人生の優先順位…。そう!あなたもわたしも、ほんとうに、必要なのは、こころのこえに向き合うこと。どうせ…だから、そう、思い込んで、こころにふたをしてしまわないこと。常になにかを、我慢しなきゃいけない、そうすることはいいことだと、思い込みすぎてる。のかもしれない。いまさら、なにをどうあがいたって…。あるいは、これまで、せっかく重ねた時間(のおかげで、)手にした、この(まぁ、なんとかこれからも、我慢していけるであろう、)居場所を手放すことへの躊躇い。なにかを、失うことへのおそれ…。そんなこんなで、ひとは、ひとまず、たいへんなことには、めをつぶって生きる。それで、なんとか、なるならば、そのほうが、ずっと、賢い。そう、それは、間違いない。だから、みんなそうしている。
もんだいは、なにか、そのもんだいが、目に付くのは、そのときどきの、受け手のこころのありようを、半分は、受けてもいるので、(つまりは、大なり小なり鏡なので)、結局、やっきになって、なにかを取り除こうとすると、ちゃんとしっかり、もっと別のもんだいが目の前に立ちあらわれてくる。そのうち、どこで、てをうつか、まぁ、このへんなら、我慢できるぜ、というところで、(賢く)あきらめて、いるほうが、ずっと、楽だし、それいじょうの、厄介ごとにも巻き込まれなくなる。だから、むきにならないことだ。いま、あらわれているもんだいは、たんなる、何かの象徴や、表層や、あるいは、ほんのささいなさかむげにすぎない。たいてい、ことの本質は、もっと深いところに隠れている。ところが、それを、掘り起こすと成ると、へたをすると、一生かかるかもしれない、とんでもない、ところまで、根が伸びているかもしれない。だから、そこそこのところで、観なかったことにする。これが、懸命だ。いや、賢明だ。
そう。ことの本質は、火をみるよりで…。こと、おんなという生きものにとって、(いや、ひょっとしたら、みんなそうなのかな、とも、おもうけど)、なにが、それといって、愛する家族をおもって、その帰りを待って、こころ静かに暮らせたら、どんなにしあわせか。ところが。おおきな、問題がある。いまやってるドラマではないが。ほんとうに、好きな人というのは、ほんとにほんとに、稀有なのだ。一生でひとり、出会えるだけで、それはたぶん、それだけで、なにをおいても、がまんしなきゃいけないくらいの一大事。もちろん、すべてのひとが、生まれてなくなるまでの間に、めぐりあえない(ようだ)。ほんの、一部だとか。たぶんね。実際、みてても、そうおもう。だから、(そう)わかってるひとは、実に、美しく振舞うし、実際、見ていて、その空気が立ち居振る舞いから滲み出ている。だから、イライラも、そわそわも、滅多にしないのじゃないだろうか。だから、ひとのことが気になってしかたないような、そんなひとたちからの、余計な(お世話)に、遭わないためにも、実に、智慧をこらして、暮らしている(のだろうな)。そう、おもう。ほんとに、やっかいごと、だらけだけど、こころから、想えるひとがあるというだけで、たいがいのことは、たいしたことではなくなるから、想いとは、想える(ひとがあるということは)、ほんに、それだけで、生まれてきた甲斐があったと、おもわねばいけないのだろうな。
だけどね。空気だけ吸っては、生きてはいませぬしねぇ。結局、かなしきかな、ひとの歴史とは、つまりは、それらも、無論、含めて、それぞれの、居場所の確保闘争であり、闘わずしてなにかを得ようなどと、考えてはいけないのだろうな。闘うのがいやなら、いいひとで、ずっといたいなら、何も文句いわずに、これまでと同じ事を、繰り返し、たとえば、わたしなどは、ぼけ~っと、していても、ひとまず、(逃げ)帰れる家があるのは、(先祖が、恐らく、闘いの末に)手にしてくれた、土地があるから…。であり。そう、考えると、なにをどうしても、しぬまでの辛抱、であるのは、変わらぬにしても、なにかを、あきらめて、時間が過ぎるのを待つのも、これ、ひとつの、立派な覚悟かもしれぬし、それはそれで、誰にも知れずとも、とても立派な生き方であるし、我慢することのほうが、ずっと、美しいような気もして、(だから、いけないのかな)・。結局、思考は、堂々巡りを繰返す。歴史と一緒なのか?奪えばかならず、いつかは、逆の立場になる。時間の順序には逆らえない。もし、強引に、それに挑むのなら、それとなにかを引き換えにする覚悟がいるのだろう。つまりは。どう、どう、あがいても、やっぱり、どちらも、闘いなのだ。こころのなかの、それか、目に見える、だkれかを、打ちのめすか…。いや、ことばが過ぎたが、ともあれ。ことばを、ひたすら、吐き出すことで、どうにも、できない、こころの苦しみ(いや、これは、まぎれもなくしあわせなことでもあるのだぞ)に、少しでも、寄り添うことができないものかと…、ひたすら、独り相撲、なのかなぁ…。ああ、おとこも、きっとたいへんだけど、おんなも、たいへんなのだ。なんだかね。もんだいが、いちどに、解決する、魔法の薬でもあるといいのにね。
やっぱり、なにを、どうしても、常に、なにかから、逃げていることになるし、(それが、わるいわけじゃない)片方をとれば、片方にしわよせがいくのがあたりまえだし。りょうほうとれるくらいなら、せんそうはおこらないし。そうやって、あくせんくとうするうちに、いつしか、じんせいのおわりがきて。つまりは、なあんだ、けっきょく、どれも、時間つぶしだったのかぁ~。あ~あ、おもしろかった。それでも、わたしは、うまれてきてよかった。そうおもえて、いけたら、それだけで、しあわせなのだろうなぁ。そして、なにをおいても、たいへんなのは、その、時間つぶしだ。忙しさにまぎれるもよし、ひたすら、なにかをおいかけるもよし。だったら、ひとを想ってくろうしたいね。なあんて、いってしまうと、ひにくがすぎて、むなしくなるかなぁ。かなしいね。いつかなくなる時間なのに、どうして、こうも、たいへんなのでしょうね。この20年、それでも、なんとか、ごまかしてこられたみたいに、あと20年辛抱して、そうこうするうちに、おんなには期限があるから、そのうち、そんなに、悩まなくなって、あるいは、なんだろう、うまく、時間の過ぎるのを誤魔化す術でも生み出せるかなぁ~。そしたら、さらに、あと20年、そのころには、少しぐらい、ここにいてもいいのだと、感じられる居場所とやらに、出合えるのだろうか。そのころになって、ようやく、ほんきでやりたいことが、目の前にあらわれても、そして、なにも、邪魔するものや遮るものがなくなっていても、こんどは、元気がなくて、あ~、あのとき、出合えていたらなぁ~、なんて、愚にもつかない、うらみごとを言って、また、なにかを、あきらめるお膳立てをしてしまうのだろうかなぁ。できるなら、さいごの5年でも、10年でもいいから、こころのままに、思う存分、想いをかなえてみたいね。夢は、かなわないから、輝きつづけていられるのかなぁ~。だとしたら、やっぱり、かなしいね。(ただ、こころをすこしでも、おちつかせたくて、書いたのだけど、結局、だれかに、つらいおもいをさせるような、書き方になってしまっているように、おもいます。ごめんなさい)。