前回の続きになります。
江戸時代における貨幣💸制度についてでした😊
みなさんは、「金遣い・銀遣い」という用語を知っていますか❓
これは近世(江戸時代)において取引の基準を金貨・銀貨のいずれにするのか、ということを意味した用語です。
江戸時代では、江戸を中心とする東日本では主に金で取引され、これを「金遣い」といい、そして大坂などの西日本では銀が中心であったため、これを「銀遣い」といいました。
伊勢(いせ:三重県)・美濃(みの:岐阜県)・加賀(かが:石川県)辺りより東が「金遣い」圏に属しているとされています。
ではなぜ西日本は「銀遣い」なのでしょうか❓
西日本では、石見(いわみ)銀山(島根県)・生野(いくの)銀山(兵庫県)などの銀山開発が進み、関西諸都市で品位の定まった上質の銀が流通していたためです。
17世紀初期における世界全体の銀生産の3分の1から4分の1が日本で生産されていたのですが、2007(平成19)年に世界遺産に登録された石見銀山は、日本の銀生産の中心銀山として有名でした。
戦国大名であった大内氏・尼子(あまご)氏・毛利氏の間で石見銀山争奪戦が繰り広げられたのち、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い以後は江戸幕府の直轄地となりました。
銀より価値の高い金は、戦国時代より諸大名がその獲得に奔走(ほんそう)し、徳川家康もまず武家経済を「金遣い」とし、ついで金貨によって近世貨幣制度を統一しようとしていたのですが、関西の根強い「銀遣い」慣行に阻まれ、「金遣い」が関東中心となりました。
こうして日本は、金経済圏と銀経済圏の2つに分かれてしまったのです。
この2つに分かれた経済圏を、金経済に一本化しようとする動きが出てきます。
この金を中心とする貨幣経済への一本化を試みた人物が、田沼意次です。
銀貨の計数貨幣化を目指して、1765(明和2)年に発行された銀貨が「明和五匁銀(めいわごもんめぎん)」でした。
しかしこの銀貨は秤量貨幣として扱われていたため、市場ではほとんど流通することなく消えていってしまいました😓
「明和五匁銀」の失敗ののち、江戸幕府が本気で「金貨本位」制度を意図して発行した計数銀貨こそが、「南鐐二朱銀」です。
南鐐とは、上質の銀を意味しています。
「南鐐二朱銀」を大量に発行すべく、田沼政権は長崎貿易の振興にも積極的に乗り出しています。
なぜ「南鐐二朱銀」の発行が、長崎貿易の振興につながるのでしょうか❓
当然ですが、当時の貨幣は金・銀といった鉱山🏔からの鉱物を使用していました。
しかし江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の時代になると、佐渡金山などの鉱山の産出量が減少していきます。
日本から海外への輸出品の代表は銀だったのですが、鉱山からの産出量が減少の一途を辿っていたため、江戸幕府は俵物(たわらもの:いりこ・ほしあわび・ふかひれ)と呼ばれた海産物の生産に力を入れます。
そして江戸幕府はこの俵物を輸出することで、貨幣鋳造の材料である金銀の輸入を図ったのです。
こうして江戸幕府は秤量する必要がなく、使用するのに便利な計数銀貨を鋳造することで、貨幣の計数化を実現しました。
江戸を中心とした東日本と、大坂を中心とした西日本の違いは、江戸時代の貨幣制度に限らず様々な分野で見ることができます。
西は大王(おおきみ)、のちの天皇が居住した畿内(現在の京都府・大阪府・奈良県)を中心に発展し、経済・流通・文化などのあらゆる面で東を圧倒してきました。
しかし、徳川家康が豊臣秀吉の命令によって江戸を拠点に関東を統治することになり、江戸を大都市化していきました。
江戸時代、天皇は京都に居住しておりましたので、経済の中心地としての大坂と合わせて西は独自の文化を持っていましたが、100万もの人口を誇った江戸は日本の政治都市として発展し、南鐐二朱銀などの計数貨幣を鋳造することを通して、西の経済をも東に組み込む政策を展開したのでした。
現在、東日本に住む人々は東京が日本の中心地であるとの認識を強く持っているのではないかと思われますが、西日本に住む人々は大阪・京都の重要性を強く認識しているのだろうと考えられます。
日本の東西の違いについての歴史を深めることも、とても意味のあることだと思います😊