『日本書紀』の天武天皇十二年(683)年4月15日条に、「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ。」という一文があります。
この銅銭こそが、日本最古の通貨として鋳造された「富本銭(ふほんせん)」です。
1997(平成9)年より発掘が開始された、奈良県明日香村 飛鳥池工房遺跡から、確実に和同開珎(わどうかいちん)よりも古い年代をもつ富本銭が発見されたのです。
この発見は、日本の貨幣史上の特筆すべき出来事でした😲
今、上記に2つの貨幣を挙げました。
富本銭と和同開珎です。
ある国公立大学の入試問題で、この2つの貨幣はどのような目的で鋳造され、そして両貨幣ともに通貨として鋳造されたと考えられているにもかかわらず、どうしてそれほど流通しなかったのかを問う出題がありました。
今回はこの点について考えてみたいと思います😊
日本の古代律令国家は、全部で十二種類の銭貨を鋳造しています。
これを本朝(ほんちょう)十二銭、あるいは皇朝(こうちょう)十二銭と呼んでいます。
この本朝十二銭の最初の銭貨が、和同開珎になります。
富本銭は本朝十二銭には含まれていません。
富本銭・和同開珎ともに、実はある重要な国家事業に関連して鋳造されていました。
まず富本銭ですが、この貨幣は天武天皇の時代に鋳造されたものです。
古代史における最大の皇位継承戦争と称される壬申の乱に勝利した天武天皇は、どのような政策を実行していくのでしょうか❓
畿内(現在の奈良県・大阪府・京都府)の有力豪族との連合政権であったヤマト政権の長である天皇は、豪族を自らに従属させる機会をうかがっていました。
豪族の力は大変に強く、天皇に匹敵する経済力・軍事力を保有していたからです。
この豪族を天皇の臣下とする絶好の機会がおとずれます。
それが壬申の乱でした。
この乱を通じて畿内の多くの有力豪族が没落する中、戦争に勝利した天武天皇の権威が著しく高揚していきます。
そして天武天皇は豪族を自らの支配下におくべく、豪族の経済力を奪う方針を打ち出すのです。
日本史の教科書にも書かれてある通り、豪族が私的に保有していた民を廃止し、豪族の官僚化を進めていきます。
こうして新しい都(=藤原京)の造営が計画されます。
豪族を天皇が造営した都の中に閉じ込めて監視し、豪族を官僚化して天皇が給料を与えることで豪族を天皇に従属させたのです。
都の造営には莫大な費用がかかります。
都は人の手によって作られますから、造営に関わった人々への給料として支払うべく銭貨が鋳造されました。
これが富本銭です。
つまり富本銭は、藤原京造営にかかる費用をまかなうために鋳造されたのです。
和同開珎はどうでしょうか❓
和同開珎は708(和銅元)年、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県)から銅が献上されたことで鋳造された貨幣です。
中学校でも学ぶ通り、710(和銅3)年に藤原京から平城京への遷都が実施されるわけですから、和同開珎の鋳造も富本銭同様、都の造営と深く関係しています。
つまり、和同開珎は平城京の造営に雇われた人々への支給など宮都造営費用の支払いに利用すべく鋳造されたのです。
富本銭は通貨として鋳造されたのか否かについてはさまざまな説がありますが、和同開珎は明らかに通貨として鋳造された貨幣で、京・畿内では広く流通していました。
しかし京・畿内を中心とした地域の外では、和同開珎は流通せず、稲や布などの物品による交易が広く実施されていました。
なぜでしょうか❓
授業ではこの点について生徒に質問しますが、生徒からは「貨幣に対する信用のなさ」という解答が返ってきます😊
「貨幣の価値」に対する認識が都を中心とした地域以外には浸透していなかった、ということになるわけです。
時代によって、何に価値を置くのかの基準が異なります。
社会の変化を敏感に感じ取って、次世代には何が必要になるのかを考えていくための重要な道しるべとなるのが歴史です。
歴史を深めることで、未来を志向する姿勢を身に着けることができるはずです😊