前回の続きになります。
井伊直弼の動きが、その後にどのような影響を与えたのか、ということでした。
第13代将軍徳川家定の跡継ぎ問題で敗れた一橋慶喜の父である徳川斉昭らは、違勅調印を名目に井伊直弼を激しく非難します。
徳川斉昭らの動きに、尊王攘夷(そんのうじょうい:天皇を敬い、外国を排除する)派の武士や公家(くげ)が同調します。
この反対勢力に対して井伊直弼が加えた弾圧が、安政の大獄です。
安政の大獄によって、徳川斉昭・一橋慶喜・松平慶永らは隠居・謹慎を命じられてしまいます😲
藩主父子が処罰された水戸藩では反幕感情が激化し、水戸藩の武士17名に薩摩藩の武士1名を加えた計18名は、雪❅の中を登城する井伊直弼の駕籠(かご)を襲撃し、薩摩藩の武士である有村次左衛門が井伊直弼の首を討ったのです。
1860(万延元)年3月3日に起きた、桜田門外の変です。
井伊直弼が殺害された後、幕府政治を推進したのが、老中であった安藤信正(あんどう のぶまさ)でした。
安藤信正は大老井伊直弼の下で老中を務めていました。
そして老中安藤信正は、井伊直弼が推進していた「ある計画」を実現させるのです。
その計画が、孝明(こうめい)天皇の妹和宮(かずのみや)を、第14代将軍徳川家茂(いえもち)の妻に迎える、という政略結婚でした😲
この政略結婚は、朝廷(公)と幕府(武)の融和をはかる「公武合体」政策の一環として企図されたものでした。
「公武合体」とは、朝廷と幕府を結び付けることで、政局の安定をはかろうとした政策のことです。
しかし、幕府の手による将軍権力補強策は、尊王攘夷派から激しく非難され、安藤信正は1862(文久2)年、江戸城坂下(さかした)門外で水戸藩を脱藩した武士らの襲撃を受けます。
この事件を、坂下門外の変といいます。
大老井伊直弼が殺害され、老中安藤信正が襲撃されたという事実は、幕府の権威を大きく傷つけてしまいました😓
こうした中で、重要な動きをみせた藩がありました。
それが薩摩藩です。
江戸幕府第11代将軍徳川家斉(いえなり)の妻は、薩摩藩第8代藩主であった島津重豪(しげひで)の子で、摂関家の近衛(このえ)家の養女となった人物です。
また、薩摩藩第11代藩主であった島津斉彬(なりあきら)の養女で、のち摂関家の近衛家の養女となって江戸幕府第13代将軍徳川家定の妻となった篤姫(あつひめ)などが知られているように、薩摩藩は朝廷・幕府の双方に深いつながりを持っていました。
その薩摩藩は「公武合体」の立場をとっていました。
外様大名である薩摩藩が独自の公武合体政策の実現に動きます。
外様大名とは、関ヶ原の戦い以後に徳川氏に臣従した大名であり、前田・島津・伊達・毛利などは大藩ではあっても江戸から遠く離れた場所に領地を持ち、幕府の要職からはずされ、冷遇・警戒された存在でした。
しかしこの外様大名が、幕末に大きな発言権を持つのです。
薩摩藩第12代藩主であった島津忠義(ただよし)の父である島津久光は、1862(文久2)年、勅使である大原重徳(しげとみ)とともに江戸に下り、幕政改革を要求しています。
幕府は薩摩藩の意向を受け入れて、松平慶永を政事総裁職(従来の大老に相当する)に、そして一橋慶喜を将軍後見職に任命します。
また、京都の治安維持にあたる京都守護職を新設して、会津藩主(現:福島県)松平容保(かたもり)をこれに任命するなどの改革を実施します。
この京都守護職の支配下にあったのが、新選組(しんせんぐみ)です。
これらの改革は「文久の改革」と呼ばれています。
こうして、一橋慶喜は公武合体を推進する薩摩藩の支援を受ける形で、政治の中心に登場することになるのです😊
公武合体派と称された人々に対して、欧米列強の圧力に屈服して開国した幕府の姿勢を激しく非難して、反幕府の姿勢を強めていった人々がいます。
彼らが尊王攘夷派です。
この尊王攘夷派の中心となったのが、長州藩(現:山口県)でした。
長州藩は尊王攘夷派の公家と結び、「とんでもない行動」に出ることになります😲
この「とんでもない行動」とは一体何か❢❢❓
この続きは、次回にしたいと思います😊