「未来と芸術展」感想~SECTION4: 身体の拡張と倫理 | 乱歩酔歩--Random Walk official blog--

「未来と芸術展」感想~SECTION4: 身体の拡張と倫理

どうも遊木です。

 

この記事は森美術館「未来と芸術展」の感想その④となっております。

原稿の〆切が重なりまくってめちゃめちゃ時間が経ってしまいましたが……頑張って最後まで書ききります。

 

① 「SECTION1 都市の新たな可能性」についてはこちらからどうぞ。

 

 

 

② 「SECTION2 ネオ・メタボリズム建築へ」についてはこちらからどうぞ。

 

 

 

③ 「SECTION3 ライフスタイルとデザインの革新」についてはこちらからどうぞ。

 

 

 

 

 

SECTION4 身体の拡張と倫理

このセクションでは主に人間の身体、ひいては人間自身について切り込んでいます。

我々はテクノロジーの進歩により、かつては不可能とされてきた様々なものを超克してきました。人の身体は、特にその努力を実感する機会が多いでしょう。

ロボット技術を用いた義手義足、バイオ技術を用いた病の克服など、テクノロジーは、見えやすいものから見えづらいものまで、身体の様々な機能を拡張してきました。

しかし、技術の発展は便利さと共に大きな課題も引き連れてきます。生物学的な観点から生じる差別、遺伝子情報の守秘、人が人の命に介入し、それが許される分界など、生命倫理に関する多くの課題が浮き彫りになりました。

このセクションでは、技術の進歩によって開かれた身体の可能性と、同時に突き付けられた未来への課題が、アートという媒体を用いることで時にアイロニカルに、時にストレートに示されています。

 

ヒュー・ハーによる《リハビリのための装着型ロボット》、遠藤謙による《OTOTAKE PROJECT》などは、わかりやすく、技術の進歩によって拡張する身体の可能性を提示しています。

どちらの作品も、“欠損している身体を補うため”というのが制作の動機となっていますが、これらの作品は、SFなどで見られるパワードスーツ、つまり、そもそもの身体能力を飛躍的に向上させる装置の開発と、陸続きになっているように感じます。このまま技術開発が進み、当たり前のように人々がパワードスーツを身につける時代になったら、“身体を鍛える”という考え方は衰退し、「強靭な肉体」という言葉は死語になるのかもしれません。

義手や義足の開発は、身体にハンデを抱える多くの人のために、是非力を入れていきたい分野であり、その技術発展は喜ぶべきものでしょう。しかし同時に、生起する諸問題にも目を向ける必要があります。わかりやすいのが格差問題です。

例えばパラリンピックは、発展途上国より先進国の選手の方が有利という問題が指摘されています。日常生活ならともかく、競技にも耐えうる器具はかなりの高額となるため、途上国の選手はそう易々と手に入れることは出来ません。金銭問題はどの分野にも多かれ少なかれありますが、身体にハンデを抱える人たちの方が、より格差問題は深刻なのではないでしょうか。

神聖なる世界的スポーツ大会の場においてすら、懐具合が勝負、そして個人の人生に影響しているのが現状です。こういう技術に関して先進国である日本は、先進国であるからこそ、浮上する問題や、社会の価値観についても思慮深い姿勢を示す必要があります。そして、技術系の展示会ではなく、現代アート展に作品としてこのようなジャンルが扱われることの意味も考える必要があるでしょう。

利益や技術進歩の側面を超えた深いところ、人の心理や感性に呼びかけるツールとして、アートが幅広いジャンルとコラボしていくことを望みます。

 

 

 

 

人が自分の望む形で、不自由なく過ごせること。それは何年たっても揺らがない普遍的な願望です。そして、技術は人類が求める方向に進歩するものであり、前述のロボット作品も元を正せばそこへと繋がるでしょう。では、我々はその普遍的な願望を理由に、どこまで科学と生身の肉体の距離を近づけても良いのでしょうか。

この題材に対して深く切り込んでいる作品が《「変容」シリーズ》です。

この作品はデザイナーベビーを題材にしており、“デザイン”の部分をより強調する形で表現した―将来スポーツが得意な人になるよう、空気力学に基づいて鼻にピンを埋め込んだり、カフェインなどの吸収量を増やすことで将来ストレスに強い大人になるよう、ハムスターのような頬袋にしたり、人の意思によってデザインを施されている―赤ん坊の模型群です。

一見して正気の沙汰ではないと感じるこの作品ですが、デザイナーベビーの問題自体は何年も前から存在しています。現状では目や髪の色の調整、特定の病気になりにくいよう遺伝子操作をするというレベルですが、自分たちが望むような完璧な子供が欲しいという親の欲求は、今後も加速していくことでしょう。技術が追いついてしまえば、それを利用せずにはいられないのが人の性です。

「遺伝子組み換え」という言葉が定着してから随分と経ちますが、我々はどこまでの「遺伝子組み換え」を許容できるのでしょうか。今作では、恐怖すら覚える奇形児として誇張表現されている“デザイン”ですが、我々はこの恐怖がすぐそこまで迫っていることを今一度認識しなくてはなりません。

人類は長い歴史の中で多くのタブーを破り、今日のような便利な社会を築いてきました。今はまだ「それは駄目だろう」と感じるものも、時代の変化と共に移り変わるものです。

この作品は、「人類はどこまで許すのか」というテーマを俎上に載せることで、人類の変化する価値基準に対して警鐘を鳴らしているように感じます。便利さと欲望に翻弄されないよう、人のあり方を見つめなおさせる作品でした。

 

 

 

 

似た題材として、《進化の核心?》と《シュガーベイブ》も興味深かったです。 

《進化の核心?》は、肉体の中でも一番シンボリックである心臓を題材に、医療の介入による人の進化の道筋改変への示唆、未来における臓器産業の可能性を提示しました。

《シュガーベイブ》は、ゴッホの切り落とされた耳を遺伝子上なるべく近い形で復元させることで、歴史上の人物を再創造することは可能なのか、という問いかけをし、また「テセウスの船」というキーワードを絡めることで、魂の在りかについても言及しました。

どちらの作品も、《「変容」シリーズ》と同様、技術が追いついたとき我々はそれを許すのか、という人の欲望と根深く繋がった問題に帰結しているように感じます。

 

 

 

《親族》も近いテーマ性を感じますが、この作品については少し違う印象を抱きました。

「オランウータンと人間の架空配合種」という設定から誕生した母子像は、不気味の谷に近い心の乱れを生み出すことで、人工的な進化、自然とは何か、新たな生命をつくることにどう向き合うのか、という題目に鑑賞者を導いています。

この作品もやはり、“許されるのか”というテーマが根底にあると思いますが、私はそのテーマを超えた先で“生命の愛情の在りか”について突き詰めることが、この作品の一番の目指すところのように感じました。

不気味さの中に、種を超えた愛情のようなものが確かに表現されている作品であり、人の情は何をきっかけに芽生えるのかを考えさせられる作品です。

 

 

“人の身体”というテーマを語るうえで、忘れてはならないのがヒューマノイドというジャンルです。

現代では一般人でもアンドロイドという言葉が通じる時代ですが、やはりまだフィクション上のものというイメージが強いのではないでしょうか。しかし、エレナ・ノックスの作品はそんな考えを一掃する強さがありました。

《職業》、《哀れな誤信》共に、非常にリアルなガイノイドが話をしている映像作品です。私は特に《哀れな誤信》が強く印象に残っています。(撮影し忘れていたので、映像は適当に調べてください←)

《哀れな誤信》では、人間の老女がガイノイドの髪を整えながら、まるで孫に自分の昔語りをするかのように話しかけています。老女は、「昔はいつまでも若いと思っていた、でもあっという間に老けるのよ」的なことをガイノイドに語り掛けますが、ガイノイドは「自分は年を取らない」と切り返すだけ。しかし、それに対して老女は「私も昔はそう思っていた、あなたは若いからわからないのよ」と切り返します。ガイノイドは変わらず「自分は年を取らない」と切り返すだけ。このやり取りが延々と続く、そんな映像作品です。

ぱっと見は祖母と孫の心温まるコミュニケーションのよう。しかし、あらゆるものが噛み合わない彼女たちの会話を聞いていると、通じない、伝わらないとはこういうことなのか、と一種の絶望に襲われます。それは人間と機械の断絶に対するものではなく、リアルな見た目のガイノイドに“自分以外の誰か”を投影してしまうせいなのかもしれません。

個と個が本質的に理解し合うことの不可能性と、見た目を取り繕うことの無意味さを突き付けてくる作品です。なまじ客観的な視点での鑑賞を求められるせいで、薄ら寒い感情がより刺激されているようにも感じます。

この先、どんどんヒューマノイドの精巧さは質を上げ、いずれは漫画やアニメに出てくるような、人と変わらない存在へと変貌していくのかもしれません。そうなったとき、ヒューマノイドとの間に生じる齟齬を、私たちはどのように受け止めるのでしょうか。所詮は機械だから仕方ないと当然のように割り切るのか、人間同士でも心通わすことの難しさを知るがゆえに、生身の人間に感じるような歯がゆさを覚えるようになるのか。

ヒューマノイドに、人と同レベルの歯がゆさを覚えること。もしそのようなことがあれば、もうそれは彼らを新しく誕生した種として、人類と対等な存在として、受け入れている証拠のようにも感じられます。

 

 

 

今までのセクションは、鑑賞者が抱く感想はそれぞれであっても、それ自体はニュートラルな立場を示している作品が多いイメージでした。しかし、今セクションの作品は立場を明確とした、未来に対する警鐘となっているものが多かった印象です。

これまでのセクションでは、都市、着るもの、食べるものなど、人の営みに密接に関わるものでありながら、絶対的な“魂との間接性”が証明されている題材であったがゆえに、いかにディストピアを彷彿させるようなものであっても、そこにリアルな恐怖心は芽生えなかったように思えます。しかし、その題材が生身の肉体になった途端、まるで首筋に白刃を当てられたような反応になった。

おそらく、現代の私たちの「許容」がこのラインなのでしょう。これ以上の踏み込みは魂の立場を脅かす危険を感じているのかもしれません。

しかし、再三述べているように人は変化する生き物です。今はまだ恐怖を感じるラインが、倫理と利益のバランスが変わるたびに塗り替えられていくことでしょう。やがて人は、身体の拡張を享受する代わりに、人間性の縮小に怯える日が来るのかもしれません。

 

 

 

 

 

次回はラスト「SECTION5 変容する社会と人間」についてです。

 

 

aki