• 29 May
    • 日本史の基本118(25-8 朝鮮侵略)

      25-8 朝鮮侵略   豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、明(ミン)の征服を意図して、2度にわたり朝鮮に出兵した(朝鮮侵略、文禄の役(ぶんろくのえき)・慶長の役(けいちょうのえき)、朝鮮側では壬辰・丁酉倭乱(じんしんていゆうわらん)と呼ぶ)。   文禄の役(1592~1593)では、李舜臣(りしゅんしん/イスンシン)の率いる朝鮮水軍の活躍や義兵(ぎへい)の抵抗、明の参戦などにより、日本軍は補給路を断たれた状態におちいった。 また慶長の役(1597~1598)では、日本軍は当初から苦戦を余儀なくされ、秀吉の病死を機に撤兵した。   以後、豊臣政権は急速に衰亡していくことになる。   【文禄・慶長の役=壬辰・丁酉倭乱】

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    • 【東大教室】ブログ上公開演習➊-4(解説解答)

      *【東大教室】ブログ上公開演習➊-3(解説解答)の続きです。 *問題は、【東大教室】ブログ上公開演習➊-1(問題)で確認してください。   演習➊ 中世(総合) 御成敗式目と建武式目   解説③   ■設問C 室町幕府法   この設問は、解答例を読んでもらえれば、解説を加えるまでもないかもしれない。   まず御成敗式目については、何よりも、北条泰時が式目制定の趣旨などを説明した北条泰時書状(泰時消息文)を熟読しておくことが大切である。 その上で、以下の点に気をつけておきたい。 (a) 1232(貞永元)年に制定された御成敗式目は、合議のための指針・公平な裁判のための基準、を示すために編纂された。   (b) 御成敗式目は、武家最初の体系的法典であり、幕府法の自立を宣言するものだったが、一方で、律令の系譜をひく公家法や、荘園領主のもとでの本所法と共存する性格をもっていた。 この特徴は、泰時消息文のなかの、「この式目は・・・・・・武家の人へのはからひのためばかりに候。これによりて京都の御沙汰、律令のおきて聊(いささか)もあらたまるべきにあらず候也」、という表現によく示されている。   (c) 室町幕府の基本法として機能したのは、鎌倉幕府と同様、御成敗式目だった。 鎌倉幕府による御成敗式目の追加法は式目追加と総称され、室町幕府による御成敗式目の追加法は建武以来追加と総称された。   この点に関連して、室町幕府の成立期までを武家方から描いた歴史書『梅松論』の一節を紹介しておきたい。 そこには、「時節到来にや、元弘三(1333)年の夏、時政の子孫七百余人同時に滅亡すといへども、定め置ける条々は今に残り、天下を治め弓箭(ゆみや)の道をただす法となりけるこそ目出度(めでた)けれ」といった記述が残されている。   下線部の大意は、「御成敗式目などの法令は、現在もなお天下を統治し、武士社会を律する法として機能しており、実に結構なことだ」、となり、御成敗式目の性格が象徴的に示されている。   (d) 御成敗式目は、以後も戦国大名の分国法に影響を与え、近世になると寺子屋の学習教材として利用されるなど、その生命力はきわめて強力だった。 一方、建武式目の性格に関して、教科書は「当面の政治方針を明らかにした」(『詳説日本史B』p.122)といった説明を加えている。 この観点から、史料(1)(御成敗式目)と史料(2)(建武式目)をあらためて読み比べてもらえれば、その違いを明快につかむことができるだろう。   先に引用した『分裂する王権と社会』中の表現にも、建武式目について、「御成敗式目とはまったく異なるふうがわりな法」、「政権創出にあたって超越的な規範を定めたというようなものではなく、状況対応的な色彩が強い」とあり、御成敗式目との性格の相違が明示されている。   別の研究者(新田一郎氏)の表現を借りれば、「(建武式目の)全体は二つの部分に分かたれ、第一の部分では、武家政権を前代のように鎌倉に置くべきかどうかが問題とされ、第二の部分では、政務に関わる基本姿勢や当面する問題への対処」がまとめられており、特に末尾の部分(史料(2))では「為政者たる者の心得」が説かれた、ということになる(『日本の歴史11 太平記の時代』講談社、2001年)。   以上のことからわかるように、建武式目はあくまでも、当面する政治の基本方針を示す性格をもつものだった。 この機会に、鎌倉幕府法と室町幕府法の関係を正確に理解し直しておこう。   解 答 Cロは当面の政治方針を示すもので、幕府はイを基本法、建武年間以降の法令をその追加法とし、これらを建武以来追加と総称した。 (60字)

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  • 28 May
    • 【極意】“君はハレルヤの心を忘れていないか”

      こんにちは。 いつもありがとう。   今日は、結果としてハレルヤな一日になりました↓。   ありがとうございます。 望外な褒め言葉を頂戴したので、少し書きにくいのですが、ぜひ読んでみてください。   受験勉強の極意を垣間見ることができます。 どこだかわからない場合もあるかもしれません。 引用します。 さてさて、ワタシのブログは、 受験生とは全く無縁です   受験勉強とは、この表現を借用すれば、あたかも無縁であるかのような諸事象のなかに潜む関係性を読み解いていく作業です。 今後の入試改革の方向性を考慮すると、この傾向は急速に強められていくはずです。   受験生の皆さん。 アタマに備わっているアンテナを意識的に起立させて学習を重ねましょう。   ハレルヤさんのブログには、実利的な側面もありました。 ブログタイトルに含まれている「カサンドラ」(ここでは医学用語)とは、もともとギリシア神話に登場する女性。   現代文などでいつ登場してもおかしくありません。 「現在の東アジア情勢はカサンドラ状態にあるようだ」といった使い方も可能です。 勉強の合間に、日本史上におけるカサンドラ現象も探ってみてください。

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    • 君はハレルヤの心を忘れていないか

      皆さん、こんにちは。 いつもありがとう。   ハレルヤさんが、記事をリブログしてくれました↓。 http://ameblo.jp/show3206/entry-12278405070.html   当初、リブログできない設定になっていましたが、何と設定を変更してくれました。 本当にありがとうございます。 どうか一度読んでみてください。   なお、この記事ではリブログ画像だけ貼りつけてあります。 とりあえず、それしかできなかったので、ご了解ください。 ハレルヤさんのブログに飛ぶ際には、上記のURLから。   コメント欄にも記したとおり、残念ながら、僕には何か有益なアドバイスを送る能力も資格も経験もありません。   ただ大学受験業界に生息する者として言えるのは、受験生とはとても幸運な存在であるということ。 あれこれの困難からすべて解放されるなんてことはありえませんが、とにもかくにも、勉強できる条件と環境が存在するという稀少性をあらためて自覚し直してください。 たとえくりかえし熱波に襲われても、この夏を乗り切って、成長した姿を必ずみせてほしいと願っています。   中島みゆき「ファイト!」の「Claíomh Solais〜クラウソラス〜」バージョンを貼っておきます。   応援ソングとして、間違いなく日本でもっともよく知られたもの。 福山雅治版や竹原ピストル版・吉田拓郎版とはまた異なる趣きがあるだろうと思います。   クラウソラスblog:http://ameblo.jp/claiomhsolais/

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  • 27 May
    • 日本史の基本117(25-7 海上と周辺地域)

      25-7 海上と周辺地域   16世紀後半、東アジアでは明(ミン)の衰退が明らかになっていた。 全国を統一した豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、こうした国際情勢のなかで、日本を中心とする東アジア地域の国際秩序を新しくつくりあげようとした。   ➊ 海上の平和の実現 1588年に海賊取締令(かいぞくとりしまりれい)をだし、倭寇(わこう)などの海賊行為を禁じた。   ➋ 新しい国際秩序の模索 ゴアのポルトガル政庁、マニラのスペイン政庁、高山国(こうざんこく)(台湾)などに服属を要求した。   ➌ キリスト教と南蛮貿易(なんばんぼうえき) 1587年にバテレン(宣教師)追放令をだしたが、一方で南蛮貿易を奨励したため、禁教方針は徹底しなかった。   ➍ サン=フェリペ号事件 1596年に発生した秀吉のスペイン船に対する積荷没収事件。 積荷没収に怒った乗組員が、スペイン国王はキリスト教布教の次に征服事業をおこなうという趣旨の発言をしたため、大問題に発展。 事件直後、秀吉は禁教方針を強化し、これが同年12月の26聖人殉教(にじゅうろくせいじんじゅんきょう)(宣教師・信者26名が長崎で処刑された日本初の殉教事件)につながった。   こうした事態の背景には、貿易と布教をめぐるポルトガルとスペインの確執(かくしつ)があったと考えられている。

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    • 【後生畏るべし】““論述の基本・解答編1(はじめに)””

      皆さん、こんにちは。 いつもありがとう。   奈々さんが記事をリブログしてくれました。 ありがとうございます。   画像で紹介されている答案を、とにかく読んでみてください。   後生畏るべし。 後輩の答案とは、言い訳を許さない衝動を放つもので、受験生(高3・高卒生)にとってかなり刺激になるはずです。   問いは、「冊封体制下において朝貢国(藩属国)が享受することのできる利益を、政治・経済両面から説明せよ」というものでした。   いくつか。   いうまでもなく、冊封体制は中国文明を起源とするもので、中国を中心にして解答をまとめて構いません。 一方、中国文明は、その伝播の過程で、周辺諸国にしばしば中華意識を形成させ、小中華帝国たろうとする行動をもたらしました。   この側面を考慮して(つまり汎用性を広げるため)、解答例は、中国(もしくは中国皇帝)という言葉を用いずに作成してあります。   どちらのパターンでまとめても、内容が正確であれば満点です。 大学受験の際に採点にあたる研究者の大半は、カタイ頭の持ち主ではないからです。   もう一点、「安全保障上の効果も高かった」について。 安全保障とは、外部の攻撃などから国家を守ること。   日本(それ以前は倭)の場合、四方を海という天然の要害に囲まれ、これが安全保障面で決定的な役割を発揮してきました。 解答例が「効果も高かった」というやや付加的な表現になっているのは、そのためです。   陸続きだったら、強弱が異なってきます。 たとえば、中国と朝鮮半島の諸国家との関係を語る場合、朝貢・冊封関係の形成はしばしば、安全保障上もっとも重大で不可欠な性格を帯びていました。

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  • 26 May
    • 【東大教室】ブログ上公開演習➊-3(解説解答)

      *【東大教室】ブログ上公開演習➊-2(解説解答)の続きです。 *問題は、【東大教室】ブログ上公開演習➊-1(問題)で確認してください。   演習➊ 中世(総合) 御成敗式目と建武式目   解説②   ■設問B 政治的意図   この設問は、問題の限定にしたがって素直に考えてくれればよい。   限定① 「当時の政治情勢を前提に」 建武式目が発せられた1336(建武3)年は、建武の新政が完全に挫折し、南北朝の対立が明確になった年である。 具体的には、入京を果たした足利尊氏によって同年8月に光明天皇(持明院統)が擁立される一方で、12月、ひそかに京都を脱して吉野に移った後醍醐天皇(大覚寺統)は、依然として正統な天皇は自分であると主張した。   興福寺のある僧は、この事態を「一天両帝、南北京」と形容している(『大乗院日記目録』)。   限定② 「光明天皇が……変則的な儀式を経て即位した」 この事実から、尊氏の擁立した北朝には正統性の点で問題があったことを確認することができる。 なお、「三種の神器」とは、皇位を象徴する3点の宝物(ほうもつ)=八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)をいう。   ここまでくれば、問題の要求である「政治的意図」を見抜くのは、難しいことではない。   尊氏の諮問に応えた「是円」らは、「延喜・天暦両聖の徳化」(下線部②)という表現を用いて、後醍醐天皇の掲げた政治上の理想をあえてくりかえしてみせることで、北朝のもつ脆弱(ぜいじゃく)性を少しでも補おうと考えたのである。   この点について、ある研究者(村井章介氏)は次のように述べている。 参考にしてほしい。 尊氏は建武式目を制定し、幕府の再興を内外に明らかにした。 建武式目は、同じ式目の名で呼ばれても、御成敗式目とはまったく異なるふうがわりな法である。……   建武式目の……内容は、「十七条憲法」に条数を合わせているものの、政権創出にあたって超越的な規範を定めたというようなものではなく、状況対応的な色彩が強い。   たとえば京中の空地を本主に返すことを定めた第5条には、後醍醐の叡山行幸につき従った「公家被官の仁」の所有地は、一律に没収するのではなく、罪の軽重によって処分に差異を設け、彼らが困窮しないようにする、とある。 後醍醐についていった人々の寝返りを誘う意図が透けて見える。   後文では「遠くは延喜・天暦両聖(醍醐・村上天皇)の徳化を訪い、近くは義時・泰時父子の行状をもって近代の師となす」と述べ、武家の聖代を並置しつつも、後醍醐が規範とした延喜・天暦の治を称えることで、建武政府の正統性をも取り込んでしまおうと図っている。   狼藉鎮圧を定めた第3条、……無尽銭・土倉の復興を定めた第6条は、京都の治安を回復し経済を立て直して、都びとの心を引きつける方策であった。 村井章介『日本の中世10 分裂する王権と社会』中央公論新社、2003年   解 答 B南北朝分立下、後醍醐天皇と同様の理想をあえて掲げて建武政権の継承すら唱えることで、尊氏の支える北朝の権威補完に努めた。 (60字)   *【東大教室】ブログ上公開演習➊-4(解説解答)に続く。

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    • 論述の基本・解答編7(原始・古代3・4)

      ➊ 倭王武・ワカタケル大王・雄略天皇の関係を説明せよ。 (100字)   ■関連記事 日本史の基本17(3-2 倭の五王)   ■重要図表 【倭の五王と天皇】   ★解答例は↓の先にあります。  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓ ■解答例 朝貢の結果、中国史書『宋書』などに倭王武と記された人物は、江田船山古墳・稲荷山古墳出土の銘文に漢字の音で表記されたワカタケル大王にあたり、8世紀になって成立した「記紀」に登場する雄略天皇に比定される。 (100字)

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  • 25 May
    • 日本史の基本116(25-6 太閤検地の意義)

      25-6 太閤検地の意義   豊臣秀吉(とよとみひでよし)は天下統一を終えた1591年、全国の諸大名に対し、その領国の検地帳(けんちちょう)と国絵図(くにえず)の提出を命じた。   また同時期に発せられた人掃令(ひとばらいれい)(身分統制令(みぶんとうせいれい))で、武家奉公人(ぶけほうこうにん)(傭兵(ようへい))が町人・百姓になること、百姓が商人・職人になること、武家奉公人が勝手に主人を代えることが禁じられ、諸身分の確定と朝鮮出兵のための人員確保が図られた。   ➊ 一地一作人の原則(いっちいっさくにんのげんそく) 一地一作人の原則とは、一つの土地の耕作権(事実上の所有権)を一人の農民だけに認めることをいう。 これにより、中世以来の土地に対する重層的な権利関係(荘園制(しょうえんせい))が明確に否定され、また刀狩(かたながり)(百姓の帯刀権(たいとうけん)を否定する政策、1588年に刀狩令(かたながりれい)発布)や人掃令などの諸政策ともあいまって兵農分離(へいのうぶんり)が確定した。   ➋ 農民 年貢(ねんぐ)納入の義務を負い、検地帳に記された土地での耕作を強制される存在になると同時に、農民の耕作権(事実上の所有権)が法的に認められたため、安定的な耕作が可能になった。   ➌ 石高制 全国規模で決定された石高は、年貢量の統一的基準、家臣への土地給与と軍役(ぐんやく)負担の統一的基準として機能した。   こうして石高制は、秀吉(のち徳川将軍(とくがわしょうぐん))を頂点とする、大名・家臣・農民間の関係を整然と一元的に秩序づけ、幕藩体制を支える基礎となった。

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    • 【東大教室】ブログ上公開演習➊-2(解説解答)

      *問題は、【東大教室】ブログ上公開演習➊-1(問題)で確認してください。   演習➊ 中世(総合) 御成敗式目と建武式目   解説①   ■問題の性格   御成敗式目(貞永式目)と建武式目を題材に、以下の3点をとりあげた。   設問A 年紀法(知行年紀法)の意味をまとめる基本的論述問題。 注釈やヒントなしでの出題も可能だったが、東大の出題形式にあわせて史料読解という要素を強めた。   設問B 建武式目の一文にこめられた政治的意図を推測させる論述問題。 歴史(建武の新政)についての基本的理解に、設問のヒントを重ねて思考することができた受験生は正解に近づけたはずである。   設問C 室町幕府法のあり方に関する基本的論述問題。 この設問についても、与えられた史料(1)・(2)から、御成敗式目と建武式目の性格の相違を、その場で再確認できるようにした。   それでは、設問Aから順に、理解しておくべき内容と論述のためのポイントを整理していこう。   ■設問A 年紀法(知行年紀法)   問題に引用した史料(1)は、教科書にも必ず掲載されているものだが、まず全文の意味を確認しておく。   一 下文(ここでは所領に関する公的文書をさす)を所持しているにもかかわらず、実際にその土地を支配しないまま、相当期間を経過した所領のこと。   これについては、現実にその土地を支配して20年を経過した場合は、源頼朝時代の慣例どおり、法的正当性の有無にかかわらず、(現実の所領支配者を)交代させることはできない。   この文章を一言で説明すると、所領支配の現実が20年続けば、その実状を権利に転化させて確定する、ということになる。   これは、所領支配における一種の時効(ある一定の事実状態が長期間継続した場合に法的規定に合致するどうかにかかわらず権利の取得または消滅を認めること)規定を明文化したもので、年紀法(知行年紀法、20カ年年紀法)と呼ばれ、武士社会が「正当」としてきた重要な道理の一つだった。   引用史料について、補足の説明を加えておく。   受講生のなかには、史料(1)の前半部(事書(ことがき))と後半部(本文)が食い違っているように感じた者がいたかもしれない。   時効という言葉を用いると、確かに、前半部は時効の消滅について規定すると述べているようであり、後半部は時効がどのようにして生じるかという説明になっている。 この点については、裏返しの表現を用いてはいるものの、事実上、同じことを述べていると考えてもらえればよいだろう。   ついでに、下線部①の冒頭「当知行」の意味についても簡単に説明しておきたい。 知行という用語は多義的なので、受験生の段階では区別がつきにくいのも当然だが、おおよそ、次のように考えておけばよい。   知行 中世~近世において、土地を支配し、そこから収益をあげることをさす用語。 中世社会においては、現実に知行していることを当知行、知行を失った状態を不知行と呼んだ。 鎌倉時代末以降、荘園制の崩壊にともなって、土地そのものの知行という傾向が強まり、戦国大名などは家臣に土地自体を知行として与えるようになった(知行地)。   知行地 江戸時代、幕府が大名に与えた土地を領知などと呼称したのに対して、主に大名などが地方知行制(じかたちぎょうせい)のもとで家臣に与えた土地のことを知行地(知行所)と呼んだ。   なお、解答例は史料(1)全体を読みとったうえでまとめてあるが、設問Aは、下線部①の「内容」を「わかりやすく」まとめよという問題なので、全訳内の下線部が正しく解釈されていればよい。   また、この機会に鎌倉時代における所領裁判のあり方についても、必ず再確認しておきたい。 → 参考:□教科書の研究(鎌倉時代の裁判)   解 答 A一種の時効規定で、現実に20年を経過した所領支配の権利は、下文所持の有無などにかかわらず必ず保障されるという道理を示す。 (60字)   *【東大教室】ブログ上公開演習➊-3(解説解答)に続く。

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  • 24 May
    • 【再掲示】論述力向上曲線

      皆さん、こんにちは。 いつもありがとう。   何人かの受験生から、論述問題がなかなかできるようにならなくて、とてつもなく不安だ、という相談がありました。   成果を急いではいけません。 論述力の実力向上曲線は、数学力のそれに似ているからです。 着々と右肩上がりで進むことはなく、ある停滞的に感じる時期(醸造・熟成の時間)を経過すると、突然、「次の地平(そしてその先に次の山)」が見えてきます。   もう1点。 論述力というのは、受験時点では、例外なく全員が完全な修行段階です。 それも、ほとんどの場合、初期レベル。   やがて携わることになる仕事の種類によるところはありますが、多くの人が、その後も長く修行を続けます。 僕も、熱心さに欠けるところがあるとはいえ、まだまだ修行中です。   したがって、模範解答例(ここではトンデモ系を除く)との距離感は最後まで埋まらないと思います。 でも、それでいいのです。 マラソンでいえば、本格的に走り始めたところ。 とにかく焦らずに進みましょう。   難関大合格者の大半は、入試までに「次の地平(そしてその先に次の山)」が見えてくる体験をしています。 1回あれば、もう本筋を大きく外すことはなくなります。 2回あれば、同世代のなかではトップクラスになるはず。   「私の場合はどうなんだろうか?」ということを判断・推測するリトマス試験紙が必要ですね。   次の3点を満たしていれば、ほぼ大丈夫です。   ➊ しっかりした文章力(全てを支える前提)が身についている。   ➋ 正しいトレーニングを重ねている(か、重ねる準備ができている)。   ➌ アタマの働かせ方を常に意識しながら物事に取り組んでいる。   難関大受験生の場合、➊は大体クリアできています。 日常的な訓練の場も実に多様です。 たとえば、ツイッターに軽い文章を掲載する際にも最低3回は推敲しましょう。   ➋の方法については、テーマ「大学別入試対策」などに記したことを参考にしてください。   ➌は、論述対策でも扱います。 ただすでに皆さんは、現代文の読解などを通じて基本的なことは学んできたはずです。   醸造・熟成の時期というのは、変化が明白ではないので、不安が心のなかから消えることはありません。 これからの時期、大切なのは、「不安」という“火”に「根拠なきマイナス思考」という“油”を注がないこと。   「根拠なきマイナス思考」の典型例は、たとえば「私はダメなんじゃないか」といった意気消沈型の気持ちになります。 もしあなたが本当にダメなら、はるか以前に、少なくとも難関大受験戦線から脱落していたはずです。   人生に「不安」はつきもの。 というより、「不安」があるから面白いといったほうが正確です。   醸造・熟成のなかで“もがいている自分”に、考えつくかぎりのエールを送ってあげてください。 くりかえしになりますが、ジャンプの時は必ずやってきます。   ★20170524 この記事は2016年10月に公開したものです。 読者からの相談があったので、【再掲示】論述答案の文末表現同様、内容を吟味し直して再掲示することにしました。

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    • 日本史の基本115(25-5 太閤検地と石高制)

      25-5 太閤検地と石高制   石高制(こくだかせい)とは、太閤検地(たいこうけんち)を通じて確立した、近世社会の体制的な原理をいう。   豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、検地役人の現地入り・統一基準の設定(町段畝歩制(ちょうたんせぶせい)・京枡(きょうます)の採用)などにより、石盛(こくもり)(段(たん)あたり公定収穫量)に面積を乗じた石高で土地の生産力を表示していく徹底的な検地(太閤検地)をおこない、全国の土地の生産力を、米の量に換算して把握するシステム(石高制)をつくりだした。   ➊ 長さ 1間(けん)=6尺(しゃく)3寸(すん)(≒191㎝)。   ➋ 面積 1間四方=1歩。 1町(ちょう)=10段(たん)=100畝(せ)=3000歩(ぶ)。   ➌ 容積 1石(こく)=10斗(と)=100升(しょう)=1000合(ごう)(京枡に統一、1升≒1.8㍑)。   ➍ 石盛の設定 石盛とは、1段あたりの公定収穫量のこと。 たとえば、田地については上田(じょうでん)=1石5斗などと定められた。 そのうえで、村ごとに田畑・屋敷地を調査し、面積・等級(上田・中田(ちゅうでん)・下田(げでん)・下々田(げげでん)など)を確定した。   ➎ 検地帳(けんちちょう) 村ごとに作成。 田畑・屋敷地の面積・等級・石高・耕作者などを記載した。   ➏ 石高 石高=石盛×面積→土地の生産力を米の量で表示。 年貢(ねんぐ)は、石高×年貢率(豊臣政権下の年貢率は石高の3分の2を納入する二公一民(にこういちみん))で表示することができる。

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    • 【東大教室】ブログ上公開演習➊-1(問題)

      皆さん、こんにちは。 いつもありがとう。   読者からの要望に応えて、“【東大教室】ブログ上公開演習”を開始します。 ただし、次々に公開するほどの余裕はなく、残念ながら不定期です。 申し訳ありません。 この点だけあらかじめご了解ください。   なお、これまでにも同様の試みをいくつか記事にしてきました。 こちらも、ぜひ参考にしてください↓。 東大教室(演習2にかかわる解説)  東大教室(対等外交という発想①)  東大教室(対等外交という発想②)  東大教室(対等外交という発想③)  東大教室(対等外交という発想④)  東大教室(対等外交という発想⑤) 東大教室(16東大日本史本試Ⅳ 設問A) 東大教室(16東大日本史本試Ⅳ 設問B)  東大教室(16東大日本史本試Ⅳ Aを考える①)  東大教室(16東大日本史本試Ⅳ Aを考える②)  東大教室(16東大日本史本試Ⅳ Bを考える①)  東大教室(16東大日本史本試Ⅳ Bを考える②)  東大教室(16東大日本史本試Ⅳ Bを考える③) 東大教室(17東大日本史本試Ⅰ 問題)  17東大日本史本試Ⅰを考える①  17東大日本史本試Ⅰを考える②  17東大日本史本試Ⅰを考える③ それではまず、問題から。 テーマは、御成敗式目と建武式目。 解説などは、明日から掲載します。   ☆★☆★☆★☆★   問 題   次の史料(1)・(2)を読んで、下記の設問A~Cに答えなさい。 なお、史料は一部、書き改めたところがあります。   (1) 一 御下文(おんくだしぶみ)(本領安堵・新恩給与の際などに発給された公的文書)を帯すといへども、知行せしめず、年序を経(ふ)る所領の事 右、①当知行の後、二十カ年を過ぐれば、大将家の例に任せて理非を論ぜず改替するあたはず。 (御成敗式目)   (2) 以前十七カ条、大概かくのごとし。 是円(明法(みょうぼう)家の中原章賢(のりかた)のこと)、……忝(かたじけな)くも政道治否の諮詢(しじゅん)(有識者などに意見を求めること)を蒙(こうむ)り、和漢古今の訓謨(くんぼ)(教訓)をひろふ所なり。…… 古人曰く、安きに居てなほ危ふきを思ふと。 今危ふきに居てなんぞ危ふきを思はざるや。…… ②遠くは延喜・天暦両聖の徳化を訪(とぶら)い、近くは義時・泰時父子の行状を以て近代の師となす。 ことに万人帰仰(きぎょう)の政道を施されば、四海安全の基(もとい)たるべきか。 よりて言上件(くだん)のごとし。 (建武式目)   設 問 A 史料(1)は、武士社会のもつ重要な「道理」の一つを法制化した条文である。 下線部①の内容を、わかりやすく2行以内(注:1行30字)で説明しなさい。   B 下線部②について、「政道治否の諮詢」に応えた「是円」が、「義時・泰時父子の行状」と並べて、あえて「延喜・天暦両聖の徳化」を掲げた点については、前時代の善政にならうという意味のほかに、ある政治的意図が存在したという解釈もある。 この意図について、当時の政治情勢を前提に、光明天皇が「三種の神器」を欠いた変則的な儀式を経て即位したことを参考にしながら、2行以内(注:1行30字)で説明しなさい。   C 御成敗式目(貞永式目)と建武式目は、中世後期になると、「貞建之式条(じょうけんのしきじょう)」と表現されて並称されるようになるが、両者の性格を同様のものとみなすことはできない。 室町幕府による法の運用のあり方について、史料(1)・(2)を参考にして御成敗式目と建武式目の性格の相違にもふれながら、2行以内(注:1行30字)で説明しなさい。 なお、御成敗式目をイ、建武式目をロと表記しなさい。   (東大型予想問題)   *解説解答は、ここをご覧ください。 【東大教室】ブログ上公開演習➊-2(解説解答) 【東大教室】ブログ上公開演習➊-3(解説解答) 【東大教室】ブログ上公開演習➊-4(解説解答)

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  • 23 May
    • 論述の基本・解答編6(原始・古代1・2)

      ➎ 冊封体制下において朝貢国(藩属国)が享受することのできる利益を、政治・経済両面から説明せよ。 (100字)   ■関連記事 ➊ 日本史の基本15(2-4 邪馬台国への道)   ➋ 「東大教室(対等外交という発想①・②・③・④・⑤)」  → 冊封体制にふれているのは、東大教室(対等外交という発想①)   ➌ テーマ「日本史コペルニクス」  → 冊封体制にふれているのは、日本史コペルニクス17(3日目の講義⑥)   ★解答例は↓の先にあります。  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓ ■解答例 政治的には自らの正統性を冊封国に権威づけてもらうことで権力の強化・安定を図ることができ、また安全保障上の効果も高かった。経済的には冊封国から膨大な返礼品を期待できるなど朝貢貿易で大きな利潤が得られた。 (100字)

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    • 日本史の基本114(25-4 秀吉の統一事業)

      25-4 秀吉の統一事業   1582年、本能寺の変(ほんのうじのへん)で織田信長(おだのぶなが)が暗殺されると、豊臣(羽柴)秀吉(とよとみ(はしば)ひでよし)は短期間のうちに信長の後継者としての地位を固め、翌1583年には、石山本願寺跡(いしやまほんがんじあと)に壮麗な大坂城(「坂」の字に注意)の築城を開始した。   豊臣秀吉の統一事業は、強大な軍事力を背景に、朝廷の権威を最大限に利用し、惣無事(そうぶじ)を強制する、という特徴をもっていた。 また、豊臣政権は、莫大な蔵入地(くらいりち)(直轄領(ちょっかつりょう)、約200万石)、主要鉱山(天正大判(てんしょうおおばん)鋳造)・重要都市の直轄などを経済基盤とした。   ➊ 朝廷権威の利用 1585年、秀吉は関白(かんぱく)に就任し、翌年には太政大臣(だいじょうだいじん)になって豊臣姓(とよとみせい)を賜った。 さらに1588年、聚楽第(じゅらくてい)に後陽成天皇(ごよいぜいてんのう)を迎え、諸大名に天皇と秀吉への忠誠を誓わせた。   ➋ 惣無事の強制 豊臣秀吉は、惣無事という方針をうちだした。 惣無事の「惣」は「総」と同意の漢字で「すべて」ということであり、「無事」は「和平・和睦(わぼく)」を意味している。   つまり惣無事とは、完全な和睦・あらゆる私戦(私的武力行使)の禁止を提唱するもので、この方針にもとづいて秀吉は、紛争の解決をすべて公権力に委(ゆだ)ねることを強制していった。   秀吉はまず、朝廷の権威(1585年の関白就任など)と巨大な軍事力を背景に、戦国諸大名に対して惣無事を強要し(惣無事令(そうぶじれい))、この命令に従わなかった大名を征討して全国統一を完成させた。   これによって領土紛争を武力によって解決する戦国時代が終結し、以後、近世の成立とともに、紛争の解決を公権力の裁定(さいてい)に委ねる原則が確立していった。   【信長の統一過程】   【秀吉の統一過程】

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  • 22 May
    • 日本史の基本113(25-3 信長の統一事業)

      25-3 信長の統一事業   16世紀後半、国内では天下統一に向けた動きが本格化していった。   ほぼ1世紀にわたる戦国の争乱を終わらせ、全国を統一したのは、京都に近い肥沃(ひよく)な濃尾平野(のうびへいや)を基盤に、いちはやく畿内(きない)に進出した織田信長(おだのぶなが)と、その後継者となった豊臣秀吉(とよとみひでよし)だった。 この新しい武家政権のことを、二人の名前をとって「織豊政権」(しょくほうせいけん)と呼んでいる。   ➊ 支配の拡大 天下統一への道を歩みはじめた織田信長は、1568年、足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛(じょうらく)し(義昭はここで15代将軍に就任)、まもなく畿内を制圧した。 1573年には、15代将軍の義昭を京都から追放して室町幕府(むろまちばくふ)を滅ぼし、武田氏との長篠合戦(ながしのかっせん)(1575)に勝利した翌年には、天下統一事業をみすえて、近江(おうみ)に安土城(あづちじょう)築城を開始。 城下には、自由な商業活動を保障する楽市令(らくいちれい)が発令された。   1582年、東の武田氏を滅ぼし(天目山の戦い(てんもんざんのたたかい))、西の毛利氏(もうりし)への攻勢を強めたが、同年6月、家臣の明智光秀(あけちみつひで)に攻められて敗死した(本能寺の変(ほんのうじのへん))。   ➋ 宗教勢力との対決 信長にとって統一事業の最大の障害となったのは、延暦寺焼打ち(えんりゃくじやきうち)(1571)、伊勢長島の一向一揆(いせながしまのいっこういっき)平定(1574)、前後11年におよぶ石山本願寺(いしやまほんがんじ)との戦い(石山戦争(いしやませんそう)、1570~1580)といった例からもわかるように、中世的な宗教勢力だった。   信長がキリスト教に寛容だったのは、鉄砲などの外来の技術を手にいれると同時に、こうした旧来の宗教勢力との対決を迫られたという事情もあったと考えられている。   【信長の「天下布武」(てんかふぶ)印】 1567年から使用開始。 縦約5.5cm

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    • 論述の基本・解答編5(原始・古代1・2)

      ➍ 弥生時代における鉄器の普及過程を簡潔に説明せよ。 (40字)   ■関連記事 日本史の基本12(2-1 弥生文化の成立) 日本史の基本13(2-2 水稲耕作の展開)   ■関連遺跡 【五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)】 兵庫県淡路島にある弥生後期の鉄器工房跡(国内最大規模)。 → http://gossa-awaji.jp/remains/   ★解答例は↓の先にあります。  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓ ■解答例 鉄器はまず工具として、さらに鉄製鍬先をもつ農具が登場するなど利器として普及した。 (40字)

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    • 【深い言葉】“野島先生へ御礼m(_ _)m❤️”

      皆さん、こんにちは。 いつもありがとう。   ririonririonさんが、ブログの記事をリブログしてくれました。 ありがとうございます。   赤面しそうなほど褒めていただきました。 著書まで紹介してくれています。   とてもうれしいことだったのですが、リブログした主な理由は別にあります。 文中後半に、次のような記述が登場します↓。 自分で努力し、頑張れる力を有し、目標を持って闘える力を生まれながらに与えられた人は、それだけで幸せである   受験生の皆さん。 ririonririonさんのブログ記事をいくつか眺めてから、もう一度、この言葉を味わってみてください。   きっと、身体のどこか奥深いところから別のエネルギーが湧いてきます。

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  • 21 May
    • 【再掲示】論述答案の文末表現

      皆さん、こんにちは。 いつもありがとう。   受験生から、「なぜかと問われたら『~だから』と答案に書くべきか、いつも迷います」という質問が届きました。   かつて彼は、「『~だから』はなければならないのだ」という、やや頑迷な指導を受けたことがあるようです。 ただ現代文を含めて、そういう形式にこだわる必要はないでしょう。 したがって、質問に対する回答は、「どちらでもよい、問題に応じて臨機応変に判断を」ということになります。   僕が論述問題の解答例を作成する際には、原則として「~から。」などの文末表現は用いていません。 理由は、以下のとおりです。   ➊ 現 実 文末表現「~から。」などの形式は、開示得点および再現答案の分析から判断するかぎり、入試本番の採点(現代文を含む)で答案の評価を左右する要素になっていない。   ➋ 効 果 文末表現「~から。」などを用いない原則にしておけば、字数に若干の余裕が生じる。   ➌ 障 害 文末表現「~から。」などの形式は、もっとも単純な論理(一対一対応型か理由並列型)にしか使えない。 理由のなかに因果が含まれたり、2~3文構成で答案をまとめたりする必要がある場合(論理展開型)、文末に「~から。」を付すと、日本語として文章を成立させる作業がきわめて困難(正確にいうと事実上不可能)になる。   ➍ 限 界 文末表現「~から。」などの形式には、理由(背景・要因)を問う問題にしか対応しないという限界がある。 特徴(内容)、結果(影響・効果・役割)や比較(共通点・相違点)などを求める問題の場合、これに相当する表現方法がなく、形式としての汎用性に欠ける。   ★20170521 この記事は2016年10月に公開したものです。 読者からの質問があったので、内容を吟味し直して再掲示することにしました。

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    • 論述の基本・解答編4(原始・古代1・2)

      ➌ 弥生文化が成立した事情を、国内・国際両面から説明せよ。 (130字)   ■関連記事 日本史の基本12(2-1 弥生文化の成立)   ■重要な付加説明 【弥生時代の開始年代】 九州北部の弥生時代早期から弥生時代前期にかけての土器に付着していた炭化物などの年代は、紀元前約900~800年ごろに集中するという調査結果が2003年に公表された。 これは、国立歴史民俗博物館がAMS法(加速器質量分析法)と呼ばれる炭素14年代法を用いて計測したもので、考古学的に同時期と考えられている遺跡の水田跡に打ちこまれていた木杭2点の年代も、ほぼ同じ年代を示した。   こうしたことから、調査した土器を使用していた時代は紀元前9~8世紀ごろ、すなわち日本列島の住人が本格的に水田稲作を始めた年代は、紀元前10世紀までさかのぼる可能性も含めて検討するべきだという見解が唱えられている。   ★解答例は↓の先にあります。  ↓  ↓  ​​​​​​​↓  ​​​​​​​↓  ​​​​​​​↓ ■解答例 国内では、菜畑・板付遺跡における縄文晩期の水田跡発見に示されるように、西日本で食料獲得経済の限界などから食料生産経済をめざす動きが進んでいた。国際面では、中国大陸の戦乱に影響されて朝鮮半島などから水稲耕作や金属器に関する高度な技術を携えた人々が集団で渡来した。 (130字)

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