以前、ある大学の入試問題で次のような出題がありました

 

 

 

 

一橋家(ひとつばしけ)を相続した一橋慶喜は、1862(文久2)年薩摩藩の推挙によって、将軍後見職に任命されて政治の中心に登場した。しかし薩摩藩は、1866(慶応2)年に徳川家を相続して将軍となった徳川慶喜とは敵対関係となった。この間の薩摩藩における政治方針の変化について述べなさい。」

 

 

 

 

薩摩藩の政治方針の変化を問う出題ですが、幕末の複雑な政治情勢を考えさせるとても良い問題であると思います😊

 

 

 

 

 

 

本題に入る前に、みなさんにはいくつかの歴史用語を説明したいと思います。

 

 

 

 

まず、「一橋家」についてです。

 

 

 

 

一橋家とは、「御三卿(ごさんきょう)」の1つです。

 

 

 

 

御三卿とは、徳川将軍家一門(いちもん:親族関係にある人々の総称)である田安家(たやすけ)・一橋家(ひとつばしけ)・清水家3家のことです。

 

 

 

 

江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の代に、田安一橋両家が創設され「御両卿」といい、第9代将軍徳川家重(いえしげ)の代に清水家が創設されて、合わせて「御三卿」と称されました。

 

 

 

 

御三卿はそれぞれ10万石の領地を、関東畿内(きない:現在の京都府大阪府奈良県)とその周辺の数か国に分散して所有し、居城はなく江戸城中の邸宅に居住していました。

 

 

 

 

御三家と同じく将軍を助け、将軍に子がない時には後継ぎを出すのですが、これは同時に御三家を抑える意図があったといいます。

 

 

 

 

これはどういうことでしょうか❓

 

 

 

 

 

 

御三卿の創設に大きな影響力を持った徳川吉宗は、徳川御三家1つであった紀伊藩(きいはん:現在の和歌山県)出身で、江戸幕府始まって以来の初めての御三家からの将軍でした。

 

 

 

 

御三家」とは徳川将軍家の親族で、尾張(おわり:現在の愛知県)・紀伊(きい:現在の和歌山県)・水戸(みと:現在の茨城県)に配された徳川家の総称です。

 

 

 

 

尾張家は、徳川家康9男である義直(よしなお)を始祖とし、尾張藩61万9500石を領有していました。

 

 

 

 

紀伊家は、徳川家康10男である頼宣(よりのぶ)を始祖とし、紀伊藩55万5000石を領有し、水戸家は、徳川家康11男である頼房(よりふさ)を始祖とし、水戸藩35万石を領有していました。

 

 

 

 

この御三家の中で将軍を出したのは「紀伊家」のみでしたが、初めて御三家からの将軍となった徳川吉宗は、「御三卿」を創設して自らの子孫から将軍を出そうと画策したのだといわれています。

 

 

 

 

事実、のちに「御三卿」から将軍を2人も輩出(はいしゅつ)するなど、重要な役割を担っていたことがわかります。

 

 

 

 

 

徳川吉宗が創設した「御三卿」の1つである「一橋家」を相続した人物こそ、水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の7男、幼名を七郎麿(しちろうまろ)と名乗っていた一橋慶喜でした。

 

 

 

 

一橋慶喜が政治の表舞台に出たのが、子のいない第13代将軍徳川家定の後継者を誰にするのかという問題が大きな争点となった時です。

 

 

 

 

越前藩主松平慶永(まつだいら よしなが)・薩摩藩主島津斉彬(しまづ なりあきら)・土佐藩主山内豊信(やまうち とよしげ)ら雄藩【ゆうはん:幕末、政局に大きな発言権を持った藩。薩摩藩(現:鹿児島県)・長州藩(現:山口県)・土佐藩(現:高知県)・肥前藩(現:佐賀県)・水戸藩(現:茨城県)・越前藩(現:福井県)など】の藩主は、「年長英明」な将軍をかかげて徳川斉昭の子一橋慶喜を推薦します。

 

 

 

 

これに対して、彦根藩主井伊直弼に代表される大名らは、幼年ではあるが血統の近い紀伊藩主徳川慶福(とくがわ よしとみ)を推薦しています。

 

 

 

 

井伊直弼大老に就任すると、アメリカとの貿易を開始することを約束する「日米修好通商条約」に天皇の許しを得ることなく調印【これを違勅(いちょく)調印という】し、川慶福を将軍徳川家定の後継者に決定してしまいます😲

 

 

 

 

この強引とも思える井伊直弼の行動は、今後にどのような影響を与えることになるのでしょうか

 

 

 

 

この続きは、次回にしたいと思います。

 

 

 

 

是非、みなさんも調べてみて下さい😊