今回は10世紀における貴族政治のあり方について考えてみたいと思います。
天皇を中心とした貴族による政治は、10世紀を境に大きく変化していくのです❢❢
10世紀前半までは、日本国の歴史書である国史の編纂(へんさん)などが国家事業として推進されていたのですが、10世紀後半になると貴族の日記や儀式に関する書物の編纂が盛んに行われるようになっていきます。
この事実は当時の貴族社会のどのような変化を反映したものなのでしょうか❓
古代の歴史についての考え方を深めていきましょう😊
古代の日本において、国家形成におけるモデルはお隣の中国でした。
東アジアにおける中国の影響力は絶大で、周辺国は中国をモデルにしながら国家形成を行っていたのです。
国家を形成する際のモデルは、大国である中国しかなかったと言っても過言ではありませんでした。
この中国に日本から派遣された使節団が、遣隋使・遣唐使です。
そして日本からの使節団が、日本に中国の政治システムである「律令」を伝え、日本は中国の政治システムを模倣(もほう)することで国家形成を推進していくのです。
中国では律(りつ。刑罰法のこと。現在の刑法にあたる)が先に編纂されたのに対し、日本では令(りょう。国家の統治組織・役人の服務規程・人民の租税などを定めたもの)が重視されました。
古代における最大の皇位継承戦争と呼ばれた壬申の乱で勝利した天武天皇によって律令の制定が進められ、天武天皇の跡を継いだ皇后の持統天皇によって「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」が制定・施行されることになります。
この法令は、「令」のみで「律」は編纂されていませんでした。
天武天皇の孫にあたる文武(もんむ)天皇の時代に、「律」と「令」が初めてそろった大宝律令が編纂・施行されるのですが、「令」が701(大宝元)年に施行されたにも関わらず、律の施行は1年遅れるのです。
中国から輸入した律令というシステムは、律に関して言えば、中国の律をほぼそのままひき写したものであるのに対し、令は中国の令を参照しながらも、日本の国情に合うように修正された箇所もあるとされています。
例えば、母方の祖父母を外祖父母といいますが、外祖父母の地位が日本の場合、中国に比べて高く設定されています。
古代の日本では、結婚した男女の間に誕生した子の養育については、女性が大きな発言力を持っており、母方の手で養育されることが主であったため、母方の縁が重視されていました。
日本の社会構造に対応したものと考えられています。
しかし❢❢
ここでよく考えておかなければならないことがあります。
それは、中国と日本の「国家としての歴史の差」についてです。
日本が律令を導入しようと決意するはるか前に、中国は律令を完成させ、律令による国家統治を行ってきました。
巨大な中国という国家を支配する律令というシステムを、日本にそのまま当てはめることには最初から無理があったはずなのですが、日本は巨大なシステムをほぼそのまま導入したわけです。
私はこうした状況を、授業で次のように生徒に説明しています。
「成熟した大人が着ていた服を、まだ心身ともに未熟な子供がサイズも合わせずそのまま着るのに似ています。奈良時代の日本はこのシステムを何とか維持・機能させようと努力するのですが、のちには、やはり巨大すぎて徐々に日本の国情に合わせてシステム変化させていくことになります。」
大宝律令が制定・施行された奈良時代には、律令国家が形成される過程で朝廷のなかで高まっていった国家意識を反映して、朝廷による統治の正当性や国家の形成・発展の歴史を明示することを目的として、国史の編纂が行われるようになります。
律令国家の形成に大きな役割を果たした天武天皇の時代に始められた国史編纂事業は、奈良時代に入って結実することになったのです。
この詳しい内容については、次回にしたいと思います。
今後の展開について、是非みなさんも調べてみて下さい😊