私は教育学を学びながら教員という職には就かなかった。理由は色々あるけれど、大学3年生のある日、突然

「本当の素晴らしい教育者は教員免許を持った人とか、長年教壇にたった人とか、学歴優秀な人ではなくて、沖縄の片田舎に暮らすおばあちゃんってこともあるなぁ」

と思った瞬間、教員免許そのものが持つ薄っぺらさに恐怖を感じたこともひとつの原因である。

 

人を理解するということ、人が成長する過程に関わるという仕事について、どこかの大学でいくらかの規定単位をとったからといって

「あなたがそのプロなんだ」

と太鼓判を押されるようなものであってはいけないんじゃないか?という私のささやかな抵抗である。

 

では一方私が子どもを預ける立場だったらどう思うのだろう?と、ふと最近考えるようになった。

やはり無免許より免許があった方が良いだろうし、あらゆる事で資格を持っている人は何となく頼りになりそうだから、例えば療育期間に子どもを預けることになったとしても

・言語聴覚士

・作業療法士

・臨床心理士

の意見には、「もしかしたら」耳を傾けるのかも??

でも、相手がその資格やバックグラウンド、出身大学を先に言ってから私に何か説明をしたら・・・・・ そこには既に私の偏見(資格者の言う事は正しいハズだという偏見)が混ざることになって、結果的に相手の見立てが自分にとって絶望的な時の逃げ道もなくなる。

だから私はあまり

資格者の判断 = 正しい

とは思いたくはない。

これは私の母の癌の体験父の肺がん手術失敗、私自身の妊娠問題などでも何度もお伝えした通りである。

 

資格は最低限の知識を保障はしてはいるけれど、その人の物の見方、柔軟性、対人能力、子どもの能力にアクセスする力、問題への対処力を保障するものではない。

そもそも昔から日本を支える職人には資格はなかったし、職人というのは自分の作ったもので勝負していて、それこそが日本をつないできた。つまり昔の人には、出来上がったものを判断する審美眼があったということでもあろう。

そういう意味では現代では何かを見抜く事はとても難しくもなっているのかもしれない。

 

私自身、教育という分野に身を置いて、または代替療法という分野に身を置いて資格よりも優先して重要である感じることは、

「目の前の人にどれだけ心を砕く事ができるか」

という人間力である。 目に見えないこの要素であるだけに、相手の診断が正しいかどうかを判断するためには、こちら側の人間力そのものが試されもする。

けれど目の前の人に本当の意味で心を砕ける人は、問題の解決策についても右往左往しながら知識を得ようと努めるものなので、たいてい知識も豊富である。

 

さて色々な代替療法家や療育関係者に会ってきたが、現在の私にとっての代替療法家・教育者ナンバーワン職人は鈴木昭平先生である。

彼は本気の職人として問題を解決する事だけに徹底的に専心しているので、話を聞いているとその熱量に圧倒もされてしまう。そして不思議なことに先生が療育的なことをちょっとすると子どもたちはキラキラした目で先生に注目もする。

 

反対に代替療法家でも療育関係者でも

「私の出身大学は○○だ」

とか

「私は○○の資格がある」

とか

「今、医者(あるいは臨床心理士)になるために勉強している」

とか、現在の実績ではなく、過去や未来のことを真っ先に引き合いに出してくる人はあまりにも多く、残念でもある。

 

そうではなく、今この時代に必要なのは、職人力の集結

あらゆる療育の職人、あらゆる代替療法の職人が、「療育成果を出す」「治療効果を出す」という「職人として誇り」のもとに集結する事!!だと思う。

 

職人の皆さまのご協力、お願いします!!