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「未来と芸術展」感想~SECTION3:ライフスタイルとデザインの革新

どうも遊木です。

 

この記事は森美術館「未来と芸術展」の感想③となっています。

展覧会に行ってから大分間があいてしまった……。

 

① 「SECTION1 都市の新たな可能性」についてはこちらからどうぞ。

② 「SECTION2 ネオ・メタボリズム建築へ」についてはこちらからどうぞ。

 

 

SECTION3 ライフスタイルとデザインの革新

このセクションでは、人間の生活に密接に結びついた内容、主に衣食住に関わる作品が展示されています。

このセクションは具体的でわかりやすい作品が多かった印象です。創作に取り入れやすいネタが豊富で、発想の切り口にも変な小難しさは感じませんでした。SECTION2のラストに頭がオーバーヒートしたので、この展示順序はなかなか考えられている気がします。頭を使う系と直感的にわかりやすい作品を交互に展示することで、見る側の負担軽減や作品から得る刺激を最大限引き出そうとしているのかなと感じました。

 

まず、直感的に面白かった《SUSHI SINGULARITY》についてです。

データ食という、聞き慣れない言葉で表現されているこの作品は、ソルティ、スイート、サワー、ビターという「味の四原色」という考え方を基に、データ化された寿司を米粉や寒天、大豆、海藻などを原料にしたジェルを素材に、3Dプリントやロボットアームで、建築的構造も取り入れつつ造形化し、合わせて新しい食感をつくり出しながら提供されるというものです。

まさにサイバーパンクにおける“食”を表現しているような作品で、見た目にも拘る日本的感覚が変な形で踏襲されている面白さもありました。

まぁ、どう見ても美味しそうではないし、ディストピア感がすごいのですが、創作の題材としては非常に興味深い作品です。SF作品で、さらっとこういう表現が出てきたら「作者やるな」と感じてしまう。今回展示されていたのは、実際に計画が進行しているもののコンセプトマシンだそうです。

人のDNAや栄養状態を分析し、個人に合った“食のカスタマイズ化”という考え方が、将来的には一般になるかもしれない、この作品はその可能性を示唆しています。もしかしたら人間のあらゆる欲求は、いずれは“より良く”という大義名分のもと、デジタルに管理される未来がくるかもしれません。そうなったとき、人が「生きている」と感じるのは一体どういう瞬間になるのでしょうか。

 

 

 

 

SF、ディストピア繋がりとして《倫理的自動運転車》も興味深い作品でした。

自動運転の実用化が現実的になってきている現代ですが、この作品では、自動運転車が危険な状態になったとき、緊急回避のための複数のアルゴリズムからひとつが選ばれ、その結果がどのようなものになるのかシミュレートされています。そのシミュレーションの様子を通して、AIの倫理観と道徳観、人間社会で生じる問題を提起し、「正しさ」の不確実性を問い直すものとなっていました。

例えば、自動運転車が回避できない事故にあったとき、より被害を最小限にするにはどうすればよいのか。あるアルゴリズムでは子供を最優先に助ける判断をし、あるアルゴリズムではなるべく多くの人数を助けるよう判断する。また別のアルゴリズムでは、要人を助けることを最優先する。結果として、優先されなかった命は犠牲になったり危機に晒されたりします。デジタル的でありながら、非常に人間の本質をつく検証だと思いました。

今後、私たちの生活にはどんどんAIを用いたものが増えていくでしょう。そのような社会では不測の事態の判断も、場合によってAIがするようになるかもしれません。すべての命が救えない状況の時、AIは自分に与えられた情報と能力から「正しさ」を導き出し、命の線引きをします。しかし、そうなったとき、切り捨てられた命の責任は誰がとるのでしょうか。AIが判断した「正しさ」も、元を辿れば人間が作り出したものです。では、開発者が責任を負うのでしょうか。それとも社会が?もしくはAI自身が?アルゴリズムが?

この作品では、AIが人間社会のモラルに介入する時代の到来と、その危うさについて、考えるべき課題を提示しています。

AIによる管理社会の描写といえばSF作品の醍醐味でもありますが、人間とAIの距離が近づけば近づくほど、ディストピアと捉えるのか、逆に洗練された社会と呼ぶのか、難しい問題です。少なくとも、自動運転が普及した方が交通事故は減るでしょう。その他にも、気分や体調の揺らぎがないものに管理された方が、救われる命もあるはずです。

管理社会を、人間から人間性を喪失させる毒と捉えるのか、人間の不完全性から命を守る薬と捉えるのか、この辺の話はPSYCHO-PASSを見ると直感的にわかりやすいかなと思います。

何にせよ、今を生きるすべての人間に関係のある問題です。私たちは、この問題の正解を探すというより、どう折り合いをつけていくのかを考えた方が建設的なのかもしれません。人間は長い歴史の中で様々なものと折り合いをつけて生きてきました。もしかしたら、この“折り合いをつけられる柔軟性”こそが、人類が持つ最大の強みであり、誇るべき人間性なのかもしれません。

 

 

近い題材として、実際にコンゴ共和国で導入されている《交通整理ロボット》や、「仕事に従事していない瞬間のロボット」を写真におさめた《「マン・マシーン」シリーズ》も興味深かったです。

余談ですが、アルゴリズムの責任といえばSECTION5で展示されていた《スーパーデットハンターボットの裁判》がこの問題に言及していました。

 

 

 

次にエイミー・カールの《「インターナル・コレクション」シリーズ》についてです。

この作品では、人類の永遠の課題でもある“差別問題”について、示唆的かつ潔さを感じるものとして表現されていました。

解剖学に基づき、内臓を模した衣服として仕立て上げられたこの作品は、人種、文化、学歴、性的嗜好など、あらゆる要素に関係なく、人間の内部に共通して存在する美や繊細さを讃えています。

差別といえば、昨今のポリティカル・コレクトネスの動きは、創作に関わるものとして無関心ではいられません。例えば世界的に多くのファンを抱えるディズニーは、最近だと実写版リトル・マーメイドの件など、定期的にこの話題で炎上します。非常にデリケートな問題だとは思いますが、私個人としては昨今のポリティカル・コレクトネスについて、少々首をかしげるシーンが増えている印象です。

差別をなくそう、という動きは称賛されて然るべきものだと思います。一方、差別を差別と定義することは非常に難しい。ある人にとっては“区別”とするものも、ある人にとっては“差別”になる、そんな例は腐るほど存在するでしょう。その前提が頭にあれば、創作物に限らず、社会のあらゆるものにおける差別的表現の撤廃がいかに難しいことかがわかります。

そもそも私は、人間は潜在的に差別意識や偏見を持っているものだと考えています。いわゆる“良い表現”は、誰かにとって“都合が良い”だけで先天的に“正しい”わけではない。故に、表現物に対して何かと突っかかってくる昨今のポリティカル・コレクトネスの動きには不毛さを感じてしまいます。そして一種の諦めのようなものもある。

しかし、一方で「差別をなくすべきだ」と自身の本質に抗い続ける人間の活動は、人を人たらしめ、称賛されるべきものだと思っています。ようは、その意思をどう伝えるかによって、深く人の心に届くか、逆に弾き返されるかが決まるのです。

その点、《「インターナル・コレクション」シリーズ》は、絶妙なバランス感覚を保っている作品だと思います。現代アートにありがちな変な回りくどさはなく、視覚的美しさと、衣服という媒体の親近感、そして嫌味や偏った思想を感じない妙な説得力がある。個人的には、衣食住の中でも、あえて“衣”として完成させたことにも面白さを感じます。

服とは纏うものであり、言ってしまえば裸、本質を隠すものでもある。本来なら自身で持っているはずの中身を、あえてもう一度身に着けるという重複的行為が想定されているこの作品は、人が何を内に抱え、何に縛られているのかを示唆しているようにも感じます。このテーマについては、キルラキルを見るとわかりやすいかもしれません。

この作品のバランス感覚は、自身の中にも落とし込みたい表現力のひとつだと思いました。

 

 

 

その他にも昆虫食や人工培養食、菌の性質を利用した自然と共存できる家具、愛玩用ロボットなども展示されていました。

私は発売当初aiboに拒否反応が出るタイプの人間でしたが、現在はかなり改良されたのか、展示されていた子にはそれなりの愛くるしさを感じました。またaiboと同じスペースにいたLOVOT(らぼっと)は、普通に可愛かったです。寸胴なフォルムと、ペンギンのような手がゆるゆると動く感じ、そして、見つめるとしっかり合わせてくれる視線。この“目が合うこと”が愛着を抱く一番の理由だと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

このセクションの展示作品は、モチーフのほとんどが、生活の身近にあるものでした。故に、具体的で理解しやすく、自身の作品にも落とし込みやすいものが多かった印象です。今後の制作に存分に活かしたい所存。

しかし、具体的であったからこそ感じる妙なリアリティは、今を生きる私たちにとって、心地よい旋律というよりは不協和音となり、思考の深い部分を揺さぶっているようにも感じます。

不協和音と感じるのは、単に未知なものに抱く恐怖心のせいなのか、人間に備わっている名前のない何か―――攻殻機動隊の言葉を借りるなら、“ゴースト”が囁いているせいなのか、今はわかりません。

 

やがて、AIなしでは人は生きられなくなるかもしれない。

AIに行動も、欲求も管理され、そのことに疑問を抱かなくなる未来がくるかもしれない。

差別がまったくない人類史上最高の時代は、もしかして人間がAIに操縦される世界にこそあるのかもしれない。

環境に配慮された住居に住み、自然素材のインテリアと暮らし、生き物の尊厳や命を尊び、人工培養の食品を食べて機械のペットを愛でる。

それはなんと美しく、完成されていて、そして熱量のない世界だろうか。

 

次回は「SECTION4 身体の拡張と倫理」についてです。

 

aki