ときどき、歴史を振り返ってみたくなるのはどうしてだろう?あのときは、そう、あ~だったよねぇ。だから、そう、もし、あのタイミングがほんの少しずれていたらば、いまごろ、いったいどうしていたのかしら…。なんてね。もちろん、ひとというのは、まことに都合のいいもので、そのときどきの、自分の気分に合った(つまり、自分がひっぱりだしたいとおもうところの)、かつての光景の部分部分を、脳の映写機に写してみては、すこしだけ、しあわせな気分に浸ってみたり、あるいは、かなしみのなかに、なにかを探し出そうと、してみたり…、するものなのだろうか。


あるひとが、そのコラム(とうか、正確にはえっと、悩み相談でしょうか?つまりは、生き方の矜持なのでしょうか)で。ひとがひとを救うことなんてできないのだと、でも、ひとがひとと一緒に闘うことはできるんだって。深く、沁みました。こころに。ほんとに、そうおもいます。かたほうが、かたほうをひたすら支えるんだっていうのとは、たぶんやっぱり違うとおもうし。いろんなときがあって、いろんな部分があって、それがひとなんだし。塩野さんだって、この世に善と悪があるけれど、おなじひとのなかにも、みなそれぞれがあるんだって。そんな、当たり前のことを、でも、そうやって、ちゃんとことばにしてくれるひとがあってはじめて、ひとは、ちゃんと、当たり前のことをうけとめたり、あるいは、それでいいんだって教えられて、安堵したり…(するのでないかなぁ…)。思いや考えを言葉にするということの、たいせつが、ふかく、身に沁みる…、一週間でした。


夢は、ゆめは、かならずしも、早くかなえるためだけにあるのではない、のではないか?このごろ、ふと、そんなふうに、おもうことがある。もちろん、かなうにこしたことはないが、それに、いきとしいけるものの残り時間をおもえば、いつもいつも悠長ばかりでもいられない…、というのも、確かに道理ではあるけれど。それでもなお、なるたけ、時間をかけてもかなえたい、なにかがあるというのは、一見、自ら苦労の嵐の中に好んで入っていくように見えて、実は、気付けば、それぞれのものが生きた証のような…、そんななにものかに、もしかしたらいつか出逢えるのではないか…。そんな生き方からしか、出逢えなかった(そしてこれから出逢える)ものもあるのではないか。だれしも、自分の経験しないもの、想像の範囲を超えたものは、簡単には、評価したり、できないものであろうし。ひとは、ともすると、知らないもの、自分が関われないものを、はなから、受け付けない…、そんなところがあるけれど。だから、ひとの感覚を気にしているだけでは、気付けないもの…。そん
なものがあるのではなかろうか。(むろん、なあんていうのも、かくなるわたしの感覚を、自分自身で精一杯励ましているのではあるけれど…^^;)。


気骨について、話された、城山さんとの対話のなかに、ほんとに、胸を打つ幾つものフレーズがあって。これまた、このタイミングで、ふと、目に飛び込んできたことに、縁にもにた、奇遇を少し驚いてもいる。城山さんというと、祈りの旅路を描いたあの物語を、どうしても思い出さずにはいられないけれど。不思議なことは、確かに起こる。だれにも説明のできないような、そんな…。(もしかしたら、物語というのは、それに気付けるかどうかで、実は、いつでもそこに、あるのかもしれない。もちろん、だれのそばにも…)。不思議な流れと、不思議な縁で、その神社に行ったのだった。友のふたりがお払いを受けるのに、社殿に行っている間、(まぁ、お払いしてもらう余裕がなかったのもあったけど、ひとりで、境内で佇みたい、それもあった)、どこをどう歩くでもなく…、いや、ほとんどひとりになった途端、といってもいい。気付くと目の前に、それはそれは大きなへびさんがね、いたんです。境内の片隅の、大きな杉の近くでした。それも、突然に現れたみたいに足元に居て…
。それなのに、その刹那、なぜか、ほんとになぜか、「おや」っとおもっただけで、全くびっくりしてない自分に自分で驚いてた。


いつかの、かえるくんではないが、これまたサムの化身とおもったような…、そうでもないような。まるで、一緒にここにやってきて、身内としてそこにいるような…、そんな感覚。それでも、その時点では、なんともおもっておらず。しばらく、その杉の木陰に向って一緒に歩くような恰好になって、わたしがそのまま、境内の境をこえて、せせらぎの聞こえるほうに足を向けると、へびさんは、杉の根元で立ち止まり、じっ~と、わたしを見送るような恰好になった。それも、見詰め合ったまま…。思えば、へびさんと目を合わせることなんてこれまであったっけ。それでもまだ、なあんにもおもってないわたし。なにしろ、3日近く眠っておらず、すっかり疲労困憊してたんだろうな。どこか、夢の中のようでもあったから。その出来事を、ほんの少し、落ち着いて振り返ることができたのは、少し経ってから。帰って、しばらくぶりに少し眠って…。そして、翌日、まるで、憑き物がおちたみたいに、それまで堅かった部分がこころなしか柔らかくなって…。そして、それが、実際になんで
もないとわかって…。あのときもし、へびさんに出逢えてなかったら、もしかして、堅いまま…、黒い画像になって現れていたのだろうか…。なああんて、おもうけど、まんざら、ありえないことでもないのかもしれないとも、おもって、ひとり、深く、沁み入った…。そんな出来事だった。やっぱりひとは、みえないなにか、みえないだれかにたくさん助けられて、いるのかもしれない。好調なときは、そんなこと、みじんも思い出せたりしないけれど…。


エリックさんの、wonderful tonightを聴くと、なんだか、むしょ~に、煙草を吸ってみたくなる…。あれは、どうしてでしょうね。(もっとも、ほんとの愉しみはできるだけ、しないであとにとっておきたい、オヘソ曲がりのわたしは、ほんとにほんとに、よほどでないと吸ったりしませんが。というより、いや、呑みたいときには、いつもとうの、昔に封を切った箱しかなくて…。たいていはあきらめるのだけど…)。たまには、ここらで、ほんとにしたいことから、躊躇わないで、一歩を踏み出してみようかなぁ。蛇さんは、そんなことも、教えてくれた。そんな気もする。
ときどき、「あ~、そうかぁ」と、深く納得させられたり、「ああ、わたしがほんとにしたいのはなんだ?」と、真剣に考えさせられたり、そうして、気付かされることに、であう、でくわす…ことがあります。そのときどきは、その(起こったことの)意味を、冷静にとらたりすることはなかなかできないけれど。でも、その都度その都度、悩みあるいは悔やみもあったりし、あるいは、葛藤し、あるいはあるいは、案外けろりと、自分でも驚くほどはっきり決断したり…、ともあれ、つまりは、真剣であればあるほど、ひとは悩み、そして葛藤もするものなのだと、このごろ少しわかってきた。そんな気がします。そして、少しして、それらのことを振り返ってみると、やっぱり、どれにも、それなりに意味があって、あるいは、暗示が、あるいは、答えのヒントだったり、流れの中のたいせつなポイントであったり…するのかもしれない。 と、思います。

とすると、それぞれで(つまりは、いつでも)かみさまにためされている、といえるのかもしれないし。ただ、いつも、考えたりイメージしたりしていないことは、いざというときに、なかなかできないのだろうな。だから、いつもいつも、何かをおそれたり杞憂にばかり振り回されるというのでもなくて…。常に、最善を尽くす…というか…。それにしても、ほんとにほんとに、いささか、盛りだくさんな内容がやってきていますね。たぶん、それだけ、人生の中でも、おおきなことなのかもしれない…、というおもいはしています。いま、このタイミングで、このことが起こった理由は…?それを、考えすぎてもいけないけれど、なにごとも、なにかの流れのなかにあることをおもうと、たとえば仮にもし(一時的に)よからぬことが起こったとしても、すぐに「~すればよかったぁ」(こう考えてしまうと、どこまでも後ろ向き思考につぶされてしまうから)、とおもうのではなくて、だから、次はなにが必要なのか…?なあんて、考えられるといいなと、おもいます。もちろん、そのことを
、~ねばならぬ、としてしまっても、また、こころをしばってしまいかねないので、常に、フリーで機動力のある部分はこころに、いつも残しておくとして…。

ふ~。それにしても、確かに、このところ、こころは、ほんとにほんとに大忙し!ですね。まいにち、はて、きのうはどんな日だったけ~?というくらい。ふと、耳にした面白い話がありました。なにか、特別な危機が訪れたときに、たいてい人はあわててブレーキを踏んでしまうものですが。それもおもいっきり。だが、そうすると、タイヤは余計に空をきり、スリップの度合いはますますひどくなり、ついにはがけ底にさえおちてしまいかねないのだけれど、そこで、いのちをまもるために、必要なのは、アクセルを踏むことなのだそうだ。なるほど。確かに一理あるとおもいながら聴いていた。なるほど~、と。もちろん、平時に、安全走行中に、むやみに、アクセルをふかせばいいというのではなく。適度なブレーキはもちろん大切です。余計なリスクを迎えないためにも。しかし、ほんとうの大事は、案外、そんな、いざというときの、その一瞬の判断、なのかもしれませんね。つまりは、勇気…、なのですかね。それが、いつ、なのかは、そのときどきに、勘と感覚を信じて(判断を)
していくしかないのだろうな。若い友のひとりに、一歩踏み出すのに、勇気がいるのは、結果が怖くてそれだけ慎重になってしまうのは、(今からしようとしていることが)それだけ、本気なことだからだ…、そういわれて、なるほど…、と、素直にうなずいた。そして、本気で取り組むことが目前にあるのとないのとでは、それ以外のことを取り組む姿勢だって、全然変わってくるのだと。そうかもね。

どこにあっても、どこにいても、教えられることはたくさんあります。その都度、じぶんのこころと対話するときも…。そして、それでも時間のかずだけ、可能性も…。どんなときでも、そう、おもいたいものです。なにか(小さなことも含めて)あるたびに、想いはたしかに深まっていきます。伝えるって、たいせつですね。
ピンチのあとにはなんとかで、チャンスのあとにはなんとかで…。そういえるのは、ピンチが、ある程度なんとかなったときであって、そうでないときに、そんなことばは、ちっとも慰めなんかになってくれない。それどころか、わるいことがおこるたびに、こころのどこかで、よ~し、これで、あとでやってくるいいことが、きっと倍になったぞ!!なんて、おもったりしてしまっている、自分が、いっぽうで、とんだばかやろーだともおもう。つまりは、こころは、ちりぢりになるのだ。でも、ともあれ、結局、何をいわれよーと、ほんとにしんどいときは、どんなことでも、そうおもうことで、少しでもこころが元気を回復できるなら、それでいいじゃないか、ひとまず、そのあとのことなんて、おいておかないと、目の前のことに立ち向かえるかぁ~、なあんて、おもってしまうのだ。

こんなときでもまだ、どこかで、やせ我慢して、必死で、少しでもつらいおもいを、周りに伝染させまいとして、よ~し、わたしえらいぞ~って、おもってる自分が、ほんとにばかやろーだっておもうよ。ほんと。ほんとに、ばかみたいだって、わかるけど、でも、かんたんに(ことの道理?を)わかってやるもんかぁ~って、も、おもうんだな。おんなは、こうして、なにかあるたびに、こころおきなく、ことばにして、こっそり泣いちゃうことで、いくらかでも、胸に詰まったなにかを、軽くできるもんね。(ほら、まだ、がんばろうとしているのが、ああばかってね。)ともあれ、想いは、ときに、回転木馬みたいにかなしくて(すぐそばにいても、決して追いつくことのない間隔でしょ?)、そして、まるで、ミックスジュースを作るミキサーのなかみたいに、(こころを)かき回せばまわすほど、ぐちゃぐちゃになってしまう…。ひどいたとえだね。

それでも、ひとには、いきるささえみたいなものが、やっぱり確かに必要で。それは、ときとして、目に見るものより、目に見えないものであるからこそ、なにものにも代えがたい支えになり、誇りにもなる。しかし、同時に、背にハラはかえられぬで、目に見える基盤があって、はじめて具体的な生活が進む…、のも、また然りだ。だから、その両方を同じくらい充実して得ることは、たぶん、そりゃあ。かみさまが、やきもちやいてだめでしょう?って、ことになるのかなぁ。わからんけど。ひとは、仮にはたからみて、どんな風に見えたとしても、それぞれに、どうしようもないジレンマや葛藤を抱えている(のだろう。たぶんね)。だから、かんたんに、評価することなんて、とてもできない。けれども、それが(つまりは壁が)、多少なりとも…あるから…、ときに、踏ん張ったり、歯を食いしばったりできるのも、事実(じじつってことばは、なんだか、これいじょう何もいえない…って、響きになってちょっとやだね。つかっておいて言うのもなんだけど)。

やっぱり、いいことも、そうでないことも、いずれにしても、しばらくそれを忘れる時間…、っていうのは、たいせつなんだろね。ほんのつかの間、ほかのことに気をとられていることで、悩みをいったん、こころから解放できる。それは、逃げるってんじゃなくて、たぶん、ちょっと、やすませとくって感じで。ものは、とりようだ。どうしようもないかなしさだって、こころに鍵をかけて、自分勝手の芽をつかの間無理やり大きくすれば、それはそれで、自由なんだから、まだ、あらゆる可能性があるんだから…、って、自分のこころを誤魔化す(だけじゃないかもしれない。これは、究極自分自身でも分からないのかもしれない。表層神経は、そんな慰めなんか、なんのたしにもなんないや~いって、おもってはいるけど。)ことができる…か…も、しれないし。願いは、それが大きければ大きいほど、あんまり願いすぎてはいけないのかもしれない。なあんて、やっぱり苦しいときの神頼みなのかもしれません。これは、どうしようもない事実!なんだろな。うう。やっぱり、どっちに
しても、すこし、いや、すこしいじょうに、つらいね(ここでも、すこしっていうのは、いっぱいっていう意味になってしまいます~)。

進むもなんとか、とどまるもなんとか?
持久戦なんていやだけど~、それのない人生なんてどこにもないよね
がんばってみる?
あと少し…

案外、ほんとうの大事は、ほんの一秒、あるいは、ほんの小さなきっかけで、コタエがすっかり変わってしまうのかもしれないね
無論、やっぱり健康でいないと何も始まらないし…
たぶんね

あ~、どうしよう?
そういえば、4年前の夏は、家の中を隅からすみまで、大掃除。それに明け暮れたのだった。ちょうど3ヶ月かけて。主の入院で、外で暮らす16年来の相棒とのふたりぐらし…。あれは、あれで、とても貴重なときだった。毎日夕方の散歩…。いつでも、いけるから…、と、結局、彼の大好きな海辺にはいちどもいかなかった。そのうちね、まぁ、いまは暑いから…、なあんて言い訳して…。夏の夜の、町を挙げてのイベント(踊り)会場にも…、こんど行こうね…、なあんて言いながら…。その日々の済んだ3ヵ月後。大雪の降る前夜…、彼はだれにも姿を見せず…、風のように去っていったのだった。戻った主に、これ以上(散歩の)迷惑をかけまいと、でもするかのように…。まるで、動物版『阿寒に果つ』のようで、涙がとまらなかった。そうだ。17年間の最初と最後の夏を、一緒に過ごしたことになる。奇しくも。あのとき、いつでもまた行けるとおもった、すぐそこの海が、もう二度(一緒に行くこ)とないのを…、どんなにせつなく、どんなにやるせなくおもったか。ふと、おも
いだしました。

まぁ、感傷はこのくらいで。ともあれ、ひとは、ともすると、たとえどんなときでも、まったく変わらないペースで流れる時の流れの中にあって。でも、ときおり、カミナリにでも打たれたかのように、がーんと、目を醒まされるような、おもいに、身をつまされる。そんなときがある。ああ。いままで、なんて、贅沢なことで、くよくよしていたのだろう…ってね。そんなことどうだっていいじゃないか。ほんとに、時間がまぎれもなく、有限なのだと、いたいほど、感じたとき、つまり、そんなちからをもって感じられる出来事に遭遇したとき、ひとは、やっと、ほんの少し、目が覚める…、のかもしれませんねぇ。要は、おなじことが起こっても、それをどうとらえるかで、無論、ひとによって、自ずと違ってはしまうのかもしれませんが。自分のちからでは、どうにもすることのできない、ものが、時折やってくる。それは、ほんに、天災みたいなものなのかもしれない、とはおもう。変化はときに、ひとを勇気付けたり、一途に進むことの大切さを改めて教えてくれたり…、するものらし
いですね。ひとまず、そうとらえることにしたいです。

それにしてもねぇ…。なんでしょねぇ。う~ん。もし、ただの偶然だけではないとしたら…、やっぱり天運というか…。いやいや、食事のたいせつさを、改めて反省しました。う~ん。ただ、空腹時間を長く保つのは、実はとてもいいことのようですが…。幾つになっても、成長ホルモンがでるとかで…。いかに。まぁ、そのことを、よくする契機になれるだろう、そう、とらえるのは、それはそれでいいとして。あの夏、あんなにしみじみ、いろんなことを教わったのに、また、何もないのが当たり前…、になってたんだな。なにかがあって、はじめて気付くのだ、いつも。少し、情けないけど、でも、こうやっていろんなことを一気に考えさせられる契機。ふ~。いやはや、ひとさわがせというか…、じぶんさわがせというか…、はらんばんじょう(といのは、このごろは、それもあたりまえのいちぶのような感じもしているのがかなしい気もしますが…)なのですかねぇ。さすがに、きょうは、だじゃれがなかなか浮かびませぬ…。自分では、とてもとても冷静なつもりなのですが…、やはり
いささかそうなんですかねぇ。むむむ。
たとえば、さじ加減と目分量。このことは、おそらく、ひとが生きてく道の中で(ちょっと大袈裟だけど)、そのおりおりに、案外とてもおおきなものなのかもしれない。つまり、おなじように時の流れを(消費する)中にあっても、ふとしたなにかに、きづけるのとそうでないひととと…。そのちいさなひとつひとつの積み重ねが、いつしか、おおきな違いになってしまうように…。いつでも、どこでも、なにかに気付ける、というのは、とてもおおきなことなのかもしれない。で、なにが匙加減(些事甘言ではないですよ)で、目分量かというと…。文字通り、料理の局面だけでなくて…。日ごろの生活の中で、ものをどんなふうに扱い、どんなふうに接しているか…、といったような…。まぁ、そんなこと。つまり、たぶんだけど、料理が上手な人(というより、自然に美味しいものができるひと=まぁ。愛にあふれたひと!という意味でもあるけどね。ともあれ)というのは、それらの、加減がいいかげん(いい加減というのは、良い按配といういみに通じるのではないかなぁ。)なのだろ
う。たとえば。偶然にまかせる裁量とか、ゆとりもあるといったような…。まぁ、見方を変えれば確かに文字通りのいい加減(大雑把)ということにもなりかねないけど。でも、なんというか、余所行きの、ここにはないだれかの指標(それもそのひとが勝手に作っているものだが)、体裁を整えることにばかり、気をとられるのではなくて、要所要所で、自分の感覚を信じてものを行うというような…。

そんなことを、いつものようにホットケーキを焼きながら、ふとつらつらと考えていた。なんというか、勘どころというか、つまりは、感性のようなもの。たとえば、材料の分量加減や、火加減や、そして、焼く時間の感覚…。のようなもの。ゴルフで言うと、打った瞬間に、飛んだボールがどんな回転で、どこへ着地するかが、ある程度イメージできるような、(無論、打つ前に理想の形をちゃんとイメージしているわけだけど。かりに、そのとおりかなくても、その現実から目をそむけるのではなくて、どこにどんな風に飛んでいくかを、ちゃんと見届けることができる能力、というか、才覚というか…。まぁ、大袈裟に書いてるけどね)つまり、そういう感覚と、ふれあうことができるというような…。なあんて。要するに、なんとなく、感覚でホットケーキの焼き具合がイメージできるって、案外なにごとにも、通じるところがあるんじゃないかなぁ…。って、ちょっと大袈裟に考えてみただけなのだけど。そして、ひとは、だれと一緒にいるかで、たぶん、おそらく、(運)気も全然違っ
てくるのだろうなって。たとえ、何かと割り切って、さして、こころを開かずにいたとしても。やっぱり、同じ食事をしたりするうちに、互いの影響は受けるだろうし。いや、だから、いいとかわるいとか、そういうことではなくって。積み重ねた時間は決して、無ではないのだろう。だが、しかし、同時にいえるのは、これから先にやって来る時間も、それとおなじくらい、いやたぶん、それ以上に大きいのかもしれないね。ひとはとかく、そのことを、うっかり忘れてしまうけれども。

たとえば、道を走っていて、空いているところに合流し、でも、その先の信号が赤だから、あえてさほどアクセルは踏まず、そろそろと、信号待ちにの列につく。ありふれた光景だが、それでも、後ろからその車に近づいてくる車の中には、前に入ってきた車のせいで、自分のいつものペースが、つまり…予定の速さで減速し、列につく、というその流れを、阻まれた、邪魔をされた、こんな車いなくなればいい…(つまりは、世の中の縮図?なあんて)。そう、おもうかもしれない。あるいは。いつも、気を引き締めて気持ちを入れて進んでいたって、どうせそうやって、間の悪い邪魔を受けるのだから、気を抜いててきとーにいればいい。というひともあるかもしれない。だけど。もちろん、そのどちらでもない、ひとは確かにいる。(少ないけどね)。もしかしたら、徒労におわるかもしれなくても、仮にそうだとわかっていても、誇りをわすれずにいるひとが。目分量さじ加減と、気持ちのありよう。そんな、こころの空気の佇まいが、知らず知らずに、そのひとの風貌をつくっていくのだ
ろうな。むずかしいけどね。でも、だから、どうせどうせという気持ちだけでは、やっぱりちょっと寂しい。無論、かっこよさは、ほとんどのやせ我慢と、ほんのわずかの諦念の先にあるもの。…のような、気はするけどね。ともあれ。どこにいても、同じ(ような)居心地の悪さや、どうにもならない悲哀のようなものは、そこらじゅうにあるのだけれども。そのうえで、わずかでも、希望の灯がもてたらね。いいな、ってね。そしたら、ちょっとだけ、こころが豊かにいられるような気がしてね。う~ん。やっぱり、こころから想える人があるっていうのは、ほんとにほんとに大きいことなのかもしれませんね。

ある小説にあったのだけど。世間体というのは、そのひとの良心(両親じゃないよ)のことなのだそうだ。だから、大事にしなさいねって、その物語の中のおばあちゃんが孫娘にこっそりと教えるくだりのなかにでてくる。なるほど。案外身近な琴線のことなのかもしれないね。だから、そこにこそ、ものごとの大半といっていいほどの、影響力があるのかもしれない。かなしいけど。ただ。たとえば、70歳とか80歳になったとしたら、案外、飄々とできるかもね、っておもえることが、いまだと、南極で北極星を眺めることよりもむずかしい!と感じてしまうのはどうしてだべね。年月の積み重ねでしか、得られない、資格というか、容認のようなものが、あるのですかねぇ。要は、ひとにうらやましいと思われずにすむ、というただ、そのことだけに尽きる気がしないでもない気がして、いっぽうでひたすらにかなしく、いっぽうでひたすらにおそろしいような気がしますねぇ。ひとからみて、ちっともうらやましいとおもわれないかっぷるなら…。なあんて、考えるのは愚かな仮定だけど
。たしかにありますねぇ。目立たずにいられるしあわせ、というようなものが…。これは、生まれながらに、どうしようもないものもあるのですかねぇ。恵まれるということは、それだけに、たくさんの苦労を負うということでもあるのですかね。たいへんだね。だからこそ、気持ちがつながるっていうのは、はかりしれないくらいに、大きな有り難さなのでしょうね。
こころ、いつもめいろう!だったらいいのにね…。不調をきたして、少し落ち込むたびにいつも思います。からだとこころは境目なんてないのだな…って。どちらかだけが元気というのは、ないのだなって…。ときどき、落ち込むと…、お酒にも賭け事にも…、宗教にもはたまた美容や健康!?の買い物にも、まったく才のないわたしゆえ…、逃げ込む先はいつも眠りのなか…。そして、その反動の眠れぬ状態に置かれてしまう…。まぁ、お酒よりはからだへのダメージが少ない気もするけど…。3日ぐらい起きてる…というのも、はてからだにいいものやら…。

いとおしい気持ちのあるところには、自然と美味しい食事が生まれるのだ。食べるというのは、生きることの根幹なのだけどね。うーん。子どもの頃に、運を使ってしまったのだろうか…。

そんなことより、どうせ眠れぬのを口実に…、饒舌が過ぎるのもまた、ひとつのやまいの状態ではありますねぇ。あたまの中の、くよくようじうじ~のことばたちを全部吐き出したら、少しは楽になるのだろうか?これじゃあ、お酒とあるいみ変わらないみたいね…。

うーん。あんまり調子に乗りすぎても、その反動で、また落ち込んでしまいそうだ…
なにがきてもケセラセラ…に、なりたいなぁ…。どうせ生きてる間の辛抱じゃないか~。うーん、ちっとも励ましになってませんねぇ。
ともあれ。あたたかい気持ち…、いたいほど伝わってきました。ほんとにありがとう。感謝しています…
とても、後悔しないことを書けそうな心理状態ではないのだが…。ひとは、ひとは、どうしてかくもおなじあやまちをくりかえすのだろう。あと、もう少し、ほんの少し、辛抱ができていたなら…。人生は、まったくちがったものになっただろうに。あと、ほんの少しというところで、どうして、こうも短気をおこしてしまうのだろう。ひとはいつも、じぶんの視点からしかものがみえない。だから、どうしてわたしのこんなたいへんなときに…、わかってもらないのだ!と、いかりをつのらせる。しかし、結局、みなおなじ。つい、(どうせあとでいえばわかってもらえるだろう、そう安易に思ってしまう…)そして、じぶんの都合が先になってしまう。確かに仕方ない(ところもある)。しかし、じぶんが、みすてられるのがなによりつらい。だから、前もって、そんな局面には極力遭遇しまい…。と、考えなくてもいいことを心配し、そうして。じぶんひとりで、こころを捩らせ、弱らせ…。そして、あげくはろくな判断ができない。これまで、なんど、はたせぬ夢をみて、つらいおもいをし
てきたことか。どうして、学習しないのだろう。肝心なところで、自分が損する決断ばっかり…。している。まったく、ほんとに、どうしようもなく、かなしい。どうしてこうも、いつもいつも、肝心なときに素直になれぬのだろうか。なにから、そんなに逃げているのだろう。そうまでして、守りたいものはいったいなんなのか?ほんとうにそれはそんなに大事なのか?いつも、自分自身の核心から逃げている。ごまかしている。だから、肝心なところで、後悔する決断ばかりを繰りかえしている。ほんとに、なさけない。

あと、ほんの少し、あいての気持ちを想像できたら…。寄り添うことが出来たなら…。と、おもうが、それにきづくのは、いつも、たいせつなものを失ってからだ。ほんのすこしの、気遣いがきっと、大きな違いをうむのだろう。ひとつひとつは、ほんの小さなことでも。けっきょく、いえない本音がつもりつもって、気付いたときには、どうしようもないことになっている。いつも、ぶつかるまえに、避けてしまう。うまく、きもちにふたをして、本音をいわず、肝心な部分には触れずにすます、そんな習慣が知らず知らずに身についてしまっている。むろん、たいはんは、それでうまくいく。余計な、他人の醜いことばに遭わずにすむし。だから、それが、ほんとうに必要なときでさえも、習慣が勝ってしまう。ひとは、そうかんたんにかわれないのだ。現に、いったい、わたしは、存在しない空に向って、この想いをいったい、どれほど、重ねてきたことか。千回を優に超えているのに気付いて我ながら驚いた。よくもまぁ。かなしすぎますね。それにしても。占いでは、ことしが転機なのだ
とか。長年の夢を実現させる最後の周期でもあるのだとか。いずれにしても、かなしいげんじつしか、目の前にはない。ああ。これで、だれかをうらむことだけはすまい。ほんとうに、ほんとうにいきづまれば、いきるのをやめればいいのだ。ああ。それは、とてもできそうにないから、ますます、逃げ道がなくてかなしいだけなのだが。ひとは、どうして、なんど、落ち込んでもまた、同じ穴蔵にこころをおとしこんでしまうのだろう。いっそ、消えてなくなれたらいいのに…。それこそ、ほんとに身勝手だが。でも、だれにでも、いちどやにどはあるだろう。いきてるいみがさっぱりわからなくなるときが…。

なやみのあることをつげると、それは、健康だからだといわれた。確かにその通りだ。ないものねだりだ。いやというほどわかっている。わかっているが、それを、いわれて、じゃぁ、もうなにも悩むなといわれているようで、ほんとうにかなしかった。悩まずになどいられるものですか。逃げ場がないつらさは、それはそれで、とても苦しいのだ。糸の切れた凧になれたらどんなにいいかとおもう。むろん、ないものねだりの、贅沢なそれというのはわかっている。あたまではわかるが、こころでは…。ちっともわからん。わかりたくなどない。この不自由さといったらない。先祖のありがたさは、いやというほどわかるが、じゃぁ、平安時代のひとたちはどこにいったのだ?なんていうのは、屁理屈だよね。わたしの、この、どうしようもない人間の弱さからくる、この情緒不安定に巻き込まれたひとは、たしかに、とんだとばっちりだ。申し訳ない。ほっとけばいいと、たしかにおもう。それが正解だろう。そのうち、何食わぬ顔して、え?わたしそんなこと言ったっけ?、そういうかもしれ
ない。しかし、ひとは、いっぽうがいっぽうをいっぽうてきに、たすけるだけというのはむずかしい。それだと、たすけているほうが、そのうち折れてしまう。だから、無理があると感じるなら、きっとそれが答えなのだろう。自分でも、ほんとうに望んでいる状態がなになのか…、こころの声に、素直に耳を澄ませないとき…。これがいちばんつらい。もし、それに、そっと寄り添ってくれるものがあったなら…。きっと、それが、こたえなのだろう。
つれづれなるままに…、なにげない日常の機微について…、書けるといいのだけれど…。なんでしょう。いまはただ、あえて余計なことはなにもいわずに、ただ、しずかにしていたいというか…。安易にことばをつらねたくないというか…。う~ん。これを、ことばにするのはとても、むずかしい。

ひとには、どうにもあらがいようのない、流れというかさだめのようなものがあるような気は、確かにする。でも、ただ、では、ひとのちからで、どうにかなるものと、ならないものの違いはどこに生まれるのだろう?それもまた、知らず知らずのひとの意識だったりするのだろうか。いずれにしても、すべてを受け容れよう!そう、いうは易しだ。決断は、そう意識されてなされるときには、もうすでになにかがきまっているのだろうか。ともあれ。そういうことについて、安易にことばを書けない。生半可な慰めや、励ましはあまり意味をもたない、どころか、かえって、せっかくの気持ちを、その~、うまくいえないが、せっかくのものをせっかくでなくしてしまうような気がして…。つまり、そういうことで、いましばらくは、つまらぬ愚痴を書き連ねるなんて、もってほか…、そんな気がしている。

それでも、時は流れる。そして、たぶん、それでも、きっと前進はしているのだろうとおもう。う~ん。ひとは、どちらの立場もを同時に、あるいはそうでなくも、それを実感するのは難しい。もし、時代と場所がひょっとして、逆なら…、わたしがあなたで、あなたがわたしだったかも…。とは、おもうが、自分が経験していない立場を、ほんとうの意味で、実感することはできない。ただ、いっしょけんめい、想いをめぐらせるだけで…。

代われるものなら代わりたい…、そうおもうことは幾らもあるけど。それも…、たら・れば、に過ぎぬ。急がず、慌てず、無理はせず…。とは、おもうものの…。まったく、無理をしなければ…。とも、おもうし。なにがあっても、ただしずかに…、そこにいる…。見えない部分にこそ、おおきな覚悟がいるのだろうか。支えになりたい…。そのきもちは、もちろん、変わりようがないけれど…。はて、なにから、はじめたらいいものだろう…(こうして…、ことばを、しぼりだすと、ひとりでに、なみだがあふれてとまらなくなるんだな)。
(自分にさんをつけるのはおかしいかなぁ)。ともあれ。ふと、おもう。いったい、どこで、どんなふうにしているのでしょうねぇ。あいも変わらず、目まぐるしい変化のなかで、あわわ~と、ため息?、それとも…。わたし、どうするの?ときどき、そんな風にまるでひとごとみたいに、少しちゃらんぽらんに考えることで、気持ちを軽くしているというか…。まぁ、ということは、とりもなおさず、そんなおもいのなかにずぅ~っといるということなのでしょうねぇ。

ことばというのは、時折、電光石火のごとく効果覿面、めがさめるような珠玉の一石になることもあれば、あ~でもないこ~でもないと、まるで転生輪廻のごとく延々とした、時間の伴になってくれもする。


ときどき、ふと、そんな風に、先のことが少しでいいから、わかったらどんなにか楽だろうなぁ~、とおもうけれども。わからないから、なにくわぬかおして生きられるのですかねぇ~。願うとは、ときに、ちょっとだけ苦しいものでもあるようですねぇ。ありのままに、しぬまではいきてるこのいのち…(あたりまえか…)。うう。時間のおもさはいかんともしがたく、がゆえに、あるようにあれる!ということなのかなぁ~。ふ~。どうしたらいいのかなぁ?なあんて。うう。やっぱり、たいへんだ。いきるのって…。そんな気がする。
なにかが。おそらくしぜんに。ふいに、でも、たしかに。それは、そういうときなのだろうな…。あるとき、なんだか、ふわふわ~っと、こころのなかが、腑に落ちる!?というとおかしいかなぁ。ともあれ。ともかく。いいかえると、覚悟だろうか。それまで、きもちの奥のほうで、ずっ~っと、眠っていたものが、ふわふわっ~と、ことばとなって、おもてにでてくるというか…。つまりは、そんな、こころの転機、いや、こころがきまるとき、というのがあるのかもしれない。もちろん、それで、目の前の何かがすぐにどうにか変わるわけではないのだけれど。それでも。これは、大きな違いだ。ず~っと、なにかを決めあぐねていたこころのなかの、その部分がすう~っと、なくなるというのいうのは。むろん、それが、おもいどおりになるかどうかはまた別だろうが、でも、きもちがしっかりするというのは、とても、大きな支えがこころにうまれたみたいで、こころが軽くなる。そして、たぶん、つよくもなる。よし。わたしは、こうしたい。だから、そのための努力をしよう。そ
う、決まると、不思議と、元気が、きっかけが、生まれる気がする。できるだけの最善を尽くそう、そうおもう。むろん、あせらずに…。

ところで。ごるふだが。かつて。どうしてわたしは、急いで始めてしまったのだろう。はやく、始めてしまったら、(上手くなりたいという)後にとっておくたのしみが早くなくなってしまうではないか。そんなことを、おもいもしたが。今は違う。無論、(自分で言うのは、確かにちゃんちゃら可笑しいくて、恥ずかしいことだが)上手くなりすぎてしまうと、いろいろとたいへんだなぁ~、というのは、正直アル。だが、いったんコースに出れば、いちどでも、手を抜いて打とうとおもうことも、そうすることも決してない。ただ。スコアのために、あらゆる愉しみ、冒険を犠牲にすることだけはするまいと、堅くおもうので。ど~しても、先のことを考えない攻め方になってしまう。しかし。実はそれが愉しくてしかたがない。ときには、失敗したときのほうが、よしよし、もういっかい、面白いライで挑戦できるぞ!なんて、こころでにんまりしてしまうときさえある。だから、スコアいのちのひとが、みたら、たぶん、おそらく、理解に苦しまれることだろう。ただ。(ど~してもと言わ
れて)やれば、(たぶんだけど)もっと、いいスコアもだせるのに、一見ふざけてるみたいに、大叩き(かためうち!?)を、時折してしまうことは、コースを設計したひとや、コースに対して失礼なことなのだろうか?と、ちょっと、神妙になることは、あるのだけれど。しかし、愉しみのこころに負けてしまう。常に、ワンパット、常に、チップイン、常に、ベタピン、常に、狭い木々の隙間…、を、狙っているのだから、愉しくないわけがない。なのだけど…。わたしの打つ球を見るひとは、あがってきたスコアをみて、どうにも、頭をかしげてしまうらしい。う~ん。申し訳ない。(ついでに。醜いひとりごとだが。ときどき、確かに自分でも、『うわぁ~』と、おもってしまう。飛んでいくボールを見て…。たとえば、こっそり成功した直ドラなんて…。う~ん。ああ、それで、パターもアプローチも飛びすぎて!しまうのかなぁ…)

ときに。桜が咲きました。さくらには、なにか、れいきというか、つまりは、精霊というか…、木の“気”(?)が、ある気がして、一気に満開になったときなど…、こころの準備のないままに、出くわしてしまったりすると…、『うわぁあ~』と、こころのなかがみだれて、ことばにならない叫び声を心の中であげてしまう…。そして、なんともいえない、哀しさにおそわれる。どうしてかな?満開をみればみるほど、無常の一端を厳然とされてしまったようで…。こころが、たじろいでしまうのだろうか。ともかく。満開の花は、こころにこたえる。むろん、それも、しばらくで…。そのうち、こころが(覚悟を決め))すこし平静を取り戻すと、多少は、素直に綺麗な景色として、眺めることもできるのだけど…。さくらをみて、あと何回みられるだろうか?と、かんがえるひとが大勢居ても困るけれど。ふと、その想いに、愕然としてしまう。去年のいまごろは、そんなことをおもうゆとりさえなかったけれど。ことしは…。はて、来年は…。みられるのだろうか?そんなひとが、
あることを想うと、どうにもやりきれないおもいに包まれる。だから、常にいまを大事に。いまの気持ちを大事に。ときがきたと感じたら、おそれず、きもちをことばにして。そんなことを、考え教えられるのも、さくらのおかげ…、なのかもしれない。ほんに、塞翁我馬だ。つくづく、おもう。こころから…。