乱歩酔歩--Random Walk official blog-- -62ページ目

400m先の未来へ!

どうもこんばんは霧島です。
日々あれこれやっているうちに…気がつけばもう4月も半ば…

そして4月は私がずっと楽しみにしていた映画の公開月でもあります。

 

 


Free!です。
一期の放送が2013年なのでかれこれ9年目になる作品です。

ざっとあらすじを説明すると、かつて競泳で天才的な泳ぎを見せていたが競うことを辞めた七瀬遙が、巻き込まれる形で発足した水泳部の仲間や他校のライバルと共に競泳を通して成長していく青春物語です。

物語のスタートは主人公の七瀬遙が高校2年生のところからなのですが、そこから遡り幼少期から彼の競泳人生は始まってるのでまさに七瀬遙の人生を追ってるような作品なんですよね。

今回公開される映画はサブタイトルにFINALの文字を冠するもので、遙は大学生、戦う舞台は世界です。昨年の9月に前編が公開されて、4月に後編が公開となります。

これまでの大まかな流れとしては、中学時代一度競泳の世界から離れた遙が、高校で仲間とメドレーリレーを泳ぎ、その先にある全国大会や世界大会へと進んでいくというところです。

物語が進むにつれどんどん環境が変わっていくわけですが、環境が変わるなかで変わっていく自身に思わず怯んでしまうような繊細さも描かれています。そんな10代の彼らの一瞬を片時も見逃すまいと思えるような作品です。

感情の機微の描き方もグッときますが、水泳の描写もとても素晴らしく、特に水の表現にはとても拘りを感じます。
仲間との絆を描いた作品なので、これまでは競泳といえど勝った負けたは二の次…という感があったのですが、ステージが進むにつれそうも言ってられなくなり競泳の…というか、人と競う世界の厳しさも感じます。

それまでは仲間と泳ぐことを何よりも大切にしてきた遙が、より強い選手たちと戦うために1人で泳ぐことを選ぶ……といったところで映画の前編が終わっているのですが、個人的にめちゃくちゃしんどい終わり方だったのでこの半年ほど気が気じゃありませんでした

純粋な一鑑賞者としての自分を、創作者としての自分が励ます形でなんとか持ち堪えています。物語の構成上仕方ない!あとはもう上がるだけだよ!みたいな感じでずっと励ましてます。(急に感情曲線の話をする)

ですからこの後編の公開を心底楽しみにしてきたわけですが、公開されるとおわっ…終わってしまう…!という複雑な心境です。
後編は観たいけど終わってほしくはない…!!

まぁそうは言っても無情にも時は流れるので、公開されたら即映画館に行こうと思います。一切のネタバレを食いたくないので…

では過去作を観て精神統一しつつ公開を待ちたいと思います。


したらば!


rin

春爛漫

須々木です。

 

新年度初投稿です。

 

 

春だなあと思っていると、あっという間に夏になってしまいそうです。

晴れている日は日差しも強くなってきました。

 

横浜では春から初夏にかけて「ガーデンネックレス横浜」なるイベントが開催されています。

 

⇒ 公式サイト 公式ツイッター 公式インスタ

 

 

 

今年で6回目ですが、毎年あちこち花が咲き乱れまくって、かなり華やかです。

立派なカメラを持ったガチ勢、犬の散歩民、カップル、子供連れ、老夫婦、ただの通りすがりのビジネスマン、ただの暇人・・・

「ただ花が咲いているだけ」なのに、どこからともなく人が集まってくるのが凄いですね。

スペースはかなりゆったりですし、屋外で風通しも良いので、このご時世でも比較的うまく回るイベントです。

 

横浜では「試しにやってみた」から始めて、良い感じだと恒例イベント扱いになるというパターンが多々ありますが、「ガーデンネックレス」は結構定着してきた感があります。

 

メインの花はシーズン順に、サクラ、チューリップ、バラ。

特にバラは横浜の「市の花」でもあり、5月初旬からの「横浜ローズウィーク」は毎年なかなか見ものです。

 

 

 

日本ではそれほど多くないかもしれませんが、海外の都市再開発戦略で、

 

ブランド力ない地区(産業衰退、治安悪化etc)にとりあえずアーティストを投入

パブリックアートやイベントを通じて来訪者を増やし地区のブランド力を上げていく

ブランド力が上がったら(地価が上昇したら)アーティスト以外を相手に本格的なマーケティング

 

・・・みたいなやつがありますが、「とりあえず花を植えまくる」も結構似たところがある気がします。

これで短期的に直接の経済効果はあまり大きくないかもしれませんが、波及効果はかなりあるのかもしれません。

 

都市開発(再開発)とアートやデザインを戦略的に組み合わせる方法は、横浜ではすでにかなりの期間やってきていてノウハウも蓄積していると思われますが、その発想の延長でやっているような気がしますね。

そして、このやり方は必然的に「映え」に繋がるので、来訪者が勝手に宣伝してくれるという現代ならではの利点も。

 

というわけで、僕も適当に散歩して、適当に写真撮って、適当にアップしちゃったりします。

以下、それらを適当に貼っておきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他にもインスタにたくさんアップしているので、興味がある人はどうぞ!

 

 

あと、桜の季節には、外でわいわい花見ができない分、ツイッターでハッシュタグ#RW_桜2022を使ってメンバーで桜の写真をあげまくったりもしていました。

 

 

sho

 

 

アニメ「モブサイコ100」1期・2期を見ました。

 今年の寒暖差が激しすぎる気がするのだが気の所為?いつにも増して季節の変わり目の洗礼を受けて体調がガタついている米原ですこんにちは。新年度始まったわ、と思っていたらもう4月も後半で恐ろしい。

 

 今回は、ほぼ3年ぶりに3期制作放送決定ということで、ようやくアニメ「モブサイコ100」1期・2期を見て来ました。

 

 作画や演出も大変ハイレベルで高クオリティー。大変良かったぁ~。眼福でした。ワンパンマン同様、ONE先生の少し毒がありつつも、人の善性を描くのが好きなんだなと感じられる作風はとても好きだなと改めて思いました。

 

 利己的な人間、ダメ人間、クズキャラを描くのも上手いなぁといつも思うけれど、それと同じくらい良い人を描くのも上手いのがすごいバランスが良いというか、見ていて小気味いいというか、気持ちがいいなと感じます。

 

 ワンパンマンではキングが好きなのでモブサイコで霊幻が好きなのはまぁでしょうね!という感じなのですが、何気に超能力を持つ兄と出来過ぎる弟がいるのに滅茶苦茶普通で善良なモブたちの両親や、中学生とは思えない見た目と綺麗な心と精神を持つ肉体改造部の面々も好きです。幸せであれ。

 

 超能力や心霊現象やバトル要素はあれど、重点を置いてるのはあまりにも学生らしく人間らしい悩みや苦悩だったり、努力だったり人と関わって成長したり、日々の問題を乗り越えて行く様子は親しみやすく分かりやすい。王道の面白さだなぁとしみじみ思いました。

 

 派手な異能バトルとしての面白さもあるけど、登場人物たちの悩みや問題はすごく日常に根差したモノなのが入り込みやすい作品だなと思いました。あからさまに登場人物が死なないのも精神衛生上大変助かった。楽しく見れました。

 

 3期では原作完結分まで行きそうな雰囲気で楽しみです。原作漫画の方もちゃんと読まなきゃなぁ~と思いさっき検索したら、公式HPで全話読めるっぽいですね…。驚いた…。これから読んで来ます…。

 

 それにしても、原作の最終話が「101話」でタイトルが「これから」で終わっているのすごいですね。パッと見で〇〇話①②③とか分かれているので、101回ピッタリの更新ではなかったっぽいですが、「絶対にこの作品は101話で終わらせる」「101話内でなにを描くかはほぼ固まっていたっぽい」というのが察せられるというか。そういう企画&計画だったんだなと。

 

 近々ワクチン3回目打ってくるので、ダウン中の時間を過ごす良い漫画が見つかって嬉しい。

 

久しぶりにカラーイラスト描きたいと思ってちまちま描き始めたけど、今月中に間に合うかは微妙な気がしてきて焦る。頑張ろう。それではまた。

 

noz

漫画とデザイン展行ってきた!

どうもこんばんは霧島です。
もう3月終わるって嘘だろ…?

やっと桜咲いたぞ〜!と思ったら連日雨やら曇りやらでパッとしませんね。
最近は雨の日も外を歩いてるので雨に打たれる桜を見るんですが、やっと開いた花が大粒の雨に打たれているのを見るとなんだかかわいそうだな…!といたたまれなくなります。
植物は大変だよね…雨が降っても傘させないものね…


さて、散歩はしているものの精神的にずっと引きこもってたんですが(?)先日アシスタントでお世話になっている先生と「漫画とデザイン展」に行ってきました。


「漫画とデザイン展」は、漫画作品のストーリーやキャラクターではなく、装丁やタイトルロゴなど の「漫画デザイン」に着目した企画展です。

会場はGOOD DESIGN MARUNOUCHIでした。

めちゃくちゃ久しぶりの東京…だった気がする。


会場に着いてまずパンフレットを受け取ったんですが、裏が「王様ランキング」の1巻の表紙デザインの印刷を体験できるスタンプラリーの台紙になっていました。
イエロー、マゼンタ、シアンの順にスタンプを押していくんですけど、まぁものの見事にズレましたね。

ごめんねボッジ…
ちなみにこちらはボラーレの関さんという方のデザインだそうです

恥ずかしながら私は今まで装丁について誰のデザインかなどをあまり気にしたことがありませんでした。

しかし実際デザインされたものとデザイナーさんの名前が並んでいるのを見ると、本屋さんで見て印象に残ったものが同じデザイナーさんだったりして、知らないうちに私にも好みの装丁があったんだなと気付かされました。

よく考えたら雑誌やWebで読んでいた漫画がいざコミックスとして売り出される時、それをひとつの商品としてパッケージにするというめちゃくちゃ重要な工程ですよね。

私はコミックス化の経験がないのでご一緒した先生に伺ったのですが、ここで作家が用意するのは表紙で使われるイラストの部分のみだそうです。それをどう配置するかとか、タイトルロゴのデザインだとかがデザイナーさんのお仕事です。

もう置いておくだけでお洒落なコミックスや、特色が使われたビビッドなものや箔押しされた豪華なもの、型抜きされたもの…などなど普段自分ではあまり買わないようなもの(装丁が凝ってるものはもちろん値段も比例する)がたくさん見られて面白かったです。

因みに会場での私のお気に入りは名和田耕平デザイン事務所の装丁でした。でも家に帰って自分の本棚を眺めてみると、結構いろんなデザイン事務所やクリエイターチームの名前が載っていたので、今度からはどこがデザインしたものなのかという視点も持って紙の本を購入したいと思います。

大体本にはビニールのカバーをつけちゃうんですが、ツルツルしてたりザラザラしてたりという紙質の違いにもきっとそれぞれこだわりとかあるんだろうな。

少女漫画は結構「背表紙が同じデザイン期」が長かったように思います。

本屋さんで見ると一目でどの出版社の棚かわかるのでそれはそれでいいのかなと思うのですが、最近はその縛りも随分緩くなったのか、かわいい背表紙も増えてきましたね。

一冊の本の隅々まで作品の世界観を伝えるためにデザインされているのかと思うとアツいです。


さて、3月最終日、引き続き忙しくて買ってきた漫画がまだ読めてません。悲しい…

したらば!

rin

800年の時を超える祈りの物語 ~ アニメ「平家物語」見ました。

須々木です。


2022年1~3月に放送されたテレビアニメ「平家物語」を見ました。
(2021年9月よりFODで先行配信)





制作はサイエンスSARU。

テレビアニメの制作は「映像研には手を出すな!」に続き2作目です。


※過去ブログ ⇒ アニメ「映像研には手を出すな!」、良いな。 (2021-09-30 by sho)








※※ 以下、核心的ネタバレあり ※※








全11話。

短い尺でありながら、圧巻の完成度で駆け抜けました。

そんな本作について、あれこれ感じたことを書き残していこうと思います。

調べが足りないところや独自解釈などあるので、その点はご了承を。

 

 

 

平家物語。

しっかり読んだことはありませんが、それでもあの序文はあまりに有名です。

数百年を経てもまったく色褪せない圧倒的存在感。

数百年経ても劣化しないというのは、まさに普遍性の証明という気がします。

なお、同じく無常観を伝える「方丈記」の序文もとても有名でカッコ良いです。

アニメ第1話、冒頭。
平清盛が家紋として使用していた「揚羽蝶」のゆったりとした羽ばたき。

沙羅双樹とも言われるナツツバキの白い花。
非常に暗示的な導入部から、本来の「平家物語」にはないパートが描かれ、本来の「平家物語」のはじまりである「祇園精舎の鐘の声」の語りへ。

テレビアニメ「平家物語」は、日本人であれば誰でもその結末を知っている「平家物語」を題材としつつ、人間ドラマに重きを置いた構成になっているところが特徴です。

結末が分かっているからこそ、そこに至る過程を丁寧に描くことが重要とも言えそうです。

 

登場人物の人間性を丁寧に描くことで、叙事から抒情になり、作品はより主観的なものになる気がします。

しかし、むしろそれが現代に通ずる新たな普遍性を生んでいるように感じます。

普遍性を見出そうとする過程では、客観的な情報に還元することが普通だと思いますが、本作は逆のアプローチでそれを成し遂げている点が興味深いです。

すなわち、「平家にあらずんば人にあらず」ではなく「平家も“ただの人”だった」という反転こそが本作の軸なのではないかと感じました。

結局、“ただの人”だったからこそ、驕った末に滅び、その過程で人間らしく嘆き儚んだと。

 

この点は、オープニングアニメーションにも反映されています。

そこで描かれる様子は「軍記物」というより「日常系」。

高慢な者たちの栄枯盛衰ではなく、ごく普通の人たちが平和な日々を楽しんでいます。

 

日本人の精神性に深く根差す「無常観」。

どこか超然とした印象を与えるこの価値観に、「祈り」という非常にパーソナルなキーワードを添えて、より身近に感じられる群像劇にまとめあげた本作は、最初から最後まで非常に上質なものでした。




どのキャラクターも憎むことができないというのは本作の大きな特徴でしょう。

諸悪の根源と言えそうな平清盛ですら、どこか憎めない魅力的なキャラクターとして描かれています。

 

また、どのキャラクターもヒーローにならないというのも特徴です。

現代人が「源平」という安易な二項対立でとらえる平安末期を、実際はそんな単純なものなどではないというふうに描いています。
これは、あらゆる場面で二極化が深刻なレベルに至っている現代にこそ示すべき価値観。

はびこるレッテル貼りによる単純化への警鐘(または祈り)と感じます。

「平家物語」における複雑な人間関係を丁寧に読み解き、一人一人を「人間」にしていった手間の末にこの強いメッセージ性が立ち現れているのだと思います。

これは言うほど簡単な作業ではないはずです。

なぜなら、作品においてキャラクターはどうしても記号的にならざるを得ないからです。

これは、まさに「レッテルによる単純化」です。

記号的というのは、「レッテルを貼る」というのとそう遠い概念ではありません。

だから、現実におけるレッテル貼り(度を超えれば「差別」)の文脈が、ポリコレとしてフィクションへ影響したりするのでしょう。

実際、現実のレッテル貼りに敏感な人は、フィクションに対してもポリコレを求める傾向が強いように感じます。

本作でも記号的なキャラ表現というのはいくらでもありますが、深みのある心情描写を重ねていくことで、アニメ表現との間の難しい両立を見事に成し遂げており、この点が本作の素晴らしさに繋がっていると思います。

この意味においてテレビアニメ「平家物語」は、成立した鎌倉時代における「平家物語」の単純なアニメ化ではなく、令和時代にふさわしい補正を加えた「平家物語」と言えるでしょう。

本作は改めて言うまでもなく、現代の価値観、現代の視聴者を前提として構築されています。

「なぜ今更、平家物語?」という問いに真摯に向き合い、いま新たに語るべき「平家物語」となったわけです。

(多少の補正を加えただけで800年のギャップを超えられる「平家物語」自体の力も凄いが)



主人公「びわ」について。

本作の大きな特徴は、原作にいない「びわ」というキャラクターを主人公に据えている点です。

アニメ性を担保し、現代を生きる視聴者の視点に寄り添う役割を担っています。

一方で、冷静にとらえ直すとかなりミステリアスで、はっきり言えば「超越者」のようにも感じられます。

超常の目を持つことはさることながら、他の登場人物たちと違い外見上の成長がほぼ見られない点も異様です。

11話のなかで10年以上経過する作品であり、実際、他の若いキャラクターたちはその後の登場時に外見的に成長しています。
第5話冒頭で、重盛の目を受け継いだかのように目の色が変わったびわに対し、資盛が「お前もしかして、物の怪じゃ。体だって大きくなんないし」と言っているので、作画の都合ではないようです。

時々挿入される、琵琶を弾く白髪姿は明らかに「びわ」ですが、ストーリー上は一切登場せず、背景情報も与えられません。

あくまで勝手な推測ではありますが、「びわ」は「八百比丘尼」なのかなと思います。

八百比丘尼は「白比丘尼」とも言われますし、白のイメージとは繋がります。

また、びわの母と関連のある越後や丹後にも八百比丘尼の伝説が残ります。

その名の通り800歳まで生きたという伝説も残ります。

そして、そもそも「平家物語」で語られる内容は今から800年余り昔の話です。

びわが八百比丘尼として悠久の時を生き「平家物語」を語り継いだと考えても筋が通ります。

 

一方で、時間の流れにとらわれず我々に語り掛けているということを考えれば、時を超えて伝わる「平家物語」という物語そのものの擬人化と捉えることもできる気がします。

我々は「平家物語」が現代に伝わったからこそ、知ることができます。

その伝える役割を担っているのが「びわ」(琵琶法師=語り継ぐもの)です。


 

「びわ」とともに、作中において異様さを感じたのが第6話より登場の「白猫」です。

最終話まで見ても、少なくともストーリー上の意味を持っていないように思うこの白猫ですが、単なるマスコットとは思えない描かれ方をしています。

純白の動物ということで、やはり「神」に近しい存在なのでしょうか。

そして、その両目は、びわの右目(未来を見る)と同じ「浅葱色」をしています。

ということは、「未来を見る猫」なのでしょうか。

顔つきもどこか白髪姿のびわに似た印象を受けます(特に「眉」は本編のびわより白猫に近い)。

本作で目の色は重要な意味を持つので、浅葱色の目を持った猫を何の考えもなしに登場させるとは到底思えません。

というか、そもそも「びわ」の本名が「あさぎ」ですし。

さらに突っ込んで言えば、「びわ」+「白猫」=「白いびわ」という気もします。

この構図は、すでに「初期びわ」+「重盛」=「びわ」という形で描かれているので、突拍子もないものではありません。

びわは重盛を取り込むことで平氏と無関係ではいられなくなったのと同様、白猫(神の使い?)を取り込むことで、平家物語を後世に伝える「白いびわ」(八百比丘尼?)となったのではないでしょうか。

(つまり、歳をとって白髪になったわけではないのかもしれない)

目に関する描写でもう一つ印象的だったのが、最終話、壇ノ浦の戦いの決着の場面です。

徳子を海から引きあげてのち、入水していく平氏たちを眺める「びわ」の両目はすでに色を変えています。

おそらく見るべきものを見届けて盲目(琵琶法師=あとは語り継ぐのみ)になっているのでしょう。

(このタイミングは、平家断絶で終わる「十二巻本」に対応していると思われる)

 

 

 

主人公びわと白猫以外、基本的に本家の平家物語を踏襲しているアニメ「平家物語」ですが、実はもう一つ(たぶん)オリジナル部分があります。
それは、本来の平家物語では死ぬはずの資盛が生き延びているというものです。

実際、奄美群島に逃げ延びたという伝説があるそうですが、件のシーンでハイビスカス(ブッソウゲ)と思われる花が描かれているので、この伝説をモデルにしているのでしょう。

 

この短い「原作改変」シーンは、実は結構深い意図が込められているように感じます。

それは、作中で何度も強調された「未来は見えても決して変えることはできない」という大原則に反するものだからです。

「未来」は「本来の平家物語」のはずです。

しかし、そこに介入したびわの行動の末に、滅びゆく定めを負う平氏の一人資盛が命を繋ぐことになったわけです。

「未来は変えがたいかもしれないが、変える余地はある」という希望のメッセージのように感じます。

「800年の時を超える祈りの物語」。

盛者必衰の理、無常観を乗り越えていくための「祈り」というメッセージ。

800年の重みを繊細に読み解き生まれた、素晴らしい作品でした。




余談ですが、テレビアニメ「平家物語」の制作と同じサイエンスSARUによる長編アニメーション作品「犬王」(湯浅政明監督)が2022年公開予定です。

原作はこれまたテレビアニメ「平家物語」の原作と同じ古川日出男「平家物語 犬王の巻」です。

直接的に続くことはないと思いますが、何か仕掛けくらいはあるのでしょうか。

興味を惹かれるところです。




sho