前回の続きになります。
日本政府の対中国政策のあり方についてでした。
みなさんは、「近衛声明(このえせいめい)」と呼ばれる対中国政策に関する声明を知っていますか❓
この声明は日中戦争勃発当時の内閣であった、第1次近衛文麿(このえ ふみまろ)内閣によって発せられた声明です。
日本軍首脳部は日中戦争勃発当初、ごく短期間で中国を制圧できると考えていましたが、中国軍の根強い抵抗のために日本軍は苦戦し、大部隊を増援することで、国民政府が首都としていた南京を占領します。
1937(昭和12)年12月13日のことです。
南京占領に際して、日本軍は多数の中国人非戦闘員や捕虜を殺害した(=南京事件)とされ、このことが国際的に激しい非難をあび、かえって中国人の抗日意識を奮いおこすことにつながったといわれています。
このころ近衛文麿内閣は、1936(昭和11)年に結ばれた「日独防共協定」をたよりにしてドイツを仲介として中国との和平交渉を進めていました。
駐華ドイツ大使トラウトマンを仲介役としたことから、この和平交渉を「トラウトマン和平工作」と呼んでいます。
しかし!!
予想外に早い南京陥落に自信をつけた日本政府は、本来の「華北分離」の目的を中国全土の制圧へと膨張させた過酷な講和条件を中国側に突きつけることで交渉を打ち切り、1938(昭和13)年1月、次の声明を発するのです。
「爾後(じご)国民政府ヲ対手(あいて)トセズ」
日本は国民政府と戦争を行っているにもかかわらず、今後日本は国民政府を相手にせず、日本と真に提携する新政府の成立を期待し、その政府と両国の国交を調整して、新中国の建設に協力しようと思う!
と宣言したのです😲
その後、日本軍は徐州(じょしゅう)作戦を発動し、中国の主要都市・鉄道を占領しましたが、首都を中国国内の奥地である重慶に移して抗戦を続ける中国を、軍事力で屈服させることはできませんでした。
徐州作戦とは、日中戦争における大作戦の1つです。
1938(昭和13)年5月、日本軍は徐州を占領しましたが、中国軍の主力部隊を捉えることはできず、戦争終結の糸口にはなりませんでした。
1938(昭和13)年11月3日、第2次声明が近衛文麿首相から出されることになります。
第2次声明は「東亜新秩序声明」と呼ばれています。
近衛文麿首相は、日中戦争の目的が日本・満州国・国民政府3国連帯による東亜新秩序(=東アジアに新しい体制を構築する)建設にあると声明し、この目的達成のためならば、国民政府の参加を拒否しない、として戦争の収拾を目指したのです。
「国民政府と対手としない」とした第1次声明を、事実上修正・撤回したのです。
そして日本側はひそかに国民政府副総裁であった汪兆銘(おうちょうめい)を寝返らせた上で重慶から脱出させ、1940(昭和15)年に各地に存在した日本の傀儡(かいらい)政権を統合して、汪兆銘を首班とする新国民政府を南京に樹立するのです。
そして近衛文麿内閣は、汪兆銘による新国民政府との間での和平条件として「善隣友好・共同防共・経済提携」をうたった、近衛三原則を示します。
これが、第3次近衛声明です。
しかしこの三原則を示した汪兆銘政権は極めて弱体で、蔣介石率いる重慶の国民政府は、援蔣ルートを通じてアメリカ・イギリスなどからの援助を受け、その後も徹底抗戦を続けるのです。
いわゆる近衛声明と呼ばれた日本の対中国政策は、戦争目的を不明確なものにしたばかりか、戦争の収拾の契機を失わせるものでした。
こうして日中戦争は、この戦争に関わった様々な国々の思惑の中で長期化し、第2次世界大戦が終結するまで継続されることになりました。
現在から過去の歴史を見れば、この日中戦争は実は何度も戦争終結の機会があったことがわかります。
あの時にこうしていれば…。
これは個人単位でも言えます。
あの時にこうしていれば…。
こうならないためにも、今をどうすればいいのかをしっかり考えられるように、歴史を学ぶ必要があるのだと私は思います😊
みなさんはどう思いますか❓