とても、後悔しないことを書けそうな心理状態ではないのだが…。ひとは、ひとは、どうしてかくもおなじあやまちをくりかえすのだろう。あと、もう少し、ほんの少し、辛抱ができていたなら…。人生は、まったくちがったものになっただろうに。あと、ほんの少しというところで、どうして、こうも短気をおこしてしまうのだろう。ひとはいつも、じぶんの視点からしかものがみえない。だから、どうしてわたしのこんなたいへんなときに…、わかってもらないのだ!と、いかりをつのらせる。しかし、結局、みなおなじ。つい、(どうせあとでいえばわかってもらえるだろう、そう安易に思ってしまう…)そして、じぶんの都合が先になってしまう。確かに仕方ない(ところもある)。しかし、じぶんが、みすてられるのがなによりつらい。だから、前もって、そんな局面には極力遭遇しまい…。と、考えなくてもいいことを心配し、そうして。じぶんひとりで、こころを捩らせ、弱らせ…。そして、あげくはろくな判断ができない。これまで、なんど、はたせぬ夢をみて、つらいおもいをし
てきたことか。どうして、学習しないのだろう。肝心なところで、自分が損する決断ばっかり…。している。まったく、ほんとに、どうしようもなく、かなしい。どうしてこうも、いつもいつも、肝心なときに素直になれぬのだろうか。なにから、そんなに逃げているのだろう。そうまでして、守りたいものはいったいなんなのか?ほんとうにそれはそんなに大事なのか?いつも、自分自身の核心から逃げている。ごまかしている。だから、肝心なところで、後悔する決断ばかりを繰りかえしている。ほんとに、なさけない。
あと、ほんの少し、あいての気持ちを想像できたら…。寄り添うことが出来たなら…。と、おもうが、それにきづくのは、いつも、たいせつなものを失ってからだ。ほんのすこしの、気遣いがきっと、大きな違いをうむのだろう。ひとつひとつは、ほんの小さなことでも。けっきょく、いえない本音がつもりつもって、気付いたときには、どうしようもないことになっている。いつも、ぶつかるまえに、避けてしまう。うまく、きもちにふたをして、本音をいわず、肝心な部分には触れずにすます、そんな習慣が知らず知らずに身についてしまっている。むろん、たいはんは、それでうまくいく。余計な、他人の醜いことばに遭わずにすむし。だから、それが、ほんとうに必要なときでさえも、習慣が勝ってしまう。ひとは、そうかんたんにかわれないのだ。現に、いったい、わたしは、存在しない空に向って、この想いをいったい、どれほど、重ねてきたことか。千回を優に超えているのに気付いて我ながら驚いた。よくもまぁ。かなしすぎますね。それにしても。占いでは、ことしが転機なのだ
とか。長年の夢を実現させる最後の周期でもあるのだとか。いずれにしても、かなしいげんじつしか、目の前にはない。ああ。これで、だれかをうらむことだけはすまい。ほんとうに、ほんとうにいきづまれば、いきるのをやめればいいのだ。ああ。それは、とてもできそうにないから、ますます、逃げ道がなくてかなしいだけなのだが。ひとは、どうして、なんど、落ち込んでもまた、同じ穴蔵にこころをおとしこんでしまうのだろう。いっそ、消えてなくなれたらいいのに…。それこそ、ほんとに身勝手だが。でも、だれにでも、いちどやにどはあるだろう。いきてるいみがさっぱりわからなくなるときが…。
なやみのあることをつげると、それは、健康だからだといわれた。確かにその通りだ。ないものねだりだ。いやというほどわかっている。わかっているが、それを、いわれて、じゃぁ、もうなにも悩むなといわれているようで、ほんとうにかなしかった。悩まずになどいられるものですか。逃げ場がないつらさは、それはそれで、とても苦しいのだ。糸の切れた凧になれたらどんなにいいかとおもう。むろん、ないものねだりの、贅沢なそれというのはわかっている。あたまではわかるが、こころでは…。ちっともわからん。わかりたくなどない。この不自由さといったらない。先祖のありがたさは、いやというほどわかるが、じゃぁ、平安時代のひとたちはどこにいったのだ?なんていうのは、屁理屈だよね。わたしの、この、どうしようもない人間の弱さからくる、この情緒不安定に巻き込まれたひとは、たしかに、とんだとばっちりだ。申し訳ない。ほっとけばいいと、たしかにおもう。それが正解だろう。そのうち、何食わぬ顔して、え?わたしそんなこと言ったっけ?、そういうかもしれ
ない。しかし、ひとは、いっぽうがいっぽうをいっぽうてきに、たすけるだけというのはむずかしい。それだと、たすけているほうが、そのうち折れてしまう。だから、無理があると感じるなら、きっとそれが答えなのだろう。自分でも、ほんとうに望んでいる状態がなになのか…、こころの声に、素直に耳を澄ませないとき…。これがいちばんつらい。もし、それに、そっと寄り添ってくれるものがあったなら…。きっと、それが、こたえなのだろう。
てきたことか。どうして、学習しないのだろう。肝心なところで、自分が損する決断ばっかり…。している。まったく、ほんとに、どうしようもなく、かなしい。どうしてこうも、いつもいつも、肝心なときに素直になれぬのだろうか。なにから、そんなに逃げているのだろう。そうまでして、守りたいものはいったいなんなのか?ほんとうにそれはそんなに大事なのか?いつも、自分自身の核心から逃げている。ごまかしている。だから、肝心なところで、後悔する決断ばかりを繰りかえしている。ほんとに、なさけない。
あと、ほんの少し、あいての気持ちを想像できたら…。寄り添うことが出来たなら…。と、おもうが、それにきづくのは、いつも、たいせつなものを失ってからだ。ほんのすこしの、気遣いがきっと、大きな違いをうむのだろう。ひとつひとつは、ほんの小さなことでも。けっきょく、いえない本音がつもりつもって、気付いたときには、どうしようもないことになっている。いつも、ぶつかるまえに、避けてしまう。うまく、きもちにふたをして、本音をいわず、肝心な部分には触れずにすます、そんな習慣が知らず知らずに身についてしまっている。むろん、たいはんは、それでうまくいく。余計な、他人の醜いことばに遭わずにすむし。だから、それが、ほんとうに必要なときでさえも、習慣が勝ってしまう。ひとは、そうかんたんにかわれないのだ。現に、いったい、わたしは、存在しない空に向って、この想いをいったい、どれほど、重ねてきたことか。千回を優に超えているのに気付いて我ながら驚いた。よくもまぁ。かなしすぎますね。それにしても。占いでは、ことしが転機なのだ
とか。長年の夢を実現させる最後の周期でもあるのだとか。いずれにしても、かなしいげんじつしか、目の前にはない。ああ。これで、だれかをうらむことだけはすまい。ほんとうに、ほんとうにいきづまれば、いきるのをやめればいいのだ。ああ。それは、とてもできそうにないから、ますます、逃げ道がなくてかなしいだけなのだが。ひとは、どうして、なんど、落ち込んでもまた、同じ穴蔵にこころをおとしこんでしまうのだろう。いっそ、消えてなくなれたらいいのに…。それこそ、ほんとに身勝手だが。でも、だれにでも、いちどやにどはあるだろう。いきてるいみがさっぱりわからなくなるときが…。
なやみのあることをつげると、それは、健康だからだといわれた。確かにその通りだ。ないものねだりだ。いやというほどわかっている。わかっているが、それを、いわれて、じゃぁ、もうなにも悩むなといわれているようで、ほんとうにかなしかった。悩まずになどいられるものですか。逃げ場がないつらさは、それはそれで、とても苦しいのだ。糸の切れた凧になれたらどんなにいいかとおもう。むろん、ないものねだりの、贅沢なそれというのはわかっている。あたまではわかるが、こころでは…。ちっともわからん。わかりたくなどない。この不自由さといったらない。先祖のありがたさは、いやというほどわかるが、じゃぁ、平安時代のひとたちはどこにいったのだ?なんていうのは、屁理屈だよね。わたしの、この、どうしようもない人間の弱さからくる、この情緒不安定に巻き込まれたひとは、たしかに、とんだとばっちりだ。申し訳ない。ほっとけばいいと、たしかにおもう。それが正解だろう。そのうち、何食わぬ顔して、え?わたしそんなこと言ったっけ?、そういうかもしれ
ない。しかし、ひとは、いっぽうがいっぽうをいっぽうてきに、たすけるだけというのはむずかしい。それだと、たすけているほうが、そのうち折れてしまう。だから、無理があると感じるなら、きっとそれが答えなのだろう。自分でも、ほんとうに望んでいる状態がなになのか…、こころの声に、素直に耳を澄ませないとき…。これがいちばんつらい。もし、それに、そっと寄り添ってくれるものがあったなら…。きっと、それが、こたえなのだろう。