乱歩酔歩--Random Walk official blog-- -100ページ目

ラリック・エレガンス

どうもこんばんは霧島です。
ついに県を跨いでの移動も解除になりましたね。いうてまだしばらく移動する予定はありませんが久しぶりに展覧会に行ってきました。

そごう美術館にて開催中のラリック・エレガンス展 -宝飾とガラスのモダニティ-

ルネ・ラリックは19世紀から20世期のフランスのガラス工芸家で、金細工や宝飾デザインなどもしています。
私は元々アール・ヌーヴォーに見られる花や植物などのモチーフを使った装飾が好きなのですが、ラリックはアール・ヌーヴォーの次に現れるアール・デコでも活躍した作家です。

アール・デコは、曲線を多用したアール・ヌーヴォーとは違って幾何学図形をモチーフにしたものや原色による対比表現などが特徴的ですが、今回の展覧会ではアール・ヌーヴォーの宝飾品からアール・デコの雰囲気漂うガラス作品まで展示されていました。

今回は写真をとってないのですが、こちらのサイト(そごうのHP)でいくつかは作品が見られるので興味のある方は是非。
 

 


宝飾品は植物モチーフが多かったのですが、面白いなと思ったのは落ち葉などをデザインに組み込んでいるところです。

パッと見ると美しく植物に彩られた扇…かと思いきや、よく見るとカサカサとして葉脈まで見えるような落ち葉がデザインされているのです。

パールも美しい球形ではなく形が歪んでいたりする。ただ美しいだけでない、よく見るとこれ蛇だなトカゲだな…でも美しいな、と奇妙な感覚になりました。

また、女性のモチーフも多かったのですが、翼や翅が生えていてどこか妖精を思わせるようなデザインになっているのも印象的でした。(ラリックはフランスの作家ですが、一時期イギリスに滞在していたのでその影響のようです。)

このあたりの宝飾品のデザインはどれも個性的で、当時はその後服飾がシンプルになったことで洋服に合わなくなったようなのですが、現代ではアクセントとして面白そうだなと思います。シンプルな服装にこそスカラベのブローチなんて似合いそう。

こういった宝飾品が時代にそぐわなくなってくると、次に始めたのが香水の瓶のデザインでした。今でこそ様々に素敵なデザインの香水瓶がありますが、当時は美しいガラス瓶に香水を入れて販売するというのは革新的だったようです。

他にも花瓶や置き時計、化粧品を入れる瓶など日常で使う様々なものを美しくデザインしています。

今回私が見た中で特に好きだなと思ったのはオパルセント・グラスを使った作品です。
ラリックの作品ではよく使われるようなのですが、オパルセント・グラスとは光の当たり方によって色味が変わるガラスのことです。

基本は乳白色ですが、反射光で青に、透過光でオレンジに見えるそうです。なので見る位置を変えたりしなくても、同じ素材なのに違う色味が見えるわけです。

オパルセントグラスで作られた女性をモチーフにした作品がいくつか展示されていたのですが、光に照らされて柔らかな曲線に色が落ちる様はとても美しかったです。

その他にも動植物をモチーフにしたガラス作品の展示が多かったのですが、珍しいなと思ったのがカーマスコットです。カーマスコットとは、車の先端部分にあるラジエーターキャップに装着する装飾品のことです。

1900年代当時車はまだ珍しく、移動のための手段というよりはファッション的な意味合いが大きかったようです。それまではカーマスコットは金属製のものが主流でしたが、ガラスで作ることによってより個性を出していたのかもしれませんね。

ハヤブサがデザイン的にかっこいいなと思ったのですが、動物の他にも彗星などが少しメルヘンチックで可愛かったです。どんな人がどんな車につけたんですかね。


相変わらず引きこもってばかりの毎日ですが、久しぶりに美しいものを見ることができて少し生き返った気がします。

先日横浜駅に新しくオープンしたCIALもチラッと覗いたのですが、人が多すぎて即断念しました。←
とりあえず地下一階には美味しそうなお店が沢山入っていたのでそのうち落ち着いたらまた覗いてみようと思います。あと映画館もなんかちょっと変わってるみたいなので楽しみ。


したらば今日はこの辺で!
rin

工事は続くよ、いつまでも。

須々木です。

 

コロナで引きこもっているうちに、快適な季節は過ぎて行ってしまいました。

今月に入ってから、歩いて行ける範囲でうろうろするようになりましたが、それでも随分な変化があったりします。


というのも、横浜では、東京五輪にタイミングをあわせて、大規模な開発が同時に進行していて、それらが2019年から2020年にかけて一気に開業となっているためです。

横浜駅やみなとみらいは、そもそも普段からどこかしらで工事をしているわけですが、それがさらに勢いを数段増した感じになっていました。


そこで、今回は、今年オープンのスポットをまとめていきましょう。










・・・と思ったのですが、

わかりやすくまとめてあるページを見つけたので、素直にリンクを飛ばしておきます。





横浜に2020年オープンする新スポット・新施設まとめ!アリーナやミュージアム、ホテル(はまこれ)

 

 

 


みなとみらいで工事中のビルは何になるの?~MICE施設、新港地区、桜木町駅周辺編~(はまれぽ)

 
 

 

 


みなとみらいで工事中のビルは何になるの?~みなとみらい大通り編~(はまれぽ)

 

 


横浜駅西口はどう変わる? 神奈川のサグラダ・ファミリアの現状は?(はまれぽ)

 

 





2019年もなかなかの勢いでしたが、2020年も結構な勢いです。

そして、今後も当面続くようです。








日本有数の再開発地区であるみなとみらいは、横浜市六大事業の一つとして1965年に提案され、1983年着工、1989年頃から開発本格化という流れで今に至ります。

最初に描かれた街づくりの方向性は、その後もしっかり守られ、年々活気を増しているように感じます。

この数年で、暫定施設は恒久施設になり、広い空き地が徐々になくなってきました。

 

たっぷり税金を納めてくれそうな大きなオフィスも増えましたし、ビジネスマンも観光客も増えました。

まだ新たな大型開発が控えているようですが、それでもようやく全体像が見えて来たような気がします。

あと10年くらいで、主な開発は終わって、ほぼ完成版になるのではないかと。

 

個人的には、海沿いの歩行者動線が整備されてきたのがナイスです。

 

ゆったり広々で、まったり散歩するにはもってこいのエリアです。

 

横浜駅から山下公園まで、自動車を気にせず散歩できるのが素晴らしい。

 

混雑しているところもありますが、あちこちに穴場があるので、必ずどこかでマッタリできるのが良いです。

 

 

臨港パーク。(6月5日撮影)

その名のとおり、海に面した広い公園。

イベントがなければ、みんな超マッタリしている。

客船が停泊しているのは、横浜ハンマーヘッド。







みなとみらいとは対照的に、ごみごみして雑然とした印象の横浜駅周辺ですが、こちらも着々と再開発が進んでいます。

西口やきた西口付近の開発(JR横浜タワーなど)の終わりがそろそろ見えてきましたが、そのあとに、みなみ西口(五番街付近)やみなみ東口(中央郵便局付近)の再開発が動き出すものと思われます。

JR横浜タワーに最新鋭のシネコン「T・ジョイ横浜」が入るので、流石にムービルは畳むのではないかと踏んで、次は五番街付近の再開発かなあという気はします。

いずれにせよ、1世紀以上つづいてきた横浜駅の工事は、まだ数十年終わることはなさそうです。

なお、このあたりの話をもっと詳しく知りたい人は「エキサイトよこはま22」というものを調べると良いです。



横浜駅きた東口。(本日6月20日撮影)

チープな駅入り口の横に、新しく階段とエスカレーターが出現。

JR横浜タワーとJR横浜鶴屋町ビルを結ぶ「はまレールウォーク」に上がれるようになりました。

なお、チープなところは、これからどうにかするようです。



「はまレールウォーク」(たぶん本日開通)にあがるとこんな感じ。

人ごみを抜ける必要がなくなったので、この地区の歩行者動線はだいぶ良くなる印象。

ちなみに、レールは、東急東横線横浜駅が地下化される前の状態をイメージしているでしょう。

 

 

 

 

 

というわけで、なかなか新陳代謝が活発な横浜エリアの紹介でした。

 

 

 

 

 

 

sho

 

 

 

「未来と芸術展」感想~SECTION4: 身体の拡張と倫理

どうも遊木です。

 

この記事は森美術館「未来と芸術展」の感想その④となっております。

原稿の〆切が重なりまくってめちゃめちゃ時間が経ってしまいましたが……頑張って最後まで書ききります。

 

① 「SECTION1 都市の新たな可能性」についてはこちらからどうぞ。

 

 

 

② 「SECTION2 ネオ・メタボリズム建築へ」についてはこちらからどうぞ。

 

 

 

③ 「SECTION3 ライフスタイルとデザインの革新」についてはこちらからどうぞ。

 

 

 

 

 

SECTION4 身体の拡張と倫理

このセクションでは主に人間の身体、ひいては人間自身について切り込んでいます。

我々はテクノロジーの進歩により、かつては不可能とされてきた様々なものを超克してきました。人の身体は、特にその努力を実感する機会が多いでしょう。

ロボット技術を用いた義手義足、バイオ技術を用いた病の克服など、テクノロジーは、見えやすいものから見えづらいものまで、身体の様々な機能を拡張してきました。

しかし、技術の発展は便利さと共に大きな課題も引き連れてきます。生物学的な観点から生じる差別、遺伝子情報の守秘、人が人の命に介入し、それが許される分界など、生命倫理に関する多くの課題が浮き彫りになりました。

このセクションでは、技術の進歩によって開かれた身体の可能性と、同時に突き付けられた未来への課題が、アートという媒体を用いることで時にアイロニカルに、時にストレートに示されています。

 

ヒュー・ハーによる《リハビリのための装着型ロボット》、遠藤謙による《OTOTAKE PROJECT》などは、わかりやすく、技術の進歩によって拡張する身体の可能性を提示しています。

どちらの作品も、“欠損している身体を補うため”というのが制作の動機となっていますが、これらの作品は、SFなどで見られるパワードスーツ、つまり、そもそもの身体能力を飛躍的に向上させる装置の開発と、陸続きになっているように感じます。このまま技術開発が進み、当たり前のように人々がパワードスーツを身につける時代になったら、“身体を鍛える”という考え方は衰退し、「強靭な肉体」という言葉は死語になるのかもしれません。

義手や義足の開発は、身体にハンデを抱える多くの人のために、是非力を入れていきたい分野であり、その技術発展は喜ぶべきものでしょう。しかし同時に、生起する諸問題にも目を向ける必要があります。わかりやすいのが格差問題です。

例えばパラリンピックは、発展途上国より先進国の選手の方が有利という問題が指摘されています。日常生活ならともかく、競技にも耐えうる器具はかなりの高額となるため、途上国の選手はそう易々と手に入れることは出来ません。金銭問題はどの分野にも多かれ少なかれありますが、身体にハンデを抱える人たちの方が、より格差問題は深刻なのではないでしょうか。

神聖なる世界的スポーツ大会の場においてすら、懐具合が勝負、そして個人の人生に影響しているのが現状です。こういう技術に関して先進国である日本は、先進国であるからこそ、浮上する問題や、社会の価値観についても思慮深い姿勢を示す必要があります。そして、技術系の展示会ではなく、現代アート展に作品としてこのようなジャンルが扱われることの意味も考える必要があるでしょう。

利益や技術進歩の側面を超えた深いところ、人の心理や感性に呼びかけるツールとして、アートが幅広いジャンルとコラボしていくことを望みます。

 

 

 

 

人が自分の望む形で、不自由なく過ごせること。それは何年たっても揺らがない普遍的な願望です。そして、技術は人類が求める方向に進歩するものであり、前述のロボット作品も元を正せばそこへと繋がるでしょう。では、我々はその普遍的な願望を理由に、どこまで科学と生身の肉体の距離を近づけても良いのでしょうか。

この題材に対して深く切り込んでいる作品が《「変容」シリーズ》です。

この作品はデザイナーベビーを題材にしており、“デザイン”の部分をより強調する形で表現した―将来スポーツが得意な人になるよう、空気力学に基づいて鼻にピンを埋め込んだり、カフェインなどの吸収量を増やすことで将来ストレスに強い大人になるよう、ハムスターのような頬袋にしたり、人の意思によってデザインを施されている―赤ん坊の模型群です。

一見して正気の沙汰ではないと感じるこの作品ですが、デザイナーベビーの問題自体は何年も前から存在しています。現状では目や髪の色の調整、特定の病気になりにくいよう遺伝子操作をするというレベルですが、自分たちが望むような完璧な子供が欲しいという親の欲求は、今後も加速していくことでしょう。技術が追いついてしまえば、それを利用せずにはいられないのが人の性です。

「遺伝子組み換え」という言葉が定着してから随分と経ちますが、我々はどこまでの「遺伝子組み換え」を許容できるのでしょうか。今作では、恐怖すら覚える奇形児として誇張表現されている“デザイン”ですが、我々はこの恐怖がすぐそこまで迫っていることを今一度認識しなくてはなりません。

人類は長い歴史の中で多くのタブーを破り、今日のような便利な社会を築いてきました。今はまだ「それは駄目だろう」と感じるものも、時代の変化と共に移り変わるものです。

この作品は、「人類はどこまで許すのか」というテーマを俎上に載せることで、人類の変化する価値基準に対して警鐘を鳴らしているように感じます。便利さと欲望に翻弄されないよう、人のあり方を見つめなおさせる作品でした。

 

 

 

 

似た題材として、《進化の核心?》と《シュガーベイブ》も興味深かったです。 

《進化の核心?》は、肉体の中でも一番シンボリックである心臓を題材に、医療の介入による人の進化の道筋改変への示唆、未来における臓器産業の可能性を提示しました。

《シュガーベイブ》は、ゴッホの切り落とされた耳を遺伝子上なるべく近い形で復元させることで、歴史上の人物を再創造することは可能なのか、という問いかけをし、また「テセウスの船」というキーワードを絡めることで、魂の在りかについても言及しました。

どちらの作品も、《「変容」シリーズ》と同様、技術が追いついたとき我々はそれを許すのか、という人の欲望と根深く繋がった問題に帰結しているように感じます。

 

 

 

《親族》も近いテーマ性を感じますが、この作品については少し違う印象を抱きました。

「オランウータンと人間の架空配合種」という設定から誕生した母子像は、不気味の谷に近い心の乱れを生み出すことで、人工的な進化、自然とは何か、新たな生命をつくることにどう向き合うのか、という題目に鑑賞者を導いています。

この作品もやはり、“許されるのか”というテーマが根底にあると思いますが、私はそのテーマを超えた先で“生命の愛情の在りか”について突き詰めることが、この作品の一番の目指すところのように感じました。

不気味さの中に、種を超えた愛情のようなものが確かに表現されている作品であり、人の情は何をきっかけに芽生えるのかを考えさせられる作品です。

 

 

“人の身体”というテーマを語るうえで、忘れてはならないのがヒューマノイドというジャンルです。

現代では一般人でもアンドロイドという言葉が通じる時代ですが、やはりまだフィクション上のものというイメージが強いのではないでしょうか。しかし、エレナ・ノックスの作品はそんな考えを一掃する強さがありました。

《職業》、《哀れな誤信》共に、非常にリアルなガイノイドが話をしている映像作品です。私は特に《哀れな誤信》が強く印象に残っています。(撮影し忘れていたので、映像は適当に調べてください←)

《哀れな誤信》では、人間の老女がガイノイドの髪を整えながら、まるで孫に自分の昔語りをするかのように話しかけています。老女は、「昔はいつまでも若いと思っていた、でもあっという間に老けるのよ」的なことをガイノイドに語り掛けますが、ガイノイドは「自分は年を取らない」と切り返すだけ。しかし、それに対して老女は「私も昔はそう思っていた、あなたは若いからわからないのよ」と切り返します。ガイノイドは変わらず「自分は年を取らない」と切り返すだけ。このやり取りが延々と続く、そんな映像作品です。

ぱっと見は祖母と孫の心温まるコミュニケーションのよう。しかし、あらゆるものが噛み合わない彼女たちの会話を聞いていると、通じない、伝わらないとはこういうことなのか、と一種の絶望に襲われます。それは人間と機械の断絶に対するものではなく、リアルな見た目のガイノイドに“自分以外の誰か”を投影してしまうせいなのかもしれません。

個と個が本質的に理解し合うことの不可能性と、見た目を取り繕うことの無意味さを突き付けてくる作品です。なまじ客観的な視点での鑑賞を求められるせいで、薄ら寒い感情がより刺激されているようにも感じます。

この先、どんどんヒューマノイドの精巧さは質を上げ、いずれは漫画やアニメに出てくるような、人と変わらない存在へと変貌していくのかもしれません。そうなったとき、ヒューマノイドとの間に生じる齟齬を、私たちはどのように受け止めるのでしょうか。所詮は機械だから仕方ないと当然のように割り切るのか、人間同士でも心通わすことの難しさを知るがゆえに、生身の人間に感じるような歯がゆさを覚えるようになるのか。

ヒューマノイドに、人と同レベルの歯がゆさを覚えること。もしそのようなことがあれば、もうそれは彼らを新しく誕生した種として、人類と対等な存在として、受け入れている証拠のようにも感じられます。

 

 

 

今までのセクションは、鑑賞者が抱く感想はそれぞれであっても、それ自体はニュートラルな立場を示している作品が多いイメージでした。しかし、今セクションの作品は立場を明確とした、未来に対する警鐘となっているものが多かった印象です。

これまでのセクションでは、都市、着るもの、食べるものなど、人の営みに密接に関わるものでありながら、絶対的な“魂との間接性”が証明されている題材であったがゆえに、いかにディストピアを彷彿させるようなものであっても、そこにリアルな恐怖心は芽生えなかったように思えます。しかし、その題材が生身の肉体になった途端、まるで首筋に白刃を当てられたような反応になった。

おそらく、現代の私たちの「許容」がこのラインなのでしょう。これ以上の踏み込みは魂の立場を脅かす危険を感じているのかもしれません。

しかし、再三述べているように人は変化する生き物です。今はまだ恐怖を感じるラインが、倫理と利益のバランスが変わるたびに塗り替えられていくことでしょう。やがて人は、身体の拡張を享受する代わりに、人間性の縮小に怯える日が来るのかもしれません。

 

 

 

 

 

次回はラスト「SECTION5 変容する社会と人間」についてです。

 

 

aki

たまにはいつもと違うヤツ。

どうもこんばんは霧島です。

しばらく原稿でばたばたしてたので、久しぶりに落書きやイラストをPixivにアップしました。

3月のからまとめたんだけどその割にそんなに枚数なかったな?

Pixiv:過去ログまとめ。

ボチボチデジタルでお絵かきしたりもしてますが、そろそろ画材屋さんも営業再開するかなと思うので、6月になったら画材をいくつか新調しようかなと思います。

 

さて近況報告ですが、最近も引き続き引き込もって作業してます。

ネームが一番時間かかる…そしてネーム中は映像を観たり音楽を聴いたりしないのでそろそろ何かしらインプットしたいです。

アニメとかも全然観れてない…なんか観たいのいくつかあった気がするんだけどな…今度リストアップしよ…

 

そういえば今制作しているものの参考に某韓国ドラマを観ました。←

 

韓国の作品は今年に入ってパラサイトを観たのがめちゃくちゃ久しぶりというくらい普段触れないジャンルなのですが、まずドラマが20話以上あることに驚きました。

日本だと大体10話前後のイメージですが、それでも大抵一時間枠なのでアニメに慣れていると一気見には根気が必要な気がします。(まあ面白ければ普通に観れるけど)

ただその分キャラクターの描写がとても細かいので終盤めちゃくちゃ泣きました。←

今回観たのはラブコメだったのですが、メインのキャラクター以外にも色々と関係性が発展していく様も観ていて楽しかったです。

 

他にも参考までにいくつかあらすじをパラ見した感じだと、御曹司と一般女子的なものが結構多い印象でした。

日本でも少女漫画原作のドラマは多いけど、その王道はどの世界でも共通なんだろうな…まあ子どもの時に読み聞かせられたおとぎ話が多分に影響しているのかもしれませんが。

 

さて、そんな感じで5月が終わり明日から6月…え?もう今年半分終わるの…?

言葉にしてぞっとしてますが、またここから踏ん張っていきたいと思います。

夏が来るな~…その前に梅雨ですがもうなんだか暑いのでアイスが恋しいです。

したらば!

rin

地を這う人の閃き!

須々木です。

 

 

タイトル欄に何を入れようかと考えているとき、内容的に「閃き」という単語を入れたかったのですが、

 

「飛天御剣流奥義!! 天翔龍閃!!!」

 

・・・しか出てこなくて、こうなりました。

 

他の技だと「龍閃」を「りゅうせん」と読むのに、これだけは「りゅうのひらめき」と読ませるのが良いですよね。

 

しかし、今回は、「天を翔ける龍の閃き」ではなく、「地を這う人の閃き」についてのお話。

 

 

 

 

 

 

 

創造的行為において、閃きや集中を手繰り寄せることはとても重要だと思うのですが、ただ徒に時間を浪費するのも考えものなので、可能であれば効率化していきたいところ。

 

というわけで、「モノを考え最終的に形にする」という流れについて、とりあえず自分的基本パターンを振り返ってみます。

 

 

 

 

 

 

① 見たり聞いたり調べたり書きだしたりして脳内で闇鍋パーティー

 

とりあえず、手当たり次第突っ込んでいきます。

 

関連性などはかなり度外視した無秩序なインプットです。

 

一応テーマなどの縛りがあれば、その範囲を多少意識しつつ、やっぱり手当たり次第。

 

“何か”が食い付いてきたら、そのあたりにターゲットを絞り、さらに突っ込んでいきます。

 

結果として、広い部屋にいくつものネタの山が出現。

 

何の整理もされていない足の踏み場もないカオス状態です。

 

「これ、どうにかなるんだろうか・・・」というやつです。

 

 

 

 

 

② 文章化しながら、“背骨”が現れる瞬間を捕まえる

 

いくつものネタの山を、整理整頓していきます。

 

相関関係、因果関係、同系統、対立項 etc

 

あまり深く考えず、ほぼ反射的に振り分け並べていきます。

 

僕は、文章以外で整理する方法を持ち合わせていないので、とにかくどんどん文章化していきます。

 

手が勝手に頑張る感じ。

 

すると、そのうち、“背骨”が出現します。

 

もともとそこにあって、ネタの山を整理していたら埋もれていたのが出てきたのか。

 

それとも、もともとなかったのに、突如出現したのか。

 

実際よく分かりませんが、現れるまでは影も形もなく掴みどころもないのに、現れた瞬間「ああ、これだよこれ」となる不思議な感覚。

 

その瞬間がいつ訪れるか予測できないのですが、それでも「まあ、そのうち来るだろ」という妙な確信があります。

 

というよりは、そのくらいの気持ちじゃないと、逆に現れない気がします。

 

不思議。

 

兎にも角にも、これこそが船の竜骨(キール)のようなもので、これが現れると、散らかっていたものが急に一つの形を勝手に作り始めます。

 

手が勝手にさらに頑張ります。

 

すると、あら不思議。

 

なんか、それっぽい感じになってきます。

 

 

 

 

 

 

③ 忘 れ る 。

 

凄い勢いで形になったら、そこでやめます。

 

ある程度のところで、作業効率が急減速するので、そのあたりで一旦シメに入ります。

 

「もう十分頑張った。あとは未来の自分に託そう」という感じ。

 

本当に綺麗に忘れるための期間を挟むので、そのあと再び引きずり出すため、ダイイングメッセージみたいなものを気持ち丁寧に添えておきます。

 

勢いのまま組み上げた文章は、そのときは凄く鮮明なイメージと連結していますが、時間が経つとノーヒントで取り出すことが難しくなります。

 

よって、大量に注釈を挟みまくります。

 

未来の自分に手紙を書くように。

 

そして、本当に忘れる。

 

デスノートの記憶を失う夜神月のように。

 

 

 

 

 

④ 時は過ぎて・・・

 

日々、やることやりたいことはいろいろあるわけなので、完全に別の作業をします。

 

もしくは、いろいろ作品を見たりとか。

 

そして、ある日、「そろそろか・・・」という気持ちになります。

 

余裕のある時なら、結構な期間をあけたいところですが、短くても数日はあけたいです。

 

短い場合は、意識的に完全に別の作業をするか、完全にオフにしてだらけまくるか。

 

そして、「そろそろか・・・」と思って、スイッチを入れます。

 

かつての自分が残したダイイングメッセージを見ながら、「そう言えばあったな、こんなの」とか思います。

 

そんなことをしていると、急に何かがバチンと繋がります。

※もちろん、逆に「これはダメだな(確信)。ボツにしよう」もあります。

 

“何か”の正体は分かりませんが、それこそが待っていた感覚で、とりあえず「計画通り!」となります。

 

あとは、その勢いでどんどん頑張っていくという感じです。

 

扱うものの大きさや猶予によっては、③→④→③→④・・・みたいなループパターンも。

 

 

 

 

 

以上が、基本的な流れの気がしますが、完全に経験則なので何が起きているのかはよく分かりません。

 

不思議。

 

ディープラーニングの研究とかで再現できたら、いろいろ解明されるんでしょうか。

 

 

 

 

ところで、この①→②→③→④の流れとは独立して、「突如降ってくる」というやつもあります。

 

これも、前兆現象があるわけではないので、いろいろ謎ですが、確率的には語れそうな気がします。

 

量子論みたいな感じで、観測できるまでは確率のみのお話。

 

自分として確率的に高いイメージがあるパターンは以下のとおり。

 



・入浴中。ぬるま湯でぼーっとしているとなお良し。メモできないのが欠点。

 

・散歩中。行き先もルートも決まっているときの方が確率高めの気がする。
 

・登山中。かつて結構登っていましたが、質的にこれが最高の気がする。しかし、メモれない状況が多いのが厄介。
 

・アニメを見ているとき。アニメに限らないけれど、アニメが多い気がする。そして、そのアニメが面白いかどうかは結構どうでも良い気がする。

 

・科学雑誌を読んでいるとき。良質な最新科学ネタは、ほとんど特効薬。

 

・音楽を聴いているとき。J-popより、ボカロの方が確率が高い気がする。
 

・現代アート系の展覧会を見ているとき。これはシンプルにネタの宝庫なので、分かりやすい。

・会話しながらアイデアを出しているとき。ミーティング中は、「これは厳しい」と思っていたものが、意外なほどスイスイ進むことも。

・少し寝苦しい夜の夢の中。とんでもなく素晴らしいネタが舞い降りてきた・・・はずだが、消える速度も異常なので、捕まえるのが至難の業。

・もう寝れないというほど寝まくった後の布団の中。脳内の連鎖反応が物凄くスムーズになるので、いろいろ強い。

 

 

 

 

というわけで、ただ書き出した感じですが、他の人はどういうものなんでしょう。

 

脳味噌はみんな構造的に同じわけなので、物理現象という意味で、閃きの仕組みには普遍的な理屈が存在するんでしょうけれど。

 

おしえてえらいひと。

 

 

 

 

 

sho