ときどき、歴史を振り返ってみたくなるのはどうしてだろう?あのときは、そう、あ~だったよねぇ。だから、そう、もし、あのタイミングがほんの少しずれていたらば、いまごろ、いったいどうしていたのかしら…。なんてね。もちろん、ひとというのは、まことに都合のいいもので、そのときどきの、自分の気分に合った(つまり、自分がひっぱりだしたいとおもうところの)、かつての光景の部分部分を、脳の映写機に写してみては、すこしだけ、しあわせな気分に浸ってみたり、あるいは、かなしみのなかに、なにかを探し出そうと、してみたり…、するものなのだろうか。
あるひとが、そのコラム(とうか、正確にはえっと、悩み相談でしょうか?つまりは、生き方の矜持なのでしょうか)で。ひとがひとを救うことなんてできないのだと、でも、ひとがひとと一緒に闘うことはできるんだって。深く、沁みました。こころに。ほんとに、そうおもいます。かたほうが、かたほうをひたすら支えるんだっていうのとは、たぶんやっぱり違うとおもうし。いろんなときがあって、いろんな部分があって、それがひとなんだし。塩野さんだって、この世に善と悪があるけれど、おなじひとのなかにも、みなそれぞれがあるんだって。そんな、当たり前のことを、でも、そうやって、ちゃんとことばにしてくれるひとがあってはじめて、ひとは、ちゃんと、当たり前のことをうけとめたり、あるいは、それでいいんだって教えられて、安堵したり…(するのでないかなぁ…)。思いや考えを言葉にするということの、たいせつが、ふかく、身に沁みる…、一週間でした。
夢は、ゆめは、かならずしも、早くかなえるためだけにあるのではない、のではないか?このごろ、ふと、そんなふうに、おもうことがある。もちろん、かなうにこしたことはないが、それに、いきとしいけるものの残り時間をおもえば、いつもいつも悠長ばかりでもいられない…、というのも、確かに道理ではあるけれど。それでもなお、なるたけ、時間をかけてもかなえたい、なにかがあるというのは、一見、自ら苦労の嵐の中に好んで入っていくように見えて、実は、気付けば、それぞれのものが生きた証のような…、そんななにものかに、もしかしたらいつか出逢えるのではないか…。そんな生き方からしか、出逢えなかった(そしてこれから出逢える)ものもあるのではないか。だれしも、自分の経験しないもの、想像の範囲を超えたものは、簡単には、評価したり、できないものであろうし。ひとは、ともすると、知らないもの、自分が関われないものを、はなから、受け付けない…、そんなところがあるけれど。だから、ひとの感覚を気にしているだけでは、気付けないもの…。そん
なものがあるのではなかろうか。(むろん、なあんていうのも、かくなるわたしの感覚を、自分自身で精一杯励ましているのではあるけれど…^^;)。
気骨について、話された、城山さんとの対話のなかに、ほんとに、胸を打つ幾つものフレーズがあって。これまた、このタイミングで、ふと、目に飛び込んできたことに、縁にもにた、奇遇を少し驚いてもいる。城山さんというと、祈りの旅路を描いたあの物語を、どうしても思い出さずにはいられないけれど。不思議なことは、確かに起こる。だれにも説明のできないような、そんな…。(もしかしたら、物語というのは、それに気付けるかどうかで、実は、いつでもそこに、あるのかもしれない。もちろん、だれのそばにも…)。不思議な流れと、不思議な縁で、その神社に行ったのだった。友のふたりがお払いを受けるのに、社殿に行っている間、(まぁ、お払いしてもらう余裕がなかったのもあったけど、ひとりで、境内で佇みたい、それもあった)、どこをどう歩くでもなく…、いや、ほとんどひとりになった途端、といってもいい。気付くと目の前に、それはそれは大きなへびさんがね、いたんです。境内の片隅の、大きな杉の近くでした。それも、突然に現れたみたいに足元に居て…
。それなのに、その刹那、なぜか、ほんとになぜか、「おや」っとおもっただけで、全くびっくりしてない自分に自分で驚いてた。
いつかの、かえるくんではないが、これまたサムの化身とおもったような…、そうでもないような。まるで、一緒にここにやってきて、身内としてそこにいるような…、そんな感覚。それでも、その時点では、なんともおもっておらず。しばらく、その杉の木陰に向って一緒に歩くような恰好になって、わたしがそのまま、境内の境をこえて、せせらぎの聞こえるほうに足を向けると、へびさんは、杉の根元で立ち止まり、じっ~と、わたしを見送るような恰好になった。それも、見詰め合ったまま…。思えば、へびさんと目を合わせることなんてこれまであったっけ。それでもまだ、なあんにもおもってないわたし。なにしろ、3日近く眠っておらず、すっかり疲労困憊してたんだろうな。どこか、夢の中のようでもあったから。その出来事を、ほんの少し、落ち着いて振り返ることができたのは、少し経ってから。帰って、しばらくぶりに少し眠って…。そして、翌日、まるで、憑き物がおちたみたいに、それまで堅かった部分がこころなしか柔らかくなって…。そして、それが、実際になんで
もないとわかって…。あのときもし、へびさんに出逢えてなかったら、もしかして、堅いまま…、黒い画像になって現れていたのだろうか…。なああんて、おもうけど、まんざら、ありえないことでもないのかもしれないとも、おもって、ひとり、深く、沁み入った…。そんな出来事だった。やっぱりひとは、みえないなにか、みえないだれかにたくさん助けられて、いるのかもしれない。好調なときは、そんなこと、みじんも思い出せたりしないけれど…。
エリックさんの、wonderful tonightを聴くと、なんだか、むしょ~に、煙草を吸ってみたくなる…。あれは、どうしてでしょうね。(もっとも、ほんとの愉しみはできるだけ、しないであとにとっておきたい、オヘソ曲がりのわたしは、ほんとにほんとに、よほどでないと吸ったりしませんが。というより、いや、呑みたいときには、いつもとうの、昔に封を切った箱しかなくて…。たいていはあきらめるのだけど…)。たまには、ここらで、ほんとにしたいことから、躊躇わないで、一歩を踏み出してみようかなぁ。蛇さんは、そんなことも、教えてくれた。そんな気もする。
あるひとが、そのコラム(とうか、正確にはえっと、悩み相談でしょうか?つまりは、生き方の矜持なのでしょうか)で。ひとがひとを救うことなんてできないのだと、でも、ひとがひとと一緒に闘うことはできるんだって。深く、沁みました。こころに。ほんとに、そうおもいます。かたほうが、かたほうをひたすら支えるんだっていうのとは、たぶんやっぱり違うとおもうし。いろんなときがあって、いろんな部分があって、それがひとなんだし。塩野さんだって、この世に善と悪があるけれど、おなじひとのなかにも、みなそれぞれがあるんだって。そんな、当たり前のことを、でも、そうやって、ちゃんとことばにしてくれるひとがあってはじめて、ひとは、ちゃんと、当たり前のことをうけとめたり、あるいは、それでいいんだって教えられて、安堵したり…(するのでないかなぁ…)。思いや考えを言葉にするということの、たいせつが、ふかく、身に沁みる…、一週間でした。
夢は、ゆめは、かならずしも、早くかなえるためだけにあるのではない、のではないか?このごろ、ふと、そんなふうに、おもうことがある。もちろん、かなうにこしたことはないが、それに、いきとしいけるものの残り時間をおもえば、いつもいつも悠長ばかりでもいられない…、というのも、確かに道理ではあるけれど。それでもなお、なるたけ、時間をかけてもかなえたい、なにかがあるというのは、一見、自ら苦労の嵐の中に好んで入っていくように見えて、実は、気付けば、それぞれのものが生きた証のような…、そんななにものかに、もしかしたらいつか出逢えるのではないか…。そんな生き方からしか、出逢えなかった(そしてこれから出逢える)ものもあるのではないか。だれしも、自分の経験しないもの、想像の範囲を超えたものは、簡単には、評価したり、できないものであろうし。ひとは、ともすると、知らないもの、自分が関われないものを、はなから、受け付けない…、そんなところがあるけれど。だから、ひとの感覚を気にしているだけでは、気付けないもの…。そん
なものがあるのではなかろうか。(むろん、なあんていうのも、かくなるわたしの感覚を、自分自身で精一杯励ましているのではあるけれど…^^;)。
気骨について、話された、城山さんとの対話のなかに、ほんとに、胸を打つ幾つものフレーズがあって。これまた、このタイミングで、ふと、目に飛び込んできたことに、縁にもにた、奇遇を少し驚いてもいる。城山さんというと、祈りの旅路を描いたあの物語を、どうしても思い出さずにはいられないけれど。不思議なことは、確かに起こる。だれにも説明のできないような、そんな…。(もしかしたら、物語というのは、それに気付けるかどうかで、実は、いつでもそこに、あるのかもしれない。もちろん、だれのそばにも…)。不思議な流れと、不思議な縁で、その神社に行ったのだった。友のふたりがお払いを受けるのに、社殿に行っている間、(まぁ、お払いしてもらう余裕がなかったのもあったけど、ひとりで、境内で佇みたい、それもあった)、どこをどう歩くでもなく…、いや、ほとんどひとりになった途端、といってもいい。気付くと目の前に、それはそれは大きなへびさんがね、いたんです。境内の片隅の、大きな杉の近くでした。それも、突然に現れたみたいに足元に居て…
。それなのに、その刹那、なぜか、ほんとになぜか、「おや」っとおもっただけで、全くびっくりしてない自分に自分で驚いてた。
いつかの、かえるくんではないが、これまたサムの化身とおもったような…、そうでもないような。まるで、一緒にここにやってきて、身内としてそこにいるような…、そんな感覚。それでも、その時点では、なんともおもっておらず。しばらく、その杉の木陰に向って一緒に歩くような恰好になって、わたしがそのまま、境内の境をこえて、せせらぎの聞こえるほうに足を向けると、へびさんは、杉の根元で立ち止まり、じっ~と、わたしを見送るような恰好になった。それも、見詰め合ったまま…。思えば、へびさんと目を合わせることなんてこれまであったっけ。それでもまだ、なあんにもおもってないわたし。なにしろ、3日近く眠っておらず、すっかり疲労困憊してたんだろうな。どこか、夢の中のようでもあったから。その出来事を、ほんの少し、落ち着いて振り返ることができたのは、少し経ってから。帰って、しばらくぶりに少し眠って…。そして、翌日、まるで、憑き物がおちたみたいに、それまで堅かった部分がこころなしか柔らかくなって…。そして、それが、実際になんで
もないとわかって…。あのときもし、へびさんに出逢えてなかったら、もしかして、堅いまま…、黒い画像になって現れていたのだろうか…。なああんて、おもうけど、まんざら、ありえないことでもないのかもしれないとも、おもって、ひとり、深く、沁み入った…。そんな出来事だった。やっぱりひとは、みえないなにか、みえないだれかにたくさん助けられて、いるのかもしれない。好調なときは、そんなこと、みじんも思い出せたりしないけれど…。
エリックさんの、wonderful tonightを聴くと、なんだか、むしょ~に、煙草を吸ってみたくなる…。あれは、どうしてでしょうね。(もっとも、ほんとの愉しみはできるだけ、しないであとにとっておきたい、オヘソ曲がりのわたしは、ほんとにほんとに、よほどでないと吸ったりしませんが。というより、いや、呑みたいときには、いつもとうの、昔に封を切った箱しかなくて…。たいていはあきらめるのだけど…)。たまには、ここらで、ほんとにしたいことから、躊躇わないで、一歩を踏み出してみようかなぁ。蛇さんは、そんなことも、教えてくれた。そんな気もする。