前回の続きになります。
嵯峨天皇の時代に起こった、平安京が帝都ではなくなる可能性があった「ある重大な事件」とは一体何であったか…
ということでした。
結論から言えば、この「ある重大な事件」とは、「薬子(くすこ)の変」あるいは「平城太上天皇の変」と呼ばれる事件のことです。
この事件は、桓武天皇の子である、兄の平城(へいぜい)上皇と弟の嵯峨(さが)天皇の間で起こった争いでした。
810(弘仁元)年、病気で退位していた平城太上天皇(上皇)は、嵯峨天皇からの政権奪取を目指し挙兵します。
平城上皇、および上皇の寵愛(ちょうあい)する藤原薬子とその兄の藤原仲成によるクーデターが発生したのです😲❢❢
藤原薬子・藤原仲成は、藤原四家の一つである「式家」の出身です。
藤原四家とは、中臣(藤原)鎌足の子である藤原不比等の四人の男子がそれぞれ創設した、「四つの家」のことになります。
中臣(藤原)鎌足
|子
藤原不比等
|子
武智麻呂(むちまろ:長男)
房前(ふささき:次男)
宇合(うまかい:三男)
麻呂(まろ:四男)
武智麻呂が「南家」、房前が「北家」、宇合が「式家」、麻呂が「京家」をそれぞれ創設します。
藤原薬子・藤原仲成は、藤原氏の中でも宇合が創設した「式家」の流れを汲んでいます。
平城上皇が、藤原薬子・藤原仲成らとともに平城京に再遷都しようとする動きは、「二所朝廷」(政府が同時に二つある状況)という状況を生み出し、政治的混乱が生じることになりました。
中央政界における緊急事態に対して嵯峨天皇側は、三関(さんげん:律令国家が最も重視した関所のこと)を固めると同時に、藤原仲成を逮捕し射殺します。
平城上皇は平城京から東国(古代国家の軍事的基盤の地)への脱出を図りますが失敗し、上皇は出家し、薬子は服毒自殺を遂げました。
このクーデターの鎮圧にあたったのが、嵯峨天皇の命をうけた坂上田村麻呂です。
坂上田村麻呂といえば、征夷大将軍として蝦夷討伐を行った武将として有名です。
こうして兄弟間の権力争いは、弟の嵯峨天皇に軍配があがり、このクーデターの際に嵯峨天皇に重用された藤原冬嗣(ふゆつぐ)の出身である「北家」が、勢力を伸ばすことになります。
歴史上有名な藤原道長も、この「北家」出身者です。
「摂関家」と呼ばれる一族がいますが、「摂関家」は藤原氏の北家です。
平安時代中期以降は、北家の中で藤原道長の子孫によって、摂政・関白が世襲(せしゅう:子孫が代々受け継ぐこと)されるようになります。
鎌倉時代に、摂関家は「近衛(このえ)・九条・二条・一条・鷹司(たかつかさ)」の五摂家に分かれます。
五摂家筆頭は「近衛家」ですが、この「近衛家」の末裔が、第79代内閣総理大臣 細川護熙(もりひろ)氏になります。
つまり❢
鴨長明は、このように考えたのです。
「平安京に遷都したのは桓武天皇であったが、嵯峨天皇の時代に平城京への再遷都を企てるクーデター(薬子の変)が起こった。このクーデターの結末次第では、平安京から平城京に再び都が移される可能性があった。平安京以外の地に遷都する可能性が完全になくなった嵯峨天皇の時代こそ、平安京が帝都として定まった時期としてふさわしい。」と。
歴史を学ぼうとする人たちは、歴史を確定(固定)事項として認識しがちです。
ですが、当時を生きた人々にとっては、全てが流動的です。
このことは今を生きる私たちにも同じことが言えます。
歴史から今を学び、未来を志向する。
歴史を学ぶ意味は、まさにここにある、と私は信じています。