前回の続きになります。
天武天皇の時代に始められた国史編纂事業についてでした。
みなさんは、『古事記』・『日本書紀』を知っていますか❓
特に『日本書紀』は日本古代の正史としてよく知られています。
正史とは、国家として編修した歴史のことです。
古代の律令国家は、『日本書紀』をはじめとして天皇の命令により平安時代の途中まで歴史編纂を継続し、合わせて計6つの漢文で書かれた正史を編纂しています。
この6つの正史は総称して「六国史(りっこくし)」と呼ばれています。
①『日本書紀』→編纂者【舎人親王(とねりしんのう)】
②『続日本紀』→編纂者【菅野真道(すがの まみち)ら】
③『日本後紀』→編纂者【藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)ら】
④『続日本後紀』→編纂者【藤原良房(ふじわらのよしふさ)】
⑤『日本文徳天皇実録』→編纂者【藤原基経(ふじわらのもとつね)】
⑥『日本三代実録』→編纂者【藤原時平(ふじわらのときひら)】
『日本書紀』の編纂者である舎人親王は、天武天皇の第三皇子です。
『日本書紀』が完成した年が、720(養老4)年。
平城京遷都が710(和銅3)年ですから、奈良時代が始まって10年後に完成したことになります。
日本における律令国家の始まりを飾る記念すべき大事業であったと言えます😊
その後国史の編纂事業は、901(延喜元)年に完成した『日本三代実録』まで継続されることになります。
この「六国史」の編纂に関わった編纂者に注目してみたいと思います。
天武天皇が開始した国史編纂事業は、子の舎人親王によって完成されました。
『日本書紀』以外の国史の編纂者は、全員貴族です。
しかも律令制における位階は全部で30階あるのですが、その中の3位以上である公卿(くぎょう)と呼ばれた上級貴族たちでした😲
まさに貴族の中の貴族たちです。
このスーパーエリートである公卿たちが、天皇の指示を受けて、律令国家としての事業を意欲的かつ積極的に推進していったのです。
しかし律令制による支配は、奈良時代が始まったのちすぐに大きな困難に直面します😨
律令制では、口分田(くぶんでん)を支給することで、支給された各人から租税を徴収する制度が採用されていました。
この租税が大変に重かったため、奈良時代が始まった7年後の717(養老元)年5月、全国の人民が税負担を逃れるため各地に流浪(るろう)している状況がある、との文が『続日本紀』に掲載されることになります。
奈良時代最後の天皇である光仁(こうにん)天皇について、高等学校日本史の教科書には次のように記述されています。
「光仁天皇は、行財政の簡素化や公民の負担軽減などの政治再建政策につとめた。」
これはつまり、中国から輸入した律令というシステムは、日本にとって巨大すぎて、そのまま実施していくことはとても難しかった、ということを意味しています。
律令国家として存続していくためにも、無駄を省き、現実に合わせていく必要があったということです。
9世紀になると、租税負担の中心となっていた男子の登録を少なくする偽籍(ぎせき)が増えていきます。
戸籍に基づき口分田を支給することで、租税の徴収をはかってきた律令の制度が実態とかけ離れたものとなっていきます。
このため桓武天皇が中心となり、6年に1回の支給であった口分田を12年に1回の支給に改めるなどして、律令の定める土地制度の維持をはかる政策を展開していきました。
また、桓武天皇の子である嵯峨天皇は、法制の整備を進めています。
律令の制定後に、実際の政治過程で出されたさまざまな法令を、律令を補足・修正した法令である「格(きゃく)」と、法律を施行する際に必要とされる規則である「式(しき)」とに分類・編集した弘仁格式が、嵯峨天皇の命を受けた公卿の藤原冬嗣(ふゆつぐ)によって編纂されています。
さらに833(天長10)年には、それまでさまざまであった令の条文解釈を公的に統一した『令義解(りょうのぎげ)』が公卿で右大臣であった清原夏野(きよはらのなつの)によって編纂されました。
変質しつつある律令国家を維持するためにも、実情に合わせたシステムを構築したり、上級貴族らによって法制が整備されるなど、律令を重視した積極的な国家事業が推進されたのです。
このあと、貴族らによる政治はどのように展開していくのでしょうか❓
続きは次回にしたいと思います😊