以前ある大学の入試問題で、邪馬台国の女王である卑弥呼の特徴と、社会・国家の制度について論述させる出題がありました。
今回は卑弥呼の時代についての歴史を深めてみたいと思います😊
私は邪馬台国・卑弥呼を授業で扱う際に、必ず生徒に質問することがあります。
「みなさんは、邪馬台国・卑弥呼という名称を見て、何か気づくことはありませんか❓」
生徒たちは特に違和感なくこれらの用語を覚えてきているので、私からの質問に答えが返ってくることはほぼありません😅
気づいて欲しいのは、邪馬台国の「邪」の字、卑弥呼の「卑」の字は、それぞれ蔑称であるということです。
西晋の陳寿(ちんじゅ)という人物が、3世紀後半に記した【『三国志』のなかの『魏書』の「烏丸鮮卑(うがんせんぴ)東夷伝」のなかの倭人の条】が正式名称ですが、通称『魏志』倭人伝のなかに、3世紀前半から中頃までの倭国の情勢が詳細に記されています。
以前の「日本史の考え方」でも紹介しましたが、中国は「中華思想」という意識を持っている国家でした。
異民族を野蛮とみなし、北は「北狄(ほくてき)」・東は「東夷(とうい)」・南は「南蛮(なんばん)」・西は「西戎(せいじゅう)」にそれぞれ分けられ、この4つの方角にいる野蛮な異民族を中国皇帝の徳によって包んでいこうとする考え方を持っていました。
ですから中国は異民族が朝貢してくると、喜んで中国の支配下に入れ、称号や返礼品を与えたのでした。
つまり中国によって書かれた史書の中では、邪馬台国・卑弥呼は野蛮さを表現する文字で記されているのです。
倭国は中国にとって、東にいる異民族(東夷)であったためです。
倭国は2世紀の終わりころ国が大いに乱れ、男王を擁する各国は互いに攻撃しあう状況が続きました。
そこで各国が共同で邪馬台国の女王卑弥呼を立てて王にしたところ、ようやく乱は収まり、邪馬台国を中心とする29ばかりの小国の連合が誕生したのです。
ここで注意することがあります❢
それは、邪馬台国の女王卑弥呼は男王らの話し合いの末、連合政権の長に任命されたということです。
決して卑弥呼による立候補などではなく、「共立」されたのです。
女性の王である卑弥呼が治める邪馬台国を中核とすることで、男性が治める国同士のバランスを保っていたということです。
その証拠に、卑弥呼の死後、後継者として男の王を立てましたが、国中が服従せずにお互い殺し合う事態が発生しています😨
そこで再び卑弥呼の一族の女性である壱与(いよ)という13歳の女性を立てて王としたところ、国中はようやく収まったと記されています。
さて、卑弥呼はすでに年長であったようですが夫はなく、政務は弟が執ったとされています。
そして卑弥呼は、鬼道(きどう)を使いこなし、人々を惑わせる力があったといいます😲
鬼道とは、辞書的には「妖術」・「魔術」などと訳されますが、卑弥呼はシャーマン、つまり霊魂との交霊、予言などを行う巫女(みこ)として神の意志をきくことに優れていたというわけです。
巫女である卑弥呼が神を祀り政治を行う。
祭政一致(=祭祀と政治が一致すること)の段階が、この時代の特徴と言えるのです。
卑弥呼は王になってからほとんど姿を現していません。
千人といわれる侍女をはべらせていたと言われ、ただ1人の男性が卑弥呼の言葉を伝え、居所を出入りしているのみです。
めったに人前に出ないという行為が、卑弥呼の神秘性を高めていきます。
卑弥呼が治めた社会には、大人(たいじん)と下戸(げこ)といった明確な身分差があり、下戸が大人と道で会った時には、あとずさりして道端の草むらに入り、話をする場合には、うずくまったり、あるいはひざまずいて、両手を地面について、相手を敬う姿勢をとったとされています。
何だか面白くなってきました😊
この続きは、次回にしたいと思います。
卑弥呼が治めた社会をもう少し掘り下げてみます。