乱歩酔歩--Random Walk official blog-- -243ページ目

進撃アニメ22話についてアレコレ

遊木です。
眠いですが夢の世界に旅立つ前に少々。


毎週楽しく進撃アニメ見させて貰ってますが、22話に関してちょっと思うところがあったので、たまにはこういうのも書いてみようかなと。あと諫山先生もブログでちょっと書き込みしていましたし。



話の流れ的にも結構デリケートな部分だったので、あの22話の演出は賛否両論分かれるんだろうなぁと思って見ていましたが、ネットを見回すとやっぱりそのようですね。

私はどの作品においてもやや原作厨ですが、進撃は他のアニメ化された作品などと比べて、比較的原作が大事にされている方だと思っています。けれどまぁメディアの違いというものがあるので、100%原作通りにはいかないことは理解できますし、むしろ作品によってはするべきでないとも思っています。


で、進撃の22話ですが。
まぁ論点はもちろんアニメオリジナルのシナリオ部分ですよね。言わずもがな遺体回収云々の描写です。ネットを見回すと、「すごく良かった」という人と「あれはない」という人とガッツリ二極化しているようですが、私個人の意見としては「悪くはないんだがやり過ぎ」という感じです。

そもそも私は以前より、進撃アニメは兵長の演出がちょっと好きじゃありませんでした。っていうかツイッターでも散々「神谷さんはちょっと違ぇだろぉ!」と呟いてましたが、(いや、神谷さんは好きなんですけど)声もさることながら、微妙にアニメで追加されているシーン、はしょられているシーン、それらが、原作で持っていた兵長のイメージとあまりにも違って…。っていうと、そもそもエレンも印象が違うのですが、なんていうかエレンは「少年漫画をアニメ化した」上ではまぁ許容範囲だった感じです。

個人的に原作で持っていた兵長のイメージは、出番が決して多いわけでもなく、セリフが多いわけでもなく、モノローグもほぼ皆無、おまけに表情も豊かじゃない…けれど、そのカリスマ性が納得できる雰囲気や人間らしい情が何故か伝わってくる、そんな人物でした。

正直、こういった難しいさじ加減の演出がすごく好きだったので、アニメの22話は兵長に視点を当てすぎて、なんでしょう…ちょっと胸焼けといいますか。
作者がブログでも触れていたように、そもそもちょっと世界観というか進撃の設定的に違和感を覚える演出があったり(壁外なのにアルミンやジャンが遺体回収してたあたりなど)、兵長が部下のエンブレムを切り取って持ち帰るのとかも違和感がありました。兵長はそういうことすらしない人だと勝手に思っています。
っていうか個人的には、この死体、エンブレムを持ち帰る~の描写を入れてしまったが故に、その前の回で、全滅したリヴァイ班の死体を兵長が無言で見つめていたシーンのインパクトが薄れてしまったなと感じました。わざわざ兵長に「(自分の部下の)死体を捨てろ」なんて言わせる演出にしなくても、このシーンだけで彼の心中は表現できていたと思います。

より悲惨な現実を表現したかったのかなぁというのと、公式サイトを見るとアニメスタッフさんに「一コマで食われるキャラも一人の人間として表現したい」という意図があり、その上でアニメオリジナルのシナリオが組まれているということは察しがつきます。その辺は、トロスト区奪還のときのリコの台詞とかからも思っていました。

でも、どこかのサイトでも書き込みしてあったのですが、進撃は世界は残酷だという表現があっても、世界の悲惨さを表現している作品ではないと思いますし、そもそも世界の悲惨さを訴える作品でもないと思っています。

だからこそ22話の遺体を捨てるシーンは、進撃の世界においては蛇足な気がしてしまいました。
確かに胸にくるシーンではありましたが、でもそのシーンを追加したが故に、最後のぺトラ父と兵長のシーンのインパクトが薄れた気がします。原作でもあそこは胸にぐっとくる場面で、7巻は独特の読後感がありました。アニメは、オリジナルシーンを増やしたが故にこの「独特の読後感」を弱めてしまったなぁと感じています。



アニメ進撃は、オリジナルでもちょっとしたシーンの追加演出や構成とかはすごくいいと思います。イアンの死に際とか、女型を足止めしようとするジャンたちの演出とか、訓練兵のときの時間軸の構成とか。
何よりBGMがダントツで好きです。BGMが入るだけで「このシーンこんなカッコ良かったのかよ!」とか思ったりします。

でもだからこそ、これは他の作品に対してもですが、オリジナルシナリオの部分はすごく気を使って表現して欲しいなぁと思います。



と、なんかずらずら語りましたが、ようするに22話は原作厨からすると、ちょっともやもやが残る回だったなぁという話です。

っていうか!
個人的な欲望を言うならミカサ&リヴァイでエレンを救出するシーンを、もう少し丁寧にやって欲しかったっていうか堪能したかった!!この3人好きなんだよ!!(本音)



aki

二次創作の繁栄

どうも遊木です。
最近あんまりお天気がよろしくなくて、大きい洗濯物をいつ洗うか迷っています。


最近、ふとPixivを巡っているときに「何故こんなにも二次創作は繁栄しているのか」ということを考えておりました。

根本的な理由はぱっと思いつきませんでしたが、繁栄させている一要因としてあげられるのが多分、作品掲載の「スピード」なんだと思います。例えば、漫画ならどんなに早くても週刊連載、普通は月間、隔月、それ以上のもあります。そしてアニメは基本週一、刀語とかは月一でしたね。
普通に考えれば、好きな作品は早く続きを見たいと思うわけですから、ファンからすれば毎日のように内容が更新されるのが一番ありがたいわけですよ。でも、私の考えでは、毎日のように作品の続きが見られるようになったら、ここまで二次創作は繁栄しなかったと思います。
次回まで待たされる期間、所謂「お預けタイム」が、二次創作繁栄のポイントになっているのではないかと。

例えば、ギアスR2の「TURN 21」放送後から「TURN 22」が放送されるまでの1週間、二次創作界隈はものすごい勢いで燃え上がって(萌え上がって)おりました。「次が放送されるまでが勝負!」みたいな感じで、みんな、ルル、スザク、C.Cの空白の逃亡期間を妄想していたわけですね。
これは、何を妄想しても公式がネタを明かすまではみな平等である、という説が爆発したわけです。まぁ結局、公式でこの空白の期間を描かれることはなかったわけですが。(小説は未読です)

この「公式がネタを明かすまでは自由」っていうのが、結構二次創作の上では重要なポイントなんだと思います。公式がネタを明かしてしまえば誰が何と言おうと、それが頂点なわけです。予想も妄想も二次創作も公式の前には、みな膝を折るしかない。でも、だからこそ妄想が自由であり、頂点が存在しない僅かな期間に、みんな力の限り妄想を膨らませるのではないでしょうか。そしてそれが、二次創作において重要な原動力となっている。

だからもし、毎日のように作品の続きが読めるような制作スピードになってしまったら、二次創作が廃れるとまではいかなくても、勢いは弱まるのではないかと思います。これは体験談ですが、私自身、撮り溜めして一気に見たアニメは、「楽しい」とは思えても「妄想して楽しい」という感覚を覚えるものはありませんでした。だって、妄想する前にすぐ続きを見れてしまうから。すぐ本家が見られるのに、妄想する必要なんかないと、脳が勝手に思ってしまうんですね。

正直な話、二次創作やそのファンが、本家を支えている大切な一部というのは否定できないでしょう。
例えば、ドラえもん最終回都市伝説に含まれて語られる、「ドラえもんの開発者はのび太説」というのは、本家のファンがファンであるが故に制作した二次創作物です。いろいろ重なってニュースにもなってしまいましたが、これも愛ある故の作品だと思いますし、人々が「ドラえもんの最終回」について注目するきっかけにもなったでしょう。(もともとドラえもんは有名ですけどね)

最近だとグッズとかも、明らかにその層を狙っていると思えるものも増えています。二次創作否定派からしたら許せないと思うほど、言い方は悪いですが明らかに媚びている思わせる商品もあります。(まぁ、売れるなら仕方ないだろうとか思っちゃいますけどね)でも、そういった層の人たちが本家を支えている一部であることも覆せない事実。だから二次創作好きも否定派も、うまく自分たちの活動領域を住み分けて、「この作品のファンである」という事実のもとでは仲良くやっていければなと思います。



だから著作権法が云々とか言う人は、コミケが日本の経済に与えている影響とか、その辺の事情をもっと勉強して、この界隈の現実を知ってからいろいろ考えて欲しいんだよ、っていう話です。


aki

宮崎駿に敬意を込めて

須々木です。
宮崎駿監督作品「風立ちぬ」を見てきました。

印象が新鮮なうちに、書きなぐっておきます。
たぶん時間経過と共に違って見えてくる作品だと思うから。


以下、僕の感想を書いていきますが、もちろんネタばれ要素を含むのでご注意ください。
あと、勢いに任せて書きなぐっていること、一回見ただけなので部分的に記憶が曖昧であること、すべてが個人的見解であることもご了承ください。













とりあえず、見終わって最初に思ったこと。

確かにこれは最後だな。
長編アニメとかではなく、作品として本当に最後のつもりなんだろう、ということ。

他の人が「風立ちぬ」をつくってもあんまり意味がなかったのかもしれない。
“僕たちの知っている”宮崎駿のつくった「風立ちぬ」として生まれる意味。

僕たちは宮崎駿を知っていて、彼の今までの作品、仕事を知っている。
そして、その前提があってはじめて「風立ちぬ」は作品として存在することができる。
こういう状況は、クリエーターとして贅沢なのかもしれないけれど、宮崎駿はそれだけのものを世に刻んだし、こういう作り方が許される人なのだと思う。





主人公の声が庵野秀明であったことについて。

もちろん、事前情報として、主人公役が庵野秀明だということは知っていました。
もちろんネットを始め賛否両論あったことも知っています。

そして、映画が始まると、とりあえず違和感。
堀越二郎ではなく、そこにいるのは庵野秀明だったためです。
ただ、物語が進行するにつれ、違和感はいつの間にかなくなり、作品を見終えると必然だとさえ思える。

宮崎駿と庵野秀明。
二人は、劇場版アニメ「風の谷のナウシカ」の作画スタッフ募集告知を見た庵野秀明が大阪より上京して以来のつきあいであり、庵野もその後アニメーターとして名を馳せ、そして苦悩していく。
その過程を継続的に見てきた宮崎駿。
自身を師と仰ぎ、仲人までつとめた庵野さんに、この作品の主役の声を任せた意味は重い。

「風立ちぬ」において主人公は実在した堀越二郎であり、宮崎駿だ。
だからこそ、自分の作品の声優に、声とは別のベクトルで価値を加えることを要求してきた宮崎駿の作品として、この作品の主人公にアニメーターが吹き込む(声というよりは命を)ことは必然だった。
そして、それが庵野秀明であることも必然だったと思うわけです。




カプローニ伯爵について。

カプローニ伯爵は二郎に“夢”の続きを託す(と同時に、二郎の内面の一端を担う)。
ここで重要なのは、超越的にも思えるカプローニ自身が、誰よりもその“夢”の光と闇を認識していること。
彼は、“夢”に対して善悪の判断をくださない。
その判断も“夢”の重要な要素と言わんばかりに、二郎につなぐ。

託したい。
だから託す。
その評価も含め。

だから、宮崎駿に自身のこれまでの仕事を振り返させるのは見当違いなのだろう(安易にそういう趣旨の質問をする人は多そうな気もするけれど)。
僕たちは、与えられた宿題をそのまま突き返すような馬鹿な真似をしてはいけない。





過去の宮崎駿作品と比べて。

「風立ちぬ」は、根本的に違う。
今までの作品には、どれも作品を届けたい相手がいて、その相手が誰であるかが作品の軸として存在し、明確になっていた。
その相手は、これからの時代をつくっていく小さな子供たちであることが多いけれど、とにかく存在していた。

ただ、本作では、それを感じることはできなかった。
誰かのためではない作品だと思った。

もちろん、相手が「これからの時代を生きる人」だということはわかるが、それでもその人たち向けにつくろうという意思は感じられないし、作品の軸とも思えなかった。
むしろ、「ただ、語りたい」「ただ、残したい」という意思を感じた。

「風立ちぬ」で描かれたのは、自分自身。

堀辰雄は、ポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の一節を「風立ちぬ、いざ生きめやも。」と訳して受け継いだ。
そして、宮崎駿は、自分自身を重ね合わせた堀越二郎という実在の人物をもとに描くストーリーに、堀辰雄の「風立ちぬ」を取り入れた。
過去を生きた様々な人の思いを受け継ぎながら、さらに誰かにつないでいきたい。

そういった意思に、一つの作品としての輪郭を与えてできたのが、宮崎駿の「風立ちぬ」なのだろう。
最後の最後に、自身を描いた。
僕たちが長く見せてもらってきた“宮崎駿という作品”の、エンドロールを見せられてしまったという感覚だった。

その意味で、僕はこの作品を単純に「劇場版アニメーション」と呼ぶことに抵抗を感じたりもする。





Le vent se lève, il faut tenter de vivre
風立ちぬ、いざ生きめやも。

どこからか来て、どこかに去っていく「風」。
いつの間にか生まれ、いつの間にか消えていく「生」。

曖昧でとらえどころのないものに、人は大きな不安を覚える。
そして、その不安の中に希望を探す(希望を見つける、ではない)。

宮崎駿の語る「風立ちぬ」が、「生きねば」と言っているのかというと、僕は少し違うようにも思う。

「風立ちぬ」というとらえどころのない作品に、それを見た僕たちは不安を覚える。
だから、その不安の中に希望を探したくなる。

この作品に無理やりメッセージ性(作品に触れた人に求めるもの)を見出したいのなら、結局そういうことなのではないかと思う。






この作品には、口づけのシーンが多い。

口づけのシーンは、主人公の「愛」を最もシンプルに表すと同時に、宮崎駿の「贖罪」を最も歪めて表しているように感じた。
宮崎駿が試写会で見せたという涙の理由は、ここにあるのではないかと勝手に思っていたりする。

宮崎駿がつくってきたのは、飛行機ではないが、それでも想像を絶する犠牲を強いた上でその道を歩いてきたのだろう。
美しい夢とエゴイズムを表裏に重ね合わせた仕事に取り組みつつ、絶えず生まれていく犠牲を真っ直ぐ捉えながら。

その手に取り戻すことができないと知ったとき、人は「贖罪」を求める。
事実、彼は今後について「これからはボランティア」と語っている。




この作品には、喫煙シーンが多い。
そこに感じたのは、苛立ちと執着。

現代は、捨てることを求める。
そぎ落とし、わかりやすくして、流れやすくすること、効率化することを求める。

アニメーター「宮崎駿」は、もうこれ以上捨てられなかった。
年々、より多くを捨てることを求めるようになる社会に限界を見た。
その限界が、彼の限界なのか、アニメの限界なのか、社会の限界なのかはわからない。
そもそも、まったくの見当違いなのかもしれない。

ただ、宮崎駿の煙草の箱に、もう煙草は残っていなかったのだろう。









sho

アニメの話とか

遊木です。
また滑り込み月末ブログです。つーかあとちょっとで9月…だと?



最近ようやくサイコパスとヨルムンガンド2期を見たので簡単にその感想です。
あとちょっとジャンプの話も。


以下ネタバレ注意。











まずヨルムンガンド。

これは原作が完結してるということで、未来日記と同様割と安心して見てました。
内容的には尺の関係でだいぶ早足だと感じるところもありましたが、個人的に一番見どころである「ココの人間性」についてはわかりやすかったと思います。
何故ヨナに執着してたのかーみたいなところも、あぁ確かになぁと思いました。

誰よりも武器を嫌いながら、自分にとってのそれの重要性を理解してて手放せないヨナ。
多くの武器を売りさばいたその口で、私は世界平和を望むというココ。

どちらも人間らしい濁った矛盾を抱えながら、自分たちは似たもの同士なんだと直感していた二人。
でも、どちらも「世界の平和」を望んでいた筈なのに、見ていた形は全然違ったんだろうなぁと思いました。

個人的におもしろいな、と思ったというか他の作品とちょっと違うなと感じたのが、エンディングです。
決別した二人がそれぞれ違う道を歩いていく、みたいな流れは昨今の作品では結構あると思いますが、ヨルムンは決別したあと、結局ヨナ(子供)がココたち(大人たち)のもとに帰ってくる。
ヨルムンガンド計画に賛成できなかったヨナが、ココと決別したあと、一度キャスパーのもとに行くという流れもそうですが、ヨナが常に大人と共に行動しているというのが、なんだかリアルでした。

個人的な戦闘力の高い少年兵でも、結局は武力とは違う力も持っている大人と共にいることしか、生き残るすべがない。
漫画やアニメは、結構子供が自分の力と意思で道を切り開いていくパターンが多いですが、ヨルムンはそこがシビアに表現されているなぁと。



で、次はサイコパスですが、アニメオリジナルということでヨルムンよりは、物語の進行スピードが全体的にバランスが取れていて見やすかったです。
あとは単純に、多方面でバランスのとれた一定の面白さが保障されている作品だと思いました。

自分は「ブレードランナー」「攻殻機動隊」「マトリックス」「マイノリティリポート」など、割とサイバーパンク系の作品を見てきたタイプなので、何のひっかかりもなく見れましたが、もともとサイバーパンクに免疫がない人もサイコパスなら、結構簡単にこのジャンルに入れるかもしれません。

サイバーパンク独特の哲学や、アンドロイドと人間の違いは云々みたいなところを、上手くはしょりコンパクトにまとめている作品だと思います。
物語はあくまでキャラクターたちの理念を重視して進むので、難しい言い回しや思想はほとんどなく、それらは敵役?である槙島やシビュラシステムに背負わせ、あくまでもエンターテイメントを重視した作品です。

個人的には常守の「システムを憎みながらも、システムの重要性を理解しているためにそれを否定できない」という立ち位置を、システム自身が、今後の市民のお手本になる思想と言っているのが印象的でした。
この辺はちょっとヨルムンと似ている所、っていうより昨今の作品にはそこそこみられる思想だと思いますが、結構この考えはリアルの人間にも必要なところなんじゃないかなぁと思います。

何故か人間社会は、「否定しない」=「受け入れる」みたいに勘違いしてる流れがある気がします。
私的には、社会だろうと感情だろうと、受け入れることは到底できないが、否定するわけにはいかないものって、本当に多いと思っています。その矛盾こそが人間の本質だとも思えるほどです。

ただ「矛盾」は、抱えているのが大変なモノだというのも確かでしょう。
自分自身が矛盾していると自覚したまま、その矛盾ごと飲みこむというのは、容易なことではないし、果たしてそれが正しいことなのかという保証もない。でも、矛盾を抱えている人間を否定することは、私は間違っていると思ってます。




やっぱりアニメも漫画もゲームも、娯楽を孕んだまま、娯楽より一歩進んだ作品になっているものは、とても興味深いです。






さて、話は変わっておジャンプ様の話ですが。

黒バス読んでで思ったんですけど。
いや、すっごくどうでも良いことと言えばそうなんですけど、言わずにはいられなかったというか!

誠凛で黒子の背番号が「11」なのは、やっぱりあの11対111ゾロ目試合と関係あるんですかね…!?そうだったらおれすげぇ萌えるだ…。




aki

砂の芸術in由比ヶ浜2013~あの日の呪いを解くのは今~

おばんです遊木です。
先日は須々木氏、凛ちゃん、夏野ちゃんと由比ヶ浜に海水浴に行って参りました。




さてみなさま、由比ヶ浜といえば我々にとって因縁の場所でもあります。

それはちょうど1年前の今頃、我々は今年と同じように由比ヶ浜に行き「創作集団らしく砂の芸術をつくろうぜ」と息巻いておりました。

…しかし結果は惨敗。
できあがったそれは、度が合わない眼鏡で斜め45°から見ればまぁ前衛的なアートに見えなくもない造形でしたが、普通の人が普通に見れば「大人気ない大人が大人気なく遊んでできた大人気ない砂の城」でした。砂上の楼閣と呼ぶにもあまりに哀れな佇まいに、去年、私は一人この世の無常について考えたことを今でも忘れません。


ちなみにこれが、去年我々が制作した『RWの呪われた城』です。

乱歩酔歩


※より詳しく知りたいという方は是非、1年前のこのブログをお読みください。



しかし、人間は進化する生き物。
諦めたらそこで試合終了。
勝てば生きる、戦わなければ勝てない。
立って歩け、前へ進め、おれたちには立派な足がついてるじゃないか。


そうだ…おれたちはまだ負けてない…!


ということで、以下リベンジ砂の芸術2013in由比ヶ浜の報告です。
去年と違って細かく記録を録っていなかったので、途中段階の写真はないですが。





**************



天気はやや曇り。気温もそこまで高くなく、連日の猛暑に比べたらだいぶ過ごしやすい日和。
海に入るにはやや物足りない気がしないでもないが、まぁそれは置いておこう。
面子も4人と、去年に比べたらかなり少数ではあるが仕方ない。きっとこの人数にも何か意味があるのだと、己に言い聞かせる。

そんな感じでいろいろ去年との相違点はあるが、そんなもの大海原を前にしたら微々たる違いでしかない。

夏野ちゃんがやや遅れてくるということだったがそこは気にせず、我々はさっそく懐かしき海の感触を確かめに行く。少し強めの波に気分を高揚させつつ、いざ海の中へ!

そして、足首まで浸かった瞬間。




何これ冷てぇ。




さすが最高気温29度。普通に過ごすには問題なくても、やっぱり海日和ではなかったようだ。
泳ぎに行ってしまうと夏野ちゃんが場所がわからないだろうということで、砂浜に戻りモソモソ砂をいじりだす。断じて水温に心を挫かれたわけではない。


「ウォール・マリアつくろう」

時代の流行りに乗っかって進撃ネタで攻めようとするが、案外あの壁の中の世界を再現するのが難しいことを知る。
このあたりで夏野ちゃんが到着したので、とりあえず我々は海の中に進撃する方向にシフトチェンジした。水温?そんなもの気にしない。入ってしまえばこっちのものだ。

その考えは正しかったようで、海に入るとものの数分で水温にも慣れた。しかし、今度は陸に上がると風が寒いという逆の状態になる。…仕方ない。プールでもまたしかり、これは水場で遊ぶ人間の宿命だろう。

そこそこ高かった波を満喫した後は砂浜に戻り、先ほどのウォール・マリアの続きを作ろうとするがこれもまたものの数分でシフトチェンジ。調子が悪い時はさっさと行く先を変えるに限る。
そして、誰かが言った。




「城、つくるか!」






…ここから我々のリベンジは始まった。

思い起こされるのは去年の呪われた城…この場であれに関わった人間は私と須々木氏だけだが、城作りにシフトチェンジしたとき、口に出さずとも2人とも同時に思ったはずだ。去年と同じ轍は踏まんと。
何より今年の我々には、去年とは違い強力な味方がいた…そう、それはスコップ(金属製)である。そもそも端から砂の芸術をやる気だった去年、スコップを持っていなかったことの方が甚だ疑問ではあるが、それはさておき。このスコップが、この後果てしない威力を発揮することになる。



まずは唯一の男手である須々木氏が、まるで何かに憑りつかれたかのようなスピードで砂を掘り始めた。残りの三人はその砂をひたすら中央に盛って行く。もちろん定期的に水をかけて固めることも忘れない。
凛ちゃんの意向により、幅より高さを求める方向になったので、ひたすら上へと延びていったその砂山は、気がついたら我々の腰の高さを優に超えていた。

思い返せば去年、何より苦戦したのがこの下地の砂山作りである。
しかし見よ、これがスコップの力だ。



乱歩酔歩


この砂山作りを1時間かからないぐらいでやってのけたのだ。スコップ1つでここまで変わるとは…恐れ入る。


砂山を完成させた我々は、お昼休憩を挟んだ後、再び作業に戻る。
そして海に飛び込むこともせず、さくさく作業に戻る面々。この時点で私の耳に、神からの声が聞こえる…これ、今回はうまくいくんじゃね?

ここからは、ディテールを整えていく作業だ。
参考までに言っておくと、途中須々木氏が「美大生(卒)が3人もいるんだから腕の見せ所…」とかぬかしていたが、ぶっちゃけその言葉に残りの3人は無言だった。仕方ない。3人ともファイン系専攻ではないのだ。
須々木氏は無言の我々に「…ぇ」という感じであった。

…まぁなんていうか、無言であった理由は察しろ。



さて、ここからはペインティングナイフの出番である。
昼ごはんの間に階段構造にすることは決まっていたので、とりあえずさくさくと階段にしていく。
そして気が付いたときには、外回りを夏野ちゃんと須々木氏、城を凛ちゃんと私が整えていくという作業分担が出来上がっていた。
私はとにかくペインティングナイフ(大)でざっくざく階段構造を作り上げ、それを追うように凛ちゃんがペインティングナイフ(小)で形を整えていく。夏野ちゃんと須々木氏はお堀を深くし、私と凛ちゃんがさらに細かいディテール調整に入る頃には、須々木氏は外の世界とつなぐ橋を、夏野ちゃんは周辺にサークルロゴ、日付、水路を作っていた。

これらを打ち合わせなしにやってのけたのだ。各々恐るべきエアリード力である。



ちなみに、階段構造がそこそこ様になってきたあたりから、周囲の目も集まりだした。

細かいディテール調整に入るころには、通りゆく人が写真を撮り、横を通り過ぎた外国人は二度見をし、ややナンパ系の兄ちゃんは「すげぇっすね!」と声をかけてくるようになる。

…しかし、客観的に見ると我々は少し異様な集団だったのかもしれない。
若い男女が、談笑するわけでもなく、きゃーきゃー騒ぐでもなく、ほとんど会話もせずに黙々と城を作っているのだ。海水浴を楽しんでいる周囲と比べると、正直浮きすぎていた。…個人には空気を読む力があっても、集団としては果てしなくエアスルー力が高かったらしい。




そして腰が痛くなって立ち上がった私は、想像していなかった光景を目にすることになる。
…制作陣が増えとるがな。

立ち上がったことによって開けた私の視界に入ったのは、せっせとお堀をかためている正体不明の幼女。…君、一人なのかい?
あえてメインの城には手を出さず、黙々とお堀を固めるその姿に将来の有望さが伺える。ちなみに彼女はやや経った後、母親らしき人物が迎えに来た。最後に「バイバイ~」と手を振って立ち去ったその姿は、ぶっちゃけ垂涎ものの可愛さだった…じゅる。




そして西日もだいぶ強くなった頃、我々の城は完成した。
ご覧に入れよう、これが『新・RWの城』である。


乱歩酔歩


時間の関係などもあり至らない点は多々あるが、突然砂浜に現れたものの中ではそこそこ立派だと思いたい。これなら『呪われた』をつけなくても城と呼んでいいだろう。



乱歩酔歩

乱歩酔歩

乱歩酔歩

乱歩酔歩




少なくとも二桁の人が写真を撮っていた。
それなりの人数に話しかけられ、我々がシャワーを浴びた後にまったり寛いでいるときも、通りすがりの人は写真を撮り、少年たちが興奮して城の中で遊んでいた。

芸術にはまだ遠いが、一時でも人様の目を引いたのは確かだろう。
総合的に判断して、とりあえずは我々の勝利としても良いのではないだろうか…。
そう、我々は去年から引きずっていた呪いを、今断ち切ったのだ。





まったりとアルコールを飲みながら暗くなるのを待ち、我々は花火をして帰路についた。
成功した城のことを思えば、花火中に起きたちょっとしたハプニングもご愛嬌だろう。
何にせよ、夏らしく夏を満喫した一日だった。


乱歩酔歩






砂の城は帰るころには満ち潮の波にさらわれ、もうその形を留めていなかった。


しかし我々の胸の中には、今でもあの城が堂々とそこに佇んでいる…。






aki