みなさんは、「明六社」を知っていますか❓
明六社は、アメリカから帰国した旧薩摩藩(現:鹿児島県)の藩士であった森有礼(もり ありのり)が、1873(明治6)年、欧米諸国の学会にならった学術・談話の会の設立を志し、西村茂樹らと相談して結成された結社です。
西村茂樹は、下総国(現:千葉県)佐倉藩士の家に生まれています。
幕末期、藩主であった堀田正睦(ほった まさよし)が老中外国事務専任になると、側近として活躍し、のちに貴族院議員として活躍しています。
1874(明治7)年に決められた規則では、日本の教育の発展をはかり、会員相互の意見交換で知識の発達を目指すとされ、月2回の集会と『明六雑誌』の発刊を主な活動とし、西洋文明の摂取に多大の影響を及ぼしました。
当初の会員は、森有礼と西村茂樹のほか、加藤弘之・津田真道・中村正直・西周(にし あまね)・福沢諭吉ら10人でした。
加藤弘之はのちに帝国大学(現:東京大学)総長を歴任するなど、日本の政治学者・教育家として知られる人物です。
西周は幕府留学生として津田真道らとオランダに留学し、法律・政治・経済・哲学などを学んで帰国し、開成所(江戸幕府の洋学研究教育機関で、のちの東京大学)の教授を務めます。
そしてのちに「哲学」「理性」「主権」といった訳語を作り出し、近代哲学の基礎を築いた人物です。
明六社の会員はそのほとんどが幕末に蘭学を学び、のち英語・フランス語・ドイツ語などを学ぶことで洋学研究を深めた人達ばかりです。
そしてその卓越した洋学知識で幕府の開成所に仕え、幕府の使節団員や留学生として欧米経験を経た者で、明治維新後、福沢諭吉を除いては明治政府に仕えました。
明六社の機関誌である『明六雑誌』は、会員の講演や論文を毎号掲載し、当時一流の啓蒙(けいもう:一般の人々の無知をきりひらき、正しい知識を与えること)雑誌として多大の影響を与えました。
明六社は西洋文明を日本国民に広めた、当時先進的な学術集団ではありましたが、1874(明治7)年に板垣退助らによって提出された「民撰議院(=現:国会)設立の建白書」に対しては、誌上で一斉に批判して、時期尚早論を展開しています。
ここからわかるように、明六社は政府の開化路線を基本的に支持する立場から啓蒙活動を展開していったのです。
明六社会員であった福沢諭吉は、一身独立の文明精神を啓蒙するためには学者は官(国家)に仕えず、「私立」の手本となるべきだと主張しています。
こうした考え方に対して、森有礼や加藤弘之らは「官」にあるも「私」にあるも学問に変わりはないとして反論しています。
しかし、自由民権運動が展開される中、反政府的言論活動を抑制する必要から政府は1875(明治8)年に讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例を発布します。
政府が発令した言論統制の法に抵触することを恐れた福沢諭吉の提案で、『明六雑誌』を同年11月に廃刊、明六社の啓蒙活動も終焉を迎えることになります。
しかし学問を話し合う場としては1910(明治43)年頃まで続き、東京学士会院発足に大きな影響を与えました。
東京学士会院は、1906(明治39)年に帝国学士院に改組され、帝国学士院も1947(昭和22)年には日本学士院に改称されています。
日本学士院は、日本最高の学術栄誉機関です。
1949(昭和24)年に日本学術会議の付置機関となりますが、1956(昭和31)年には「学術上功績顕著な科学者」を優遇する機関として日本学術会議から独立し、現在に至っています。
この日本学士院の起源は、東京学士会院です。
東京学士会院の初代会長に就任した福沢諭吉は、「官」ではなく「民」の中で啓蒙活動を展開し、慶應義塾を創設することで多くの人材を世に輩出したのでした。
明六社から始まった近代的な「学問=新たなる知の獲得」という活動は、これまでも、そしてこれからも未来を目指して生き続ける人々によって営まれていくものなのだと思います😊