たとえば、さじ加減と目分量。このことは、おそらく、ひとが生きてく道の中で(ちょっと大袈裟だけど)、そのおりおりに、案外とてもおおきなものなのかもしれない。つまり、おなじように時の流れを(消費する)中にあっても、ふとしたなにかに、きづけるのとそうでないひととと…。そのちいさなひとつひとつの積み重ねが、いつしか、おおきな違いになってしまうように…。いつでも、どこでも、なにかに気付ける、というのは、とてもおおきなことなのかもしれない。で、なにが匙加減(些事甘言ではないですよ)で、目分量かというと…。文字通り、料理の局面だけでなくて…。日ごろの生活の中で、ものをどんなふうに扱い、どんなふうに接しているか…、といったような…。まぁ、そんなこと。つまり、たぶんだけど、料理が上手な人(というより、自然に美味しいものができるひと=まぁ。愛にあふれたひと!という意味でもあるけどね。ともあれ)というのは、それらの、加減がいいかげん(いい加減というのは、良い按配といういみに通じるのではないかなぁ。)なのだろ
う。たとえば。偶然にまかせる裁量とか、ゆとりもあるといったような…。まぁ、見方を変えれば確かに文字通りのいい加減(大雑把)ということにもなりかねないけど。でも、なんというか、余所行きの、ここにはないだれかの指標(それもそのひとが勝手に作っているものだが)、体裁を整えることにばかり、気をとられるのではなくて、要所要所で、自分の感覚を信じてものを行うというような…。
そんなことを、いつものようにホットケーキを焼きながら、ふとつらつらと考えていた。なんというか、勘どころというか、つまりは、感性のようなもの。たとえば、材料の分量加減や、火加減や、そして、焼く時間の感覚…。のようなもの。ゴルフで言うと、打った瞬間に、飛んだボールがどんな回転で、どこへ着地するかが、ある程度イメージできるような、(無論、打つ前に理想の形をちゃんとイメージしているわけだけど。かりに、そのとおりかなくても、その現実から目をそむけるのではなくて、どこにどんな風に飛んでいくかを、ちゃんと見届けることができる能力、というか、才覚というか…。まぁ、大袈裟に書いてるけどね)つまり、そういう感覚と、ふれあうことができるというような…。なあんて。要するに、なんとなく、感覚でホットケーキの焼き具合がイメージできるって、案外なにごとにも、通じるところがあるんじゃないかなぁ…。って、ちょっと大袈裟に考えてみただけなのだけど。そして、ひとは、だれと一緒にいるかで、たぶん、おそらく、(運)気も全然違っ
てくるのだろうなって。たとえ、何かと割り切って、さして、こころを開かずにいたとしても。やっぱり、同じ食事をしたりするうちに、互いの影響は受けるだろうし。いや、だから、いいとかわるいとか、そういうことではなくって。積み重ねた時間は決して、無ではないのだろう。だが、しかし、同時にいえるのは、これから先にやって来る時間も、それとおなじくらい、いやたぶん、それ以上に大きいのかもしれないね。ひとはとかく、そのことを、うっかり忘れてしまうけれども。
たとえば、道を走っていて、空いているところに合流し、でも、その先の信号が赤だから、あえてさほどアクセルは踏まず、そろそろと、信号待ちにの列につく。ありふれた光景だが、それでも、後ろからその車に近づいてくる車の中には、前に入ってきた車のせいで、自分のいつものペースが、つまり…予定の速さで減速し、列につく、というその流れを、阻まれた、邪魔をされた、こんな車いなくなればいい…(つまりは、世の中の縮図?なあんて)。そう、おもうかもしれない。あるいは。いつも、気を引き締めて気持ちを入れて進んでいたって、どうせそうやって、間の悪い邪魔を受けるのだから、気を抜いててきとーにいればいい。というひともあるかもしれない。だけど。もちろん、そのどちらでもない、ひとは確かにいる。(少ないけどね)。もしかしたら、徒労におわるかもしれなくても、仮にそうだとわかっていても、誇りをわすれずにいるひとが。目分量さじ加減と、気持ちのありよう。そんな、こころの空気の佇まいが、知らず知らずに、そのひとの風貌をつくっていくのだ
ろうな。むずかしいけどね。でも、だから、どうせどうせという気持ちだけでは、やっぱりちょっと寂しい。無論、かっこよさは、ほとんどのやせ我慢と、ほんのわずかの諦念の先にあるもの。…のような、気はするけどね。ともあれ。どこにいても、同じ(ような)居心地の悪さや、どうにもならない悲哀のようなものは、そこらじゅうにあるのだけれども。そのうえで、わずかでも、希望の灯がもてたらね。いいな、ってね。そしたら、ちょっとだけ、こころが豊かにいられるような気がしてね。う~ん。やっぱり、こころから想える人があるっていうのは、ほんとにほんとに大きいことなのかもしれませんね。
ある小説にあったのだけど。世間体というのは、そのひとの良心(両親じゃないよ)のことなのだそうだ。だから、大事にしなさいねって、その物語の中のおばあちゃんが孫娘にこっそりと教えるくだりのなかにでてくる。なるほど。案外身近な琴線のことなのかもしれないね。だから、そこにこそ、ものごとの大半といっていいほどの、影響力があるのかもしれない。かなしいけど。ただ。たとえば、70歳とか80歳になったとしたら、案外、飄々とできるかもね、っておもえることが、いまだと、南極で北極星を眺めることよりもむずかしい!と感じてしまうのはどうしてだべね。年月の積み重ねでしか、得られない、資格というか、容認のようなものが、あるのですかねぇ。要は、ひとにうらやましいと思われずにすむ、というただ、そのことだけに尽きる気がしないでもない気がして、いっぽうでひたすらにかなしく、いっぽうでひたすらにおそろしいような気がしますねぇ。ひとからみて、ちっともうらやましいとおもわれないかっぷるなら…。なあんて、考えるのは愚かな仮定だけど
。たしかにありますねぇ。目立たずにいられるしあわせ、というようなものが…。これは、生まれながらに、どうしようもないものもあるのですかねぇ。恵まれるということは、それだけに、たくさんの苦労を負うということでもあるのですかね。たいへんだね。だからこそ、気持ちがつながるっていうのは、はかりしれないくらいに、大きな有り難さなのでしょうね。
う。たとえば。偶然にまかせる裁量とか、ゆとりもあるといったような…。まぁ、見方を変えれば確かに文字通りのいい加減(大雑把)ということにもなりかねないけど。でも、なんというか、余所行きの、ここにはないだれかの指標(それもそのひとが勝手に作っているものだが)、体裁を整えることにばかり、気をとられるのではなくて、要所要所で、自分の感覚を信じてものを行うというような…。
そんなことを、いつものようにホットケーキを焼きながら、ふとつらつらと考えていた。なんというか、勘どころというか、つまりは、感性のようなもの。たとえば、材料の分量加減や、火加減や、そして、焼く時間の感覚…。のようなもの。ゴルフで言うと、打った瞬間に、飛んだボールがどんな回転で、どこへ着地するかが、ある程度イメージできるような、(無論、打つ前に理想の形をちゃんとイメージしているわけだけど。かりに、そのとおりかなくても、その現実から目をそむけるのではなくて、どこにどんな風に飛んでいくかを、ちゃんと見届けることができる能力、というか、才覚というか…。まぁ、大袈裟に書いてるけどね)つまり、そういう感覚と、ふれあうことができるというような…。なあんて。要するに、なんとなく、感覚でホットケーキの焼き具合がイメージできるって、案外なにごとにも、通じるところがあるんじゃないかなぁ…。って、ちょっと大袈裟に考えてみただけなのだけど。そして、ひとは、だれと一緒にいるかで、たぶん、おそらく、(運)気も全然違っ
てくるのだろうなって。たとえ、何かと割り切って、さして、こころを開かずにいたとしても。やっぱり、同じ食事をしたりするうちに、互いの影響は受けるだろうし。いや、だから、いいとかわるいとか、そういうことではなくって。積み重ねた時間は決して、無ではないのだろう。だが、しかし、同時にいえるのは、これから先にやって来る時間も、それとおなじくらい、いやたぶん、それ以上に大きいのかもしれないね。ひとはとかく、そのことを、うっかり忘れてしまうけれども。
たとえば、道を走っていて、空いているところに合流し、でも、その先の信号が赤だから、あえてさほどアクセルは踏まず、そろそろと、信号待ちにの列につく。ありふれた光景だが、それでも、後ろからその車に近づいてくる車の中には、前に入ってきた車のせいで、自分のいつものペースが、つまり…予定の速さで減速し、列につく、というその流れを、阻まれた、邪魔をされた、こんな車いなくなればいい…(つまりは、世の中の縮図?なあんて)。そう、おもうかもしれない。あるいは。いつも、気を引き締めて気持ちを入れて進んでいたって、どうせそうやって、間の悪い邪魔を受けるのだから、気を抜いててきとーにいればいい。というひともあるかもしれない。だけど。もちろん、そのどちらでもない、ひとは確かにいる。(少ないけどね)。もしかしたら、徒労におわるかもしれなくても、仮にそうだとわかっていても、誇りをわすれずにいるひとが。目分量さじ加減と、気持ちのありよう。そんな、こころの空気の佇まいが、知らず知らずに、そのひとの風貌をつくっていくのだ
ろうな。むずかしいけどね。でも、だから、どうせどうせという気持ちだけでは、やっぱりちょっと寂しい。無論、かっこよさは、ほとんどのやせ我慢と、ほんのわずかの諦念の先にあるもの。…のような、気はするけどね。ともあれ。どこにいても、同じ(ような)居心地の悪さや、どうにもならない悲哀のようなものは、そこらじゅうにあるのだけれども。そのうえで、わずかでも、希望の灯がもてたらね。いいな、ってね。そしたら、ちょっとだけ、こころが豊かにいられるような気がしてね。う~ん。やっぱり、こころから想える人があるっていうのは、ほんとにほんとに大きいことなのかもしれませんね。
ある小説にあったのだけど。世間体というのは、そのひとの良心(両親じゃないよ)のことなのだそうだ。だから、大事にしなさいねって、その物語の中のおばあちゃんが孫娘にこっそりと教えるくだりのなかにでてくる。なるほど。案外身近な琴線のことなのかもしれないね。だから、そこにこそ、ものごとの大半といっていいほどの、影響力があるのかもしれない。かなしいけど。ただ。たとえば、70歳とか80歳になったとしたら、案外、飄々とできるかもね、っておもえることが、いまだと、南極で北極星を眺めることよりもむずかしい!と感じてしまうのはどうしてだべね。年月の積み重ねでしか、得られない、資格というか、容認のようなものが、あるのですかねぇ。要は、ひとにうらやましいと思われずにすむ、というただ、そのことだけに尽きる気がしないでもない気がして、いっぽうでひたすらにかなしく、いっぽうでひたすらにおそろしいような気がしますねぇ。ひとからみて、ちっともうらやましいとおもわれないかっぷるなら…。なあんて、考えるのは愚かな仮定だけど
。たしかにありますねぇ。目立たずにいられるしあわせ、というようなものが…。これは、生まれながらに、どうしようもないものもあるのですかねぇ。恵まれるということは、それだけに、たくさんの苦労を負うということでもあるのですかね。たいへんだね。だからこそ、気持ちがつながるっていうのは、はかりしれないくらいに、大きな有り難さなのでしょうね。