前回の続きになります。

 

 

 

 

墾田永年私財法発令にともなう、初期荘園の形成についてでした。

 

 

 

 

 

高等学校で使用する日本史教科書などには、次のように記述されています。

 

 

 

 

墾田永年私財法の「墾田」とは、新たに開墾した田地のことで「治田(ちでん)」とも記されています。

 

 

 

墾田の面積は身分に応じて制限されていましたが、開墾した田地の私有が政府によって永年にわたって保障されることになりました。

 

 

 

 

この法は、政府の掌握する田地を増加させることにより土地支配の強化をはかる積極的な政策でしたが、その一方で貴族・寺院や地方豪族たちの私有地拡大を進めることになりました。

 

 

 

 

とくに東大寺などの大寺院は、広大な原野を独占し、国司郡司の協力のもとに、付近の農民や浮浪人らを使用して灌漑施設をつくり、大規模な原野の開墾を行いました。

 

 

 

 

こうして初期荘園とよばれる荘園が誕生することになります。

 

 

 

 

この初期荘園は、経営拠点の荘所を中心に、国司郡司の地方統治に依存して営まれ、独自の荘民をもたず、郡司の弱体化にともない衰退していくのです😓

 

 

 

 

これは一体どういうことでしょうか❓

 

 

 

 

初期荘園とよばれた荘園の内部に存在したのは、既耕地である墾田と墾田予定地、および荘所に限定されていました。

 

 

 

 

農民たちが住む集落は荘園の領域の外部に存在していたことから、初期荘園は集落を含まず、荘民も原則として存在していませんでした。

 

 

 

 

このため、墾田の開発や耕作は、周辺の班田農民(口分田を班給され、税を負担した農民)による労働力に全面的に依存せざるをえず、耕作は賃租(ちんそ)という1年契約の小作によって行われたのです。

 

 

 

 

賃租とは、古代における田地に対する1年間の賃貸借制度です。

 

 

 

 

古代には、田地などの不動産売買に2つの種類がありました。

 

 

 

 

1つは1年を限度とする売買で、律令用語で賃租といい、もう1つは、長期間にわたる永年の売買で永売(えいばい)といいました。

 

 

 

 

賃租は、収穫の5分の1(つまり20%)を地子(じし:賃貸料のこと)として政府や持ち主に納めました。

 

 

 

 

このように初期荘園固有の労働力を持たなかったので、平安中期には衰退していくことになりました。

 

 

 

 

初期荘園の基盤が脆弱(ぜいじゃく)であったのは、その開発が律令国家の耕地拡大政策の一環として導入されたもので、当時の技術水準では開発の困難な土地が多く含まれていたためでした。

 

 

 

 

また労働力の徴発についても、旧国造(くにのみやつこ)に系譜を引く郡司に依存していたことによります。

 

 

 

 

初期荘園は律令制下の班田収授制に矛盾せず、むしろこれを補完する役割が期待されたのですが、強制労働に対して班田農民たちは激しく抵抗します。

 

 

 

 

さらには地方の実情をよく把握し、荘園を開発するために民衆を動員することに大きな役割を担った郡司の力が弱まることで、労働力となる農民を集めることが困難となる中、初期荘園は衰退していくことになったのです😓

 

 

 

 

 

 

 

つまり!

 

 

 

 

 

 

 

 

初期荘園は国家が主導して形成された荘園でした。

 

 

 

 

政府が掌握することができる田地を増加させるため、農民の労働力を強制的に集めたのでした。

 

 

 

 

ですから民衆統治に特に重要な役割を果たした郡司が弱体化するとともに、初期荘園も衰退していく道をたどったのです。

 

 

 

 

ちなみに初期荘園には官省符荘(かんしょうふしょう)と、墾田集積荘園(こんでんしゅうせきしょうえん)とがあります。

 

 

 

 

前者は政府から不輸租(ふゆそ:租を納めなくてよい)と永世所有を公認され、律令国家期では特定の神社と寺院だけが所有することができました。

 

 

 

 

後者は租を納めなければならない輸租田で、領有者は荘園から賃租価直(ちんそかちょく:農民に1年間耕作させるかわりに徴収するもの)を得るだけでした。

 

 

 

 

初期荘園は国家の思惑によって誕生し、国家体制の変質とともに消えていったのです。