人生の優先順位…。そう!あなたもわたしも、ほんとうに、必要なのは、こころのこえに向き合うこと。どうせ…だから、そう、思い込んで、こころにふたをしてしまわないこと。常になにかを、我慢しなきゃいけない、そうすることはいいことだと、思い込みすぎてる。のかもしれない。いまさら、なにをどうあがいたって…。あるいは、これまで、せっかく重ねた時間(のおかげで、)手にした、この(まぁ、なんとかこれからも、我慢していけるであろう、)居場所を手放すことへの躊躇い。なにかを、失うことへのおそれ…。そんなこんなで、ひとは、ひとまず、たいへんなことには、めをつぶって生きる。それで、なんとか、なるならば、そのほうが、ずっと、賢い。そう、それは、間違いない。だから、みんなそうしている。


もんだいは、なにか、そのもんだいが、目に付くのは、そのときどきの、受け手のこころのありようを、半分は、受けてもいるので、(つまりは、大なり小なり鏡なので)、結局、やっきになって、なにかを取り除こうとすると、ちゃんとしっかり、もっと別のもんだいが目の前に立ちあらわれてくる。そのうち、どこで、てをうつか、まぁ、このへんなら、我慢できるぜ、というところで、(賢く)あきらめて、いるほうが、ずっと、楽だし、それいじょうの、厄介ごとにも巻き込まれなくなる。だから、むきにならないことだ。いま、あらわれているもんだいは、たんなる、何かの象徴や、表層や、あるいは、ほんのささいなさかむげにすぎない。たいてい、ことの本質は、もっと深いところに隠れている。ところが、それを、掘り起こすと成ると、へたをすると、一生かかるかもしれない、とんでもない、ところまで、根が伸びているかもしれない。だから、そこそこのところで、観なかったことにする。これが、懸命だ。いや、賢明だ。


そう。ことの本質は、火をみるよりで…。こと、おんなという生きものにとって、(いや、ひょっとしたら、みんなそうなのかな、とも、おもうけど)、なにが、それといって、愛する家族をおもって、その帰りを待って、こころ静かに暮らせたら、どんなにしあわせか。ところが。おおきな、問題がある。いまやってるドラマではないが。ほんとうに、好きな人というのは、ほんとにほんとに、稀有なのだ。一生でひとり、出会えるだけで、それはたぶん、それだけで、なにをおいても、がまんしなきゃいけないくらいの一大事。もちろん、すべてのひとが、生まれてなくなるまでの間に、めぐりあえない(ようだ)。ほんの、一部だとか。たぶんね。実際、みてても、そうおもう。だから、(そう)わかってるひとは、実に、美しく振舞うし、実際、見ていて、その空気が立ち居振る舞いから滲み出ている。だから、イライラも、そわそわも、滅多にしないのじゃないだろうか。だから、ひとのことが気になってしかたないような、そんなひとたちからの、余計な(お世話)に、遭わないためにも、実に、智慧をこらして、暮らしている(のだろうな)。そう、おもう。ほんとに、やっかいごと、だらけだけど、こころから、想えるひとがあるというだけで、たいがいのことは、たいしたことではなくなるから、想いとは、想える(ひとがあるということは)、ほんに、それだけで、生まれてきた甲斐があったと、おもわねばいけないのだろうな。


だけどね。空気だけ吸っては、生きてはいませぬしねぇ。結局、かなしきかな、ひとの歴史とは、つまりは、それらも、無論、含めて、それぞれの、居場所の確保闘争であり、闘わずしてなにかを得ようなどと、考えてはいけないのだろうな。闘うのがいやなら、いいひとで、ずっといたいなら、何も文句いわずに、これまでと同じ事を、繰り返し、たとえば、わたしなどは、ぼけ~っと、していても、ひとまず、(逃げ)帰れる家があるのは、(先祖が、恐らく、闘いの末に)手にしてくれた、土地があるから…。であり。そう、考えると、なにをどうしても、しぬまでの辛抱、であるのは、変わらぬにしても、なにかを、あきらめて、時間が過ぎるのを待つのも、これ、ひとつの、立派な覚悟かもしれぬし、それはそれで、誰にも知れずとも、とても立派な生き方であるし、我慢することのほうが、ずっと、美しいような気もして、(だから、いけないのかな)・。結局、思考は、堂々巡りを繰返す。歴史と一緒なのか?奪えばかならず、いつかは、逆の立場になる。時間の順序には逆らえない。もし、強引に、それに挑むのなら、それとなにかを引き換えにする覚悟がいるのだろう。つまりは。どう、どう、あがいても、やっぱり、どちらも、闘いなのだ。こころのなかの、それか、目に見える、だkれかを、打ちのめすか…。いや、ことばが過ぎたが、ともあれ。ことばを、ひたすら、吐き出すことで、どうにも、できない、こころの苦しみ(いや、これは、まぎれもなくしあわせなことでもあるのだぞ)に、少しでも、寄り添うことができないものかと…、ひたすら、独り相撲、なのかなぁ…。ああ、おとこも、きっとたいへんだけど、おんなも、たいへんなのだ。なんだかね。もんだいが、いちどに、解決する、魔法の薬でもあるといいのにね。


やっぱり、なにを、どうしても、常に、なにかから、逃げていることになるし、(それが、わるいわけじゃない)片方をとれば、片方にしわよせがいくのがあたりまえだし。りょうほうとれるくらいなら、せんそうはおこらないし。そうやって、あくせんくとうするうちに、いつしか、じんせいのおわりがきて。つまりは、なあんだ、けっきょく、どれも、時間つぶしだったのかぁ~。あ~あ、おもしろかった。それでも、わたしは、うまれてきてよかった。そうおもえて、いけたら、それだけで、しあわせなのだろうなぁ。そして、なにをおいても、たいへんなのは、その、時間つぶしだ。忙しさにまぎれるもよし、ひたすら、なにかをおいかけるもよし。だったら、ひとを想ってくろうしたいね。なあんて、いってしまうと、ひにくがすぎて、むなしくなるかなぁ。かなしいね。いつかなくなる時間なのに、どうして、こうも、たいへんなのでしょうね。この20年、それでも、なんとか、ごまかしてこられたみたいに、あと20年辛抱して、そうこうするうちに、おんなには期限があるから、そのうち、そんなに、悩まなくなって、あるいは、なんだろう、うまく、時間の過ぎるのを誤魔化す術でも生み出せるかなぁ~。そしたら、さらに、あと20年、そのころには、少しぐらい、ここにいてもいいのだと、感じられる居場所とやらに、出合えるのだろうか。そのころになって、ようやく、ほんきでやりたいことが、目の前にあらわれても、そして、なにも、邪魔するものや遮るものがなくなっていても、こんどは、元気がなくて、あ~、あのとき、出合えていたらなぁ~、なんて、愚にもつかない、うらみごとを言って、また、なにかを、あきらめるお膳立てをしてしまうのだろうかなぁ。できるなら、さいごの5年でも、10年でもいいから、こころのままに、思う存分、想いをかなえてみたいね。夢は、かなわないから、輝きつづけていられるのかなぁ~。だとしたら、やっぱり、かなしいね。(ただ、こころをすこしでも、おちつかせたくて、書いたのだけど、結局、だれかに、つらいおもいをさせるような、書き方になってしまっているように、おもいます。ごめんなさい)。

したいことがある。しなければいけないこともある。こころのなかに、ときおり、ふわふわぁ~っと、たちあわれる、なんともいえない、ふあんとは、また、べつの次元で、ひとは、平静の中にいるのだろうか。なあんて。ともあれ。それはそれ、これはこれ。そう、おもわないと、やってられないことも、ときにある。どうしようもないむなしさもだ。じゃ、あ、いま、なにかを、ものすごく不満におもっているかといえば、そんなことはない。むしろ…、だ。先が見えないのも、ひとつの、たのしみの可能性といえば、いえなくもない。安定がないからこそ、えられるものも、きっとあるのだろう。なにが、しあわせで、なにがそうでないか。どれも、ずっとあとにならなければ、きっと、わからない。だけど。だけど、なんだ?こえが聞こえてきそうであるけど…^^;。


ともあれ。甲斐のあること。ないこと。甲斐のあるひと、話し甲斐…、頼み甲斐…。いろいろ言い方はあるけど。つまりは、なんだろう。通じる、通じると感じるなにか、があるのだろう。いいか、わるいかは、そのひとのそのひとの、主観なのだ、要は、すきかきらいかなのだといわれてしまったけれど。いや、すきかきらいかこそ、生きるうえで、とても大事な感覚ではないのだろうか。たとえば、生死をわける危機をかぎわけるそれから…、もっと、他愛のない映画の趣味…、まで。ともあれ。こうして、書きながら、わたしは、ことばに、助けを借りている。(自分で自分の)なにかを癒している。…にすぎない。のだが…。


ともあれ。それはそうと。ふと、おもうときがある、ときどき訪れる場所でも、ときに仕事と呼ばれる場所でも、あるいは、いつもいくスーパーでも…。そんなひとがいる。どんなひとかというと、はたから見ていて、このひとは、どうしてこんなに…(なんだろう)空回り(のように見えるだけかもしれぬが)しているのだろう…?と、感じるひとのこと。どうしてこんなに早口なのだろう?もっと、ゆっくり、あるいは、もっと、言葉少なに、言うこともできるだろうに…。そう感じるひとたち…。共通するのは、どこかに無理を感じること。だから、いつも、言葉と、行動と、そのひとから滲み出る雰囲気(つまりは、たぶんこころのなかで隠して?いること)が、とても、ちぐはぐで、バラバラに感じるひと…。なるたけ、深くかかわらずに、そっとしておく…、しかないのだろうな。(しごとなどで、ど~しても、一緒にいないといけない時間が長くなると、それはそれ、ひとつの修行!と、とらえればいいのですかねぇ。)


ひとには、格があるという。それにしても、不思議だ。その、シルエットを視界の端にとらえただけで、目を離しても大丈夫(つまりは、品位あるひと)か、(知っている)誰かに見られているかどうかで、行動が変わる(つまりは、ほかのだれかの空間を侵すことを日常としている)ひとか…。すぐにわかってしまうのは、どうしてだろう。それはそうと。そういえば、このごろ、レジで、たとえば、カフェの、たとえば、コンビニとかほかのお店でも、(そんな風にひとを多く観ているはずの)女性から、比較的、好意的にふるまってもらえることが多くなった(と感じる)。なんというのか、ごく自然に、親切にしてもらえるというか。歓迎してもらえるというか…。そんな風に感じる前がどうだったのか、よく思い出せないが。なんだろう。自分のなかで、なにかが、少し(ゆとりだろうか?)いい方に、かわっているのだろうか。つまり、ひとは、日ごろの、何気ない行動のひとつひとつが、そのひとを作っていくのだろうな。ときに、だれにも気付いてもらえずするやせ我慢や辛抱も含めて…。そんなこんなの、すべてが、そのひとを…。だから、見せ掛けの何かを無理に装おうとすると…、見事に、その違和感が浮き出てしまうのだろうな。自然(体)でいられる。それだけで、とても、素晴らしいことなのだ。きっとね。


っと、書いているだけで、こころが、ずいぶんと…ほぐれているのを感じます。してみると、書くとは、とっても、自分勝手な!?ことでもあるのかなぁ~。まぁ、いいか。つきつめすぎると、なんにも、できなくなるものね。ほんに、こころとは、ふしぎです。事態はなにもかわらなくても、それを、たのしみのひとつ、と、そうとらえられるときもあれば、ああ~だめだぁ~、って、後ろ向きにしか考えられないときもあって。だから、面白いし、、だから、(ときに、平然と)生きられるのだろうなぁ~って、のは、おもいます。充実する…、というのは、すでにすべてが達成されえいるときではなくて、何かに向って(少しでも)期待をもって、目の前の何かに向っていられる時間…、のことかもしれませんねぇ。ふわふわ~っと、いられる時間。だれかのおかげで、少しずつ、自分がかわっているように感じられるとき…、ひとは、きっと、ひとは、いいときのなかに、いられている(うん?ちょっと日本語おかしい?)のかもしれない。



たとえば、いえで、おふろのシャンプーをボトルに補充しているとき。たとえば、こくないやこくがいの、友人たちへの、贈り物を封筒につめているとき。ちょっと、うれしい。時間をきにせず、なにかを、しているとき。ほっとしている。ふと、おもいついて、なにかちょっとした、手仕事をしているとき、なんとなくだが、こういうのいいな…、そう、おもう。なんだろう。たぶん、だれかのため…、というとちょっと大袈裟だけど、なにかを、丁寧にしようとしているとき、たぶん、こころは自然に、なにかをおもうのかな。だから、流れるときが、自然にいとおしくなるのだろうか。


想うことは、やまのようにある。ぜんぶ書き出したら、それこそ、五月蝿いかもしれない。あるいは、ぜんぶ、ことばにしたら、ちょっと、ガサガサしてしまうところだって、あるやもしれない。大きな岩のようなものがうごくときは、そんなときは、なにか、気配があるものなのだろうか。なににせよ、理屈じゃないって、おもう。だけど、いくら、そうでも、だから、なんでもいい、というわけにもいかないだろうな。なにもないときに、あれこれ、おそれてもしかたがないが、つまりは、そんなふうに、心配と、不安と、そして、どうしても、なしにはできない、期待と…。そんな想いの、なかにいる。(なあんて、書いてると、ひとりでに、涙がでてくるから、ちと、こまるんだな)。


ともあれ。そんなこんなのひびのなかで、ときおり、おもいがけず、おとずれる、ふわふわ~っと、ながれる、そのひととき、ひとときを、たいせつにしたい。ときというのは、ともすると、そんなふうに、知らぬ間に積み重なってもいくもので、きがつくと、そのなかで、ちゃんとなにかがうまれていたりもするのだろうな。りきまずに、でも、たゆまずに、なにかを、そう、なにかを、つづけていくことの、ありがたさ、かけがえのなさ、いとおしさ…。いつも、おなじように流れるときでも、きっと、豊かなそれは、そんな、こころのおもいかた、にあったりするのかもしれない。頑張れる気持ちになれること、それの支えにひとりでになるもの。ずっと、想い続けていきたい。そんな風におもってる。

おやおや、というくらい、眠りました。このひとつき、まるいちにちのオフだったのはいちにち。とはいえ、はんにちオフで、のこりは、家族のせわだけ…、という日も数日あったから、さして、自慢できるものではありませんが。それに、ほんとに“仕事”しているひとからみれば、そんなの当たり前、なことでしょうし。ともあれ。ほおっておくと、8時間でも10時間でも眠りこけられるわたしにしては、それなしで、ほぼひとつき、れんぞくして…、というのは、かなり、いいトレーニングではあったみたいです。忙しいにも、ふたとおりあるのかしらん。ちゃんと、こころがなくなってはいないときのそれは、案外、マラソンの後半、くるしいじきをのりこえての、充実のアル疲労感に包まれているような…、そんな感じに似ていなくもない。そう、感じました。とはいえ、あほかというほど、眠りについて、からだにひろがる、なんともいえない充足感をそこにすると、ああ、やっぱり、ときには、こういうのも必要だなってね。無論、毎日、寝てるだけでは、こういうのは決して訪れないわけですから、メリハリ…(プラスいささかのやせ我慢)、なのですかね。


そんなわけで、冬眠明けのカメのような、心境(こころ具合)で、書いているわけですが。それでも、こころのなかでは、いろいろなことを考えます。いや、勝手に去来する…、というのも含めてですが。これでいいのだ!というおもいと、いや、流れに逆らわないだけで満足するな、折りをみて、一歩踏み出さねばならぬのだぞ!というおもいと…。つまりは、わくわくと、はらはらと。かすかな、不安と、それよりはもうすこしの期待感と。それでも。なにをどうしようと、なにをどう悩もうと、現実の方は、一分の休みもなく、たんたんと流れていくのではあるのだけれど。そのなかで、なにをどう、流し、看過し、なにをどう、受けとめ、闘って!?いくか…。なんてね。そのつど、そんなに、大袈裟に考えて、流れの中にいるわけではないのだけど。それでも、いつも、なにをしているときでも、そんなことは、どこか頭(かな、こころかな)の、片隅にあるよな気はしている。(むずかしいね)。いつもなら、そう書いて、しまうところだけど。むずかしい、という表現も、ちょっと、大雑把すぎるのかな。そうやって、なんとなく、ぼかして、でも、そこにひとつの目印をつける…、ってのもいいけど。あえて、ぼかさず、核心に少しだけ、切り込んでみる、っていうのも、たまにはありだろうか。


それにしても。忙しさの中に身を置くというのは、実はひとつの、救われ(た状態)なのかもしれないと、オヘソ曲がりだけど、少しおもう。余計なことを、悩む暇がない状態にいられるという、安定(しあわせ)という、見方もできるかなってね。むろん、ひとは、いつでも、ないものねだりだから、時間さえあれば、あれができるのに、これもできるのにってね、こころではそうおもったりもするけれど、実は、忙しいときのほうが、メリハリをもって、時間を有効につかえたりもするのだ。そこに流れている時間は太古から変わらぬはずなのに、ひとによって、そのときどきによって、ナイアガラ!?にも、ドナウにもなるのだから。ときに。それでも、見えないなにかを、心配したり、こころをかたむけたりするのは、確かに、すこしだけ、辛抱がいる。どうすることもできないくやしさと、もどかしさと。でも、わすれるなんてできない、ことがら。そんなとき。あしもとをみるのが、つらいからと、ただ、遠くだけをみれば、こころが軽くなる。そう、単純にいえない、もっと、のっぴきならない、状態であるとき。ひとは、どう、こころの軽重とむきあえばいいのだろう。そんなとき、もっとつらいひともいる…、なんて理屈はなんの役にも立たぬ。それどころか、かえってむなしさを増やす。そんな、かりそめの慰めではないことば。あるだろうか。それを、ずっと、かんがえている。

まっすぐにたつのは、ひじょうにむずかしい。いつも、そこにたつたびにおもう。ぴたっと、なにかがきまったときは、自然にからだがうごいて、すっときれいにきまる。うごくまえから、予感がある。うまくいくときと、どうしても、うまくいかないときのちがいはなんなのだろうか。(いいかたがむずかしいが)こんな機会でもないと、いまでは、いつもかつもそこに出かけていきたいとは、おもわないので(ようは、だれといくかなのだ、すべては)。もちろん、れんしゅうなんてしない。れんしゅうはなにか?ととわれれば、つねにいつでも、それがれんしゅうであり、それは、いつも、そこが人生なのだから…。練習ってなんだ?っていいたくなる、わたしは、ちょっとおへそまがりかな。だって、練習して、あんまりうまくいったら、それこそ、ちっともおもしろくないではないか。れんしゅうしないでも、うまくできてこそたのしいのではないか。いや、言い方がちとまずいか。ようは、そうする動作をすることが、たのしいなら、それは、れんしゅうであってもれんしゅうではなく、自らそうしたいたのしい時間なのだから、それなら、そうすればいい。したくないことを、自分にかすのは、こころによくない。しごとではないのだから…。なあんて、おもってるからだめなのかな。


ともあれ。ふとおもう。ティーショットのような、平静さと自信と、こころに漂う感覚(覚悟なのか、ただのつかの間の静謐の味わいなのか…)を、それを、グリーンの上でももつことができたら…。たぶん、これまでにない、感覚が、さらに、ふかい部分(それが醍醐味?チーズを作る過程の第五=醍醐、の状態に、語源があるらしいが)が、味わえるのだろうかなぁ。でも、そうなると、たぶん、ハラハラできなくて、面白さがなくなっちゃったらいやだな、とも、おもうし。ともあれ、いくらでも、姿勢しだいで、目の前のライは難しく出来るし、もとめることを(つまり、飛球の軌跡の多彩さを)、創造していけば、いくらでも、愉しみ方は拡がるのだろうな。ただ、きょうのは、はんぶんしごとみたいなものだから(すみません)、しかたないけど、まるで、渡る世間~の、ドラマそのものみたいな、おばさんの口をてきとーにやりすごしながらの、時間時間は、ほんまにほんまに、ある意味、精神力の究極サーキット、劇厳筋トレ!?みたいで、はなはだ、無駄な労力の浪費(m--m)の、気もしたけど。嫁に行くというのは、きっとこういうことに耐えるということなのだろうなと、おもうと、確かに、心底(先人たちの)偉さにたじろぎもするし、ほんに、毒リンゴをうまく解毒できないまま、おとなになってしまった(約半分の??)おんなたちの、たいへんさをおもいしる、教室、であったとおもえば、まぁ、少しは、面白いけれど…。無論、しごとでなかったら、そんなひとと、休日のたいせつなひとときをともにするのは、確かにゴメンですねぇ。ほんに、いろいろな、にんげがいるのですねぇ。ふ~。


そんなことはともあれ。このごろ、そうやって、かつては、あれほど、しゃかりきにやってたくせに、なのだが、いまでは、その、反動もあってか、ひたすら、のびのびすることをおもいきりたのしむことこそ、いみがある、と、おもってしまうので、いっさい、(冒険の)妥協をしない!ものだから…。(だから、そこで、スコアがすべてとおもってるどこかのババア(おっと失礼!)に、「おや、もったいない!」なんて、軽々しく言われるものなら、カッチ~ン!!となってしまうのだな。それでもなお、そんなひとと、なるたけ関わりたくないものだから、きちんと、スコアで勝つことのないように知らず知らずにまわってしまう、自分のオヘソの曲がり具合に、われながら、ちと、もどかしかったりもするのだけどな。それがスタイルのだから、仕方がない!とも、おもっているのだ。なかなか、たいへんでしょ?^^;)。おっと、また横道にそれてしまいました。ともあれ。そんな風な、感覚になってからというもの、実は、正直、自分で自分が打った、球筋に癒されることが、ある。(手前味噌もいいとこだが)。でも、きっと、そういうことではないのかなぁ。スポーツをするって。違うかなぁ。幾つになっても、こころに正直に、のびのびと、成長できたら…。体力と、こころのちから(つまりは知力?)は、互いに補いあうようになっていくという。つまり、年の熟を重ねていけば、きっと、それまでには、みえていなかったものが、いろいろ見えてくるということなのだろうとおもう。常に、新しい発見がある。そんな、感覚が、わかりあえて、共有できる…、そんなひとと、一緒にいられたら…。そんなことをおもいながら、歩いていた。いや、歩いている。

ときどき、こころにあふれる機微のあれこれを、つれづれなるままに、書いていたいなぁ~。そうおもうのだけれども。どうして、わたしの、時間はいつも、多忙が過ぎるか、多閑が過ぎるかのどちらかなのだろう。ほとほと、中庸とは縁がないのか。ふ~。かなしい。


夜。わけもなく、(いや、わけはちゃんとあるにきまってる)涙があふれる。ことがある。それも、冷静に見つめてみれば、ようは、自分が可愛いということかなぁ~。とおもって、やっぱりちょっとかなしい。なにがどうなったらいいというのだろう(それは、のどから手が出る!?くらい、いいたいこと、願いたいことはあるのだ。意気地がないから、いえないだけで。。。)。ひとは、どこで、なにをしても、どうしても、どうしたって、ときおり、はて、ほんとに、これでいいのだろうか?わたしの人生はほんとうにこれでよかったのか?たぶん、だれしも、そんなことをおもうのだろう。


願いがかなうかいなか、それを想いつづけられるかいなか、それは、こころのつよさ次第なのだろうか。それとも…。運なのだろうか。運とても、これまた、さけられない、あらがえない、うんめいとやらの運なのか?なにかが、少しだけ、足りてないから、かけているから、いまの、このありがたい時間があったりするのではないか。なのに、その不足ばかりをあげつらい、それをなにがなんでもと、願って無理やり形を強いたばっかりに。せっかくのものがなくなってしまったりはしないだろうか。あれこれ、考えてもきりがない。でも、考えないでは生きられない。では、どうしたらいいのだ。適度に、本気で。適度に、テキト~に。いれば、いいのだろうか。ふ~。かなしく、せつない。


かなしく、せつない。ということは、ありがたく、かけがえがない。ということなのだろうか。流れに逆らわない。というのは、ときに、とても繊細で、ときに、とても、厳しく、一瞬の判断がすべてを変える。こともあるのかもしれない。でも、たいていのばあい、それがそのときだったのだ!そう、気が付くのは、あとになってからだったりする。ともあれ。こころの力を抜いて、風のように、穏やかに、どんなときでも、どんな風にも流れに身を任せられる。そう、ありたいと願いながらも、やっぱり、それが、ねがいとはちがうかたちだったら、どうしようかと、ほんとにほんとに、不安でたまらなくなる。やっぱり、なにをおいても、自分の気持が大事なのだろうか。なあんて、つらつら考えていると、疲れているので、あっという間に夜が明けてくる…。ううう。

少しだけ…。いや、少しじゃないか…。このところ、すこし、変化にとんでいて…。もちろん、どれもいい変化だとおもってる。ただ、いろんなことが、いっきにやってきて、というか(いや、わたしが、これまで余りに、時代遅れな空間にいただけだと思うが…)。新しい環境にめぐまれるというのは、いつでも、きっと、いいことのひとつなのだろう。そうおもいたい。ひとはすぐ、向いているとかいないとか…、いろいろ先への目測をつけてからでないと、動けない、というか、動きにくい、ものではあるけれど。ただ、それでも、あえて、そんな風に考えないで、あるがままで、ためしてみる、うけとめる、というのも、おもしろいのかもしれない。とは、おもう。むろん、おもしろい、と、感じられるためには、多少の、タフネス、は、いるのかもしれないけれど。


なにはともあれ。元気でいれば、なんとかなるのかな。いつも、ほんとに、そうおもう。この前は、ふとしたことで、とんでもない、そうどうを(主にこころのなかのだが、むしろ、こっちのほうが、もともと、大きいものであるのかな、とは、おもうけれど)、おこしてしまったのだけれども。そのとき、こころに感じたことや、考えたことは、改めて、自分のおもいを、自分自身で確認できたというか、つまり、とても、意味のある時間だったのかもしれない。むろん、そんな、こと、気楽に言ったら、叱られそうですがm--m。


う~ん。それなのに。どうして、ひとは、いいぇ、わたしは、ときどき、ふとしたこころのくぼみにつまづく。むろん、どれも、小さなものばかりだけど。だけど、ときどき。ほんとに、ときどきだけど。それも、ほんの短い間。涙になぐさめてもらったり。あるいは、うまく、ことばにならない、おもいに、ちょっとだけ、胸がいたむ。それを、どう表せばいいのか…。ほんとに、ひとは、どこまでいっても、ないものねだりなのだろうか。いま、このときだから、このときだから、得られる時間、ありがたさが、そこには、いつも、ちゃんとあるというのにだ。それなのに、ふとしたことで、ちょっとだけ、不安になる。どうしたらいいのだろう?ってね。いや、そうじゃないな。どうするもこうするも、目の前にやってくる流れに逆らわず、そして、いざとなったら、自分の気持ちに正直に。そう、奇麗事じゃなく。そう、いつも、自分には言い聞かせて。でも、やっぱり、不安になって。でも、どうなったら、ほんとにいちばんいいのだろうって、あろうことか、えらそうにも、いろいろ、くよくよ考えて。でも、何食わぬ顔して、平気な顔して、頑張ってる自分を、ときどき、よしよしって、自分でおもったり。つまりは、ほんとに、ちぐはぐで、どうしようもなく、やるせなくて、かなしくて。でも、やっぱり、どうしようもなく、いとおしい(いとおしいのは、自分の事じゃないよ)。そう、おもって、それを、かみしめる。


明日も、ちょとだけ、いいことがあるといいな。そう、願いながら、眠りにつく。そんな、ときのなかにいる。(なあんて。ひとりごとm--m。)おんなは、ことばにたよりすぎるからいけませんね。ついつい、多すぎることばを、書き連ねてしまいます(m--m)。

ものすごくつかれているのに、でも、あとちょっとあとちょっと、おきてたい。そんな夜もある。ふわふわっと、する深夜の、ゆったりしたときのながれが、とてもいとおしくて、もうちょっともうちょっとと、おきててしまう。そんな夜。無論、こころのなかに、うれしい流れがあるのだ。いたいほど、わかる。だから、あまり、ちょうしにのったらだめだよ。うれしがってもだめだよ。そう、じぶんに言い聞かせるのだが。しかし。ほんとに、大事なのは。いまここにあるとき!なのだ。そう、ききではなく、とき。だから、ひとつひとつ、ときをかさねるそのなかにこそ、いつでも、いまのそのなかにも大事な、ひとつひとつがあるんだって、おもえる。そう、おもえるのは、とてもいいことなのじゃないかな。そう、おもう。つまりは、そんなことを、いまこうしているときに、感じられることごとを、ゆっくりじっくり味わっていたいような…。そんな時につつまれる時間のことだ。

なあんて、いうことばが、こころにつもってくるときを、ひとつひとつたいじにできたら…。少しずつだけど、自分を支える何かに、きちんと取り組んでいけたらなぁ。。。。そうおもってる。

たとえば、あのとき。(あのときというのは、雪山で彼を探して駆けずり回った夜のことだが)。どうして、わたしは大声をだせなかったのか?武道館の裏山なんて、家があるわけでなし、いくら深夜でも、いくらでも出せたはずだ。確かに、老いた彼の耳は遠かった。ほとんど見えてないらしい目ほどにではないにせよ、それでも衰えていた。だから、耳よりも、まだ充分働くはずの、鼻に訴えるべく、そこらじゅうに、わたしの足跡を、つまり匂いをつけたほうが…。しかし、それでは、もし、動けなくなっていたとしたら…。やはり、声で呼ぶべきだった。のだろう。でも、あのとき、どうしてもそれが出来なかったのは、あの期に及んで、自分自身の羞恥心か?それとも、こころのどこかに、もし、彼が自ら望んだのなら、そしてまた、彼女がそうしたいとおもってそうしたのなら、もし仮に、見つかっても、今までと同じ暮らしはできないのではないか?いますぐ、わたしがここに戻って、彼の面倒をみられるのか?それはつまり、彼女との同居を意味するんだぞ?それに耐えられるのか
?…。はたして、そのとき、そこまで周到に考えたかどうか…。さだかではないが、いまこうして、ことばになるということは、あながち間違ってはいまい。つまりは、こころのどこかで、やっぱり自分のことが大事だったというわけだ。情けなく、どうしようもなく、哀しいが、それもまた事実なのだろう。

だから、いま、何を言いたいわけでもないのだが。しかし、あのとき、声を出せなかった後悔は、何年たったいまでも、こうして、ずっとこころのどこかに、わだかまりとして残っている。ただの自己憐憫だと、言われたらそうかもしれないが。ときに。なにかをした後悔よりも、しなかった後悔の方が、あとに大きく残るとひとはいう。それは、ときと場合による。例としてはふさわしくないが、わたしにとってのゴルフは、それだ。あのとき、ほんとうに、ゴルフを選択したのが正しかったのか?それと引き換えに失ったもののほうが、ずっと大きかった気もして、それはとても大きい後悔になった(ときもあった)。いや、いまだに、どっちがよかったかなんて、正直わからない。無論、いま確かに、ゴルフのお陰で、救われていること、助けられていることもたくさんある。だけど…、というのは、これは、永遠に続くだろうと、正直おもう。ちょっと大袈裟だけど。どこを、どう生きても、あるいはどの道を通っても、恐らく、後悔や苦労は、それぞれにあるのだろうというのは、わかる
。ときに、ひとは、ともすると、二者択一を自らに無理やり課してしまう。無論、その通りのときもあれば、実際には、それ以外の道がある場合だってあるだろう。あるいは、こころが弱ると、あらゆる可能性に目を開くゆとりがもてずに、目の前にたった二つきりの道をつくって、急いで答えをほしがってしまうのかもしれない。

どんなかたちでも受け容れる!そう、自分に言い聞かせつつも…、どっちの場合でも大丈夫!という、こころを作るのは、正直、むずかしい。おもいがとげられなかったときに、こころが死んでしまわぬように…、そっちの予防にばかりちからを、入れてしまうと、肝心の、願いを祈る方のこころがよわくなってしまう。かといって、ひたすら、何が何でも…、となると、周りが見えなくなるし。でも、それぐらいでないと、ほんとうの願いは叶わぬ。そういうひともある。すると、こんどは、守りのこころがすっかりおろそかになって…。ふとしたことで、くじけてしまう…。…。なあんて。そんな風に、考えてしまうこと自体、わたし自身の、よくであり、勝手であり、なんとかして自分を守らねば…、そんな弱さのあかしなんだろうなって、おもいます。自分の気持ちを、うまく(コントロールということばはつかいたくないぞ)~、なんでしょう、そう、うまくつきあって、どんなときでも、それでもなお、愉しみ、自分自身を眺めるゆとりのようなものを、もっていられたらいいのだけど
…。ひとは、ひとと、気持ちをぶつけあったり、話し合ったり、そうやって、交流が、空気の交歓があってはじめて、進歩したり、成長したり、あるいは、癒されたりするものであろうし。それでもなお、日々、目の前にあらわれる、いろいろな感情と折り合ったり、向き合ったり…。無論、それでいいのだ!ってね。おもうのだけど。ときどき、自分ではない、だれかに、こころからそう言ってほしいよぉ~、そうおもってしまうこともあるんだな。
ときどき、彼のことを思い出す。そう、17年間、ずっとわたしの帰りを待っていた相棒のことだが…。思えば、不思議な縁だった。なんでも、5歳ぐらいの少年がその母親らしき人と一緒に、彼を海辺に連れてきて…、そのまま彼はそこに置き去りになった。そう、捨てられたのだ。たぶん、小さな彼を拾ってきた少年は、恐らく大人たちを説得することができずに…。だから、もしかすると、彼は二度捨てられた…のだったのかもしれない。ともあれ。数日間、当時、わが母がアルバイトしていた海辺のホテルのそばで、放浪していた。春だった。どこにも属することができずに、もがいている苦しい時期だった。二度目の受験にも失敗し、残りあと一年。もう一年だけ頑張ると、宣言したはいいが、どこにも保証などなく、それでも頑張るしかない…と、必死で(こころの)格闘をしている…そんな春に、彼は我が家にやってきた。ある日、突然。

生きもの嫌いの母が、自転車の前籠に彼をのっけて…。「ほら、起きなさい。あんたほしいっていってたやろ…」。昼夜逆転の毎日で、すっかり眠りこけてたわたしの耳を、そんな声が、目を醒ませたのだった。そういえば。ちょうど、一年後、幸運にも思い通り念願だったところに受かり、家を離れた。就職し、殆ど休みのとれない時期もあった。年に数回帰られたらいいほう…、というのも。その後、家族の高齢もあって、月に一度は必ず帰る、そんな生活になった。ともあれ。彼が居る。彼が待っていてくれる。今からおもうと、それは、とても大きなことだったのだろう。夕方、決まった時間になると、こちらの都合などお構いなしに、外出をねだる…、そのことにちょっとストレスを感じることがあったとしても、一歩外へ踏み出すと、それは吹き飛んで…。一緒に歩くよろこびと、ほかの誰にも邪魔されない、ペースと空間を愉しめる、その時間はいつも、かけがえのないものだった。

そんな彼は、ある日突然、いなくなった。まるで、風のようにやってきたのと同じように…。まるで、自分のさいごを悟ったのか、それとも、共に暮らす彼女の忍耐の限界を見極めたのか…、まるで自ら、身を引いてしまったかのように…。消えた。これは、だれにも信じてもらえそうにないけど、さいごに彼と共にいたとき、確かに彼は言ったのだ。「もうすぐさよならだね」ってね。可笑しいでしょ?いつも、彼とはいろんな会話はしてたけど、こんな風に、確かなことばを(文章を)感じたのは初めてだったし、私自身その時は、なんでいまこんなこと言うのだろうって思った。まさか、ほんとうに、その次にわたしが戻るその前夜に、大雪の中…いなくなってしまおうとは…。彼女にしてみれば、面白くなかったのだろう。いつも、ご飯を作って、散歩にもいって、世話をしている(という感覚だったのだろうな)のは自分なのに、わたしが帰ってきたら、彼の気持ちは圧倒的にわたしの方に…(勝手な憶測だけど、たぶん、そんな哀しさは確かにあったとおもう)。実際、彼は、彼女に気
を遣って(彼女の前では、わたしの膝の上には乗らない!)そんな、まるでひとみたいな配慮をするのだったから…。

いつかも書いたかえるくんの話は、彼がいなくなった次の初夏、来る日も来る日も、散歩に行くときいつもわたしが顔を出す、勝手口のドアのところにしがみついてた…、かえるくんに遭遇して…というのだが。以来、庭の草取りをして足元ではねるかえるくんも、家の大掃除をしてるとときどき顔をだすヤモリ君も、あるいは、このごろは、毎朝、まるでわたしを起こすかのように庭でなく、ヤマバトくんも…。つまりは、そばにやってくるのは、みな彼の(生まれ変わり)のような気がしてね…。つまりは、いとおしさ。

そして、このごろになって、ようやく気が付いた。わたしは、家を離れてた間、決して、いやいや家事に戻っていたわけではないけれど。彼がいたから、そう、まっていてくれる彼がいたから、当たり前のように帰ってこられていたのではないか。家というのは、ただそこにある土と建物のことだけではなくて、そこに居る誰か…、のことをいうのではないか。だから、彼が、突然いなくなったとき、真夜中の、大雪の中、大声も出せず、ただ、なんとか、わたしの匂いで目を醒まし、どうか戻ってきてくれ!、そうこころで叫びながら、ひとばんじゅう歩き回った、あのときの、あの身を削られるようなおもいは…、ひょっとしたら、これで、帰りたい場所がなくなってしまうことへの、どうしようもない哀しみだったのではないか。そう、家というのは、帰りたい場所、共にいたいとおもえるもののある場所のことなのだろう。だから、どんなに忙しくてもがんばれるのではないか。いや、むしろ、あえて忙しいところに身をおきたいとさえ思えるのではないか。ほんの少しでも、こころから寛
げる時間があるからこそ、どちらの時間も充実させることができるんだ…というような…。そう、想いは尽きない…。