷罪」という名称。これだと「危険な運転をして他人を死に至らしめた人に対する罰」と思うでしょう。しかし、違います。これは危険な運転をすべて罰する法律ではありません。危険な運転の内、悪質なものを犯罪化する法律だとされています。被害者や遺族と接していて強く感じるのが、この法律論と国民意識の乖離です。この乖離を埋めるべきだと、私は強く主張しています。

 

 そして、構成要件、責任についていずれも信じられないくらい厳しく取られています。法律の第二条で危険運転致死傷罪の類型が定められていますが、例えば、第二号に「その進行を制御することが困難な高速度で自動車を走行させる行為」とあります。構成要件として、例えば直線の道路である事、視界を遮るものがない事、自動車の性能が高い事といった事情は、「その進行を制御することが困難」でない方向に機能します(より犯罪が採用されない方向に働くという事)。リミッターが外れた、頑丈なドイツ車でぶっ飛ばす方が、日本車よりも危険運転致死傷罪が取られにくくなると言われると違和感しかありません。

 

 また、この犯罪は故意犯なので「その進行を制御することが困難な高速度で自動車を走行させる」事を基礎づける客観的な事実の認識が必要だとされています。常識的には「そんな認識を持って運転する奴が居るのか?」と思いたくなるはずです。

 

 結果として、大別して2つの問題があります。まず、「何故、この行為が危険運転致死傷罪になり、あの行為はならないのか」がよく分からないのです。一つ一つの判例ではなく、判例の積み上げを見ていくと、刑事法における「明確性の原則」を欠いているよなと思うのです。これは憲法裁判にすらなり得るものです。そして、危険運転致死傷罪が取られないと過失運転致死傷罪になるわけですが、何処からどう見ても悪意か重大な不注意の塊である運転者の暴走で親族が亡くなった方から、「何故あれが過失なのですか?」と言われた事は一度や二度ではありません。「危険な運転の内、悪質なものだけを犯罪化した」という説明を受け入れた上でも、「あれは悪質ではないのか?」と思っている方はたくさん居られます。

 

 私はこの法律は法秩序への信頼という観点から危険な要素を孕んでいると思います。常識的な国民意識と法律のあり方、解釈、運用があまりに掛け離れています。担当した方の胸先三寸での裁量が大き過ぎます。そして、危険運転致死傷罪を取らない検察実務、判決等が積み上がっていくと、この犯罪を採用するハードルが上がって来ています。「危険運転致死傷罪で起訴しても勝てないから」と、検察官から説得された遺族のお話は枚挙にいとまがありません。

 

 「法改正の検討だけでもいいからやってくれないか」と齋藤大臣に食い下がりましたが、あまり芳しい答弁ではありませんでした。ただ、この手の話はしつこく言い続ける事が必要です。しつこくやり続ける決意を持ちながら、これからも取り上げていきたいと思います。

 私の強い信念として「子育て支援と少子化対策は(結果として連関性はあるものの)まずは切り離して考えるべき。」というものがあります。その観点から「子育て支援で鳴らしている自治体の取組を国レベルで持て囃してはならない」と思っています。これは説明が必要です。

 

 私は、例えば兵庫県明石市の子育て支援の取組は素晴らしいと思います。それによって若年層の流入から人口増にもなっています。投資的経費(水道事業)等を削り込みながら財源を捻出し、様々なアイデアを出して来た泉市長の手腕は地方自治の一つのあるべき姿です。ただし、ああいう人口増の政策が可能なのは巨大な神戸市が隣にあるからです(ただ、神戸市は人口減が著しく、数年前には川崎市に抜かれました)。彼我の差を見せ付けて、自市に人口を引き付けるやり方は大都市が近くにある都市のみがやれます。北九州市が明石市みたいな事をやったら、(北九州市より人口減少が激しい)周辺の市町村が大打撃を受けてしまいます。

 

 また、明石市のような「彼我の差を見せ付けるやり方」は、都市間競争が可能な地方自治体だからやれるのです。国レベルではそれはやれません。言い換えると、地方自治体による子育て支援充実による人口増の効果は、①子育て支援そのものによる安心感から来る出生増、②他の自治体との比較で若年層を誘致する効果の2つに分解出来ると思いますが、国レベルでは①のみがあり、②はありません。

 

 だから、明石市長の取組を見て、「これを国レベルでやれば少子化解消は可能だ」と思うのは間違いです。よく政治関係者が同市を訪問していますが、「都市間競争のない国」レベルで判断しなくてはならない国会議員は無邪気な称賛に留まるべきではありません。そこに留まるのであれば、むしろ危険です(明石市と同じ事を国でやっても、明石市と同じ効果にはならないので)。故に私は「子育て支援でない少子化対策」を強く主張しているのです。

 

 「子育て支援でない少子化対策」は、耳障りのする話が必ず含まれるので口にするのが辛いのです。「子育て支援充実」だけ言っておけばいいのならどれだけ楽か、と思います。今回の岸田総理の少子化対策のたたき台をみて、「これまで食べていた牛丼を3倍肉増しにして『どうだ、異次元だろう!』と言っている」ように見えるのです(なお、私はチェーン店系の牛丼はとても大好きであり過小評価する意図は一切ありません)。

 

 「子育て支援と少子化対策を一旦切り離し、少子化対策に真正面から向き合う」という視点に立たないのであれば、これからの取組は絶対に失敗します。岸田政権になって、今秋で2年になります。政局優先で2年の時間を徒過したとすら言えます。これ以上、亡国の歩みを続ける事は出来ないとの切迫感を持っています。

 私は福岡県選出ですが、今国会、結構詰めた議論をしているのが「乳製品の輸入」についてです。今、乳製品の過剰と減産が深刻になっています。主力の北海道のみならず、全国各地の酪農家が困っています。そういう中、今、日本は生乳ベースで13.7万トンの乳製品を輸入しています(実際には生乳を輸入できるわけではないので、バター、チーズ、脱脂粉乳、ホエイ等で輸入しています)。これはWTO協定にて、1986-88年の輸入量平均相当分の輸入機会を提供する事が求められている事(カレント・アクセス)があります。現在、国内で減産・廃業が出ている中、この生乳ベース13.7万トンの輸入は必要なのか、という議論は当然のように出て来ます。

 

 私は過去から現在に至るまでずっと通商政策・通商法を専門にしておりまして、(現場に詳しいわけではないけれども)通商法側からこのような分野には強い関心を持っています。という事で、2月2日の予算委員会で野村大臣に怒涛の押しをやっています。まず、私から「WTO協定で求められているのは、輸入機会の提供義務であって、輸入義務ではないですね?」という事をしつこく聞いています。野村大臣は鹿児島出身のため、畜産には関心がありますが、酪農にはあまり関心がありません。しかも、やり取りをしていると分かるのですが、自身が最高責任者という意識が低いです(自民党の農林インナー幹部の意識のままです)。なので、議論が行ったり来たりしていますが、「輸入義務ではない」という事は明言しました。

 

 しかし、日本は決められた13.7万トン分を全量輸入しています(事実上の輸入義務)。これは何故かと言うと、国内の需給に影響を与えないためという理由で、国が一元的に管理輸入しているからです(国家貿易)。日本の理屈は、国家貿易をしているから全量輸入しなくてはいかんのだ、というものです。これはコメも、小麦も、乳製品も同様です。しかしですね、昨今のアメリカでの物価上昇によって内外価格差が無くなってきています。実際に入札に掛けると、最近はコメも、乳製品(脱脂粉乳)も不落が連発しています。つまり何が言いたいかというと、「国内の農産品は高い。競争力がない。なので国家貿易でガチガチに管理しなくてはならない。」という世界観が変わってきているので、今の仕組みを見直したらどうか?と質問しているわけです。

 

 日本は全量輸入に自縄自縛なので、入札で不落を出した後も、アメリカには「売ってください」と言い、国内事業者には「何とか買ってください」と振り向け、何とか入札が成立するように精一杯の努力をしています。「輸入機会の提供は一度出せばよくて、一旦不落を出したら打ち切るべきではないか。」とも指摘しています。この「不落を出したら打ち切れ」の指摘は相当に農林水産省に効いているようで、昨年度末、乳製品の輸入の仕組みを少し変更しました(なお、コメについても昨年の通常国会で私がガンガンやったため、入札不落を出さないよう慎重にやっている事を窺わせます)。

 

 まあ、こんな感じの事を予算委でやったのですが、野村大臣はずっとポイント外れでした。なので、質問主意書で課題をガチガチに詰めました。答弁書では「農水省として出来れば言いたくなかった事」を概ね言っていただいています。ただ、不明確な点があったので再質問主意書を出し、先日答弁書が返ってきました。要点を纏めると、

 

● 入札不落を出した後も何回も入札をして枠を満たす努力をする必要があるのは、国家貿易品目(コメ、小麦・大麦、乳製品等)のみ。
● 国家貿易は「品質の差異を考慮」と言っているから、外国産と国産にどのような品質の違いがあるのか、と聞いたら答えず(注:答えにくいはず)。
● 「国家貿易なら全量輸入」という解釈はWTO加盟国で共有されているかについて、答える立場にない(注:日本独自の解釈である事を窺わせる)。
● 全量輸入をしなくていい「客観的に輸入が困難な場合」は、日本の事情ではなく、相手国(アメリカ)の事情を指す(注:これには驚きました)。
 

 極めてテクニカルなのですが、法的な論点整理は概ねこの辺りまでで尽きていると思います。あとは現場感を踏まえた議論を、酪農地域選出の議員に頑張ってほしいです。ただ、私も引き続きコミットしていきます。北海道の酪農地域にも行ってみようと思っています(どうも高校同級生が道東で酪農をやっているという話も聞いていますし)。