りんとの対話 22. | ブログ.

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事実は小説よりも奇なり.
Truth is stranger than fiction.

息子りんの絵と猫と, 愛する人生と.
Rin’s arts,cats,and loved life.


















息子
学校など
常識的な
枠や制限がある世界では
できないことだらけで













だから
重度の知的障害者という
判定を受けているのだが










でも
絵画の世界
まつやま絵画教室
エネルギーが爆発する場所
わたしと二人のときなど











枠や制限や常識を超えた
解放的な世界や
息子を誰も判断しない世界では











障害という言葉が
全く当てはまらないどころか










絵や言葉や生き方や存在で
世の中に
爆発的に影響を与えるくらいの










賢さを越えた
宇宙の叡智を知る
覚者のような存在が












本来の息子の姿
ありのままの息子だと
だんだんわかってきた









だから
息子は
『できない』のではなく
『しない』で










それは
障害ではなく
彼の選択、わがままなのではないか
と思うようになっていった



























そしてわたしも
息子が産まれる前からの
わたしの人生
息子や息子の絵から
影響を受けたこともあり











どんどん
ありのままのわたしに
集中していくと
還っていく










それまでは
器用な方だと思うし
何でも調べてでも頑張ってでも
やってきたしできたが









だんだん
〝できるけれど、しない〟
〝できるけれど、したくない〟
〝できるけれど、する必要がない
ということが増えた



















  



それは
お金のことでいえば
他は全て人にお願いし
今は自分のお小遣いを
管理する程度になり










でも収入は無いから
使うこともほぼ無いので
それすらほぼする必要がなく









それは
未就学児や小学校の低学年レベルで
と思うようになった





 






また、車も
免許はまだ持っているが
もう乗っていなかったのもあり
タイミングもあり
3年前に愛車を手放したので










その後は必要なときに
両親や娘たちの車を
借りる生活だったが









今、その車さえ
運転することはほとんどなくなり
助手席に乗せてもらうことが
多くなり











また先のことや
起こってくることは
わからないし
しないと決めた訳ではないが











結婚も今は考えておらず
それは神や自分という
泣くほど愛する存在と統合し
する必要を感じないからで











と思った

息子も結婚という形はとらないが
老若男女関係なく
パートナー関係にある、誰かと共に生きる
という選択はするかもしれないし
わたしもするかもしれないし

















またわたしは
小さい頃から
インテリアなどが大好きで
家のことも好きだったが










人生が混乱していたことと同じく
インテリアや家のことも
混乱していて 
まとまりも整理もしきれずにいたが











去年の大掃除以来
人生と同じように
整理されていき
思い通りになっていき











普段の掃除も
長女とマイペースだが
定期的にしているので
ずっと整った状態が続いている









だから
出した物は
その都度その都度片付ける
物の住所にきちんと戻す
ということが









この歳になり
やっと当たり前になり
それは人生やこのブログが
整理整頓されていることと
完全に繋がっていったのだが











息子は
掃除や片付けを
特別する訳ではなかったが










帰ったら
ランドセルはここに置く

帰ったら
お弁当箱や水筒は流しに置く

DVDを見終わったら
きちんとケースに戻す

食べたお皿や
飲んだコップは
流しに置く

脱いだパジャマは
洗濯カゴに入れる









という
彼がやるべき
最低限のことを










わたしは
根気よく教えた記憶も
教えた記憶すら無いので
息子は多分
自然にそれをするようになり










それは
一度もやらない日がないくらい
誰よりもきちんとしていて











最近似てきて








 

ああ、息子は
ここにいたのか
と改めてわかった
















そして
何より











爆発的で緻密な表現も
神の道具であることも










全てそれは
わたしたちの人生や
生き方そのものであることも
同じで









わたしも
やっとそこに
還ってきて









わたしは
やはり息子の生き方は
障害健常関係の無い
息子の選択だったのだ
と思った