今回は、2018年11月に実施された「歴史能力検定 日本史1級」の問題から、歴史を深めてみたいと思います。
以下に紹介する問題の掲載に関しては、歴史能力検定協会の承諾を得ております。
「歴史能力検定 第37回 日本史1級」の問題に、次の問題がありました。
『次の史料は平清盛が行った遷都に関するものである。史料中の「この京」と「嵯峨の天皇」の関係は史実として誤りであるが、嵯峨天皇の時代に起こった事件の性格から、史料の作者である鴨長明が「嵯峨の天皇の御時、都と定まりにける」と認識していた可能性があるとされている。この鴨長明の認識について、「この京」の名称、事件の名称、事件に関わった式家の兄妹の名前をあげながら説明しなさい。』
<史料>
『また、治承四年水無月の比、にはかに都遷り侍りき。いと思ひの外なりし事なり。おほかた、この京のはじめを聞ける事は、嵯峨の天皇の御時、都と定まりにけるより後、すでに四百余歳を経たり。ことなくゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人安からず憂へあへる、実にことわりにも過ぎたり。されど、とかくいふかひなくて、帝より始め奉りて、大臣・公卿みな悉く移ろひ給ひぬ。(方丈記)』
面白い問題だと思いませんか😊❓
皆さんは、「治承・寿永(じしょう・じゅえい)の内乱」を知っていますか❓
治承・寿永の内乱とは、
1180(治承4)年の以仁王(もちひとおう:後白河天皇の第三皇子)・源頼政の挙兵から1185(文治元)年の平氏滅亡に至るまでの全国にわたって展開した内乱のことです。
学説によっては、1189(文治5)年の奥州藤原氏滅亡までの争乱を含める場合があります。
平清盛は娘である平徳子を高倉天皇の中宮(ちゅうぐう:皇后の別称)に入れ、その子の安徳天皇を即位させ外戚(がいせき)として威勢をふるいます。
そして平氏一門が官職を独占するのですが、排除された勢力から強い反発を受けることになりました。
特に後白河法皇(法皇とは、出家した上皇のこと。太上法皇の略)の近臣との対立が深まり、1177(治承元)年には藤原成親(なりちか)や僧の俊寛・西光らが京都郊外の鹿ヶ谷(ししがだに)で平氏打倒をはかる、という事件が発生します。
この事件は、鹿ヶ谷の陰謀と呼ばれています。
この事件を契機に、1179(治承3)年、平清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、平氏政権を樹立することになります。
この平氏の動きに強く反発した、貴族・寺社・源氏などの勢力が結集し、平氏打倒の兵が各地であがることになりました。
そのような中で行われたのが、平安京から福原京への遷都でした。
福原(現在の兵庫県神戸市)は、近くに大輪田泊(おおわだのとまり)という良港があり、瀬戸内海支配のための平氏の拠点であった地です。
この突然の遷都が、『方丈記』には「治承四年水無月の比、にはかに都遷り侍りき。」と記述されています。
しかし遷都に対する反発は大きく、半年後再び京都に還都(都を戻すこと)せざるを得ず、平氏政権の威信を著しく下げてしまう結果となってしまいました😞
この福原京へ都を遷したほんのわずかな期間を除いては、平安京が帝都(天皇の住む都)でした。
鴨長明は、自著『方丈記』の中で、平安京が帝都として定まったのは嵯峨天皇の時代からだ、と書いています。
しかし、この認識は誤っています。
平安京を帝都としたのは、桓武天皇です。
794(延暦13)年、桓武天皇は、山背国を山城国に改め、新京を平安京と名付けたことで、平安京が帝都として定まることになります。
こうした事実を知っていたはずの鴨長明は、なぜ桓武天皇ではなく、桓武天皇の子である嵯峨天皇の時代に平安京が帝都して定まったと考えたのでしょうか❓
鴨長明の考え方の背景には、嵯峨天皇の時代に起こった、平安京が帝都ではなくなる可能性があった「ある重大な事件」が関係しているのですが…☻
この続きは次回にしたいと思います。