ピンチのあとにはなんとかで、チャンスのあとにはなんとかで…。そういえるのは、ピンチが、ある程度なんとかなったときであって、そうでないときに、そんなことばは、ちっとも慰めなんかになってくれない。それどころか、わるいことがおこるたびに、こころのどこかで、よ~し、これで、あとでやってくるいいことが、きっと倍になったぞ!!なんて、おもったりしてしまっている、自分が、いっぽうで、とんだばかやろーだともおもう。つまりは、こころは、ちりぢりになるのだ。でも、ともあれ、結局、何をいわれよーと、ほんとにしんどいときは、どんなことでも、そうおもうことで、少しでもこころが元気を回復できるなら、それでいいじゃないか、ひとまず、そのあとのことなんて、おいておかないと、目の前のことに立ち向かえるかぁ~、なあんて、おもってしまうのだ。
こんなときでもまだ、どこかで、やせ我慢して、必死で、少しでもつらいおもいを、周りに伝染させまいとして、よ~し、わたしえらいぞ~って、おもってる自分が、ほんとにばかやろーだっておもうよ。ほんと。ほんとに、ばかみたいだって、わかるけど、でも、かんたんに(ことの道理?を)わかってやるもんかぁ~って、も、おもうんだな。おんなは、こうして、なにかあるたびに、こころおきなく、ことばにして、こっそり泣いちゃうことで、いくらかでも、胸に詰まったなにかを、軽くできるもんね。(ほら、まだ、がんばろうとしているのが、ああばかってね。)ともあれ、想いは、ときに、回転木馬みたいにかなしくて(すぐそばにいても、決して追いつくことのない間隔でしょ?)、そして、まるで、ミックスジュースを作るミキサーのなかみたいに、(こころを)かき回せばまわすほど、ぐちゃぐちゃになってしまう…。ひどいたとえだね。
それでも、ひとには、いきるささえみたいなものが、やっぱり確かに必要で。それは、ときとして、目に見るものより、目に見えないものであるからこそ、なにものにも代えがたい支えになり、誇りにもなる。しかし、同時に、背にハラはかえられぬで、目に見える基盤があって、はじめて具体的な生活が進む…、のも、また然りだ。だから、その両方を同じくらい充実して得ることは、たぶん、そりゃあ。かみさまが、やきもちやいてだめでしょう?って、ことになるのかなぁ。わからんけど。ひとは、仮にはたからみて、どんな風に見えたとしても、それぞれに、どうしようもないジレンマや葛藤を抱えている(のだろう。たぶんね)。だから、かんたんに、評価することなんて、とてもできない。けれども、それが(つまりは壁が)、多少なりとも…あるから…、ときに、踏ん張ったり、歯を食いしばったりできるのも、事実(じじつってことばは、なんだか、これいじょう何もいえない…って、響きになってちょっとやだね。つかっておいて言うのもなんだけど)。
やっぱり、いいことも、そうでないことも、いずれにしても、しばらくそれを忘れる時間…、っていうのは、たいせつなんだろね。ほんのつかの間、ほかのことに気をとられていることで、悩みをいったん、こころから解放できる。それは、逃げるってんじゃなくて、たぶん、ちょっと、やすませとくって感じで。ものは、とりようだ。どうしようもないかなしさだって、こころに鍵をかけて、自分勝手の芽をつかの間無理やり大きくすれば、それはそれで、自由なんだから、まだ、あらゆる可能性があるんだから…、って、自分のこころを誤魔化す(だけじゃないかもしれない。これは、究極自分自身でも分からないのかもしれない。表層神経は、そんな慰めなんか、なんのたしにもなんないや~いって、おもってはいるけど。)ことができる…か…も、しれないし。願いは、それが大きければ大きいほど、あんまり願いすぎてはいけないのかもしれない。なあんて、やっぱり苦しいときの神頼みなのかもしれません。これは、どうしようもない事実!なんだろな。うう。やっぱり、どっちに
しても、すこし、いや、すこしいじょうに、つらいね(ここでも、すこしっていうのは、いっぱいっていう意味になってしまいます~)。
進むもなんとか、とどまるもなんとか?
持久戦なんていやだけど~、それのない人生なんてどこにもないよね
がんばってみる?
あと少し…
案外、ほんとうの大事は、ほんの一秒、あるいは、ほんの小さなきっかけで、コタエがすっかり変わってしまうのかもしれないね
無論、やっぱり健康でいないと何も始まらないし…
たぶんね
あ~、どうしよう?
こんなときでもまだ、どこかで、やせ我慢して、必死で、少しでもつらいおもいを、周りに伝染させまいとして、よ~し、わたしえらいぞ~って、おもってる自分が、ほんとにばかやろーだっておもうよ。ほんと。ほんとに、ばかみたいだって、わかるけど、でも、かんたんに(ことの道理?を)わかってやるもんかぁ~って、も、おもうんだな。おんなは、こうして、なにかあるたびに、こころおきなく、ことばにして、こっそり泣いちゃうことで、いくらかでも、胸に詰まったなにかを、軽くできるもんね。(ほら、まだ、がんばろうとしているのが、ああばかってね。)ともあれ、想いは、ときに、回転木馬みたいにかなしくて(すぐそばにいても、決して追いつくことのない間隔でしょ?)、そして、まるで、ミックスジュースを作るミキサーのなかみたいに、(こころを)かき回せばまわすほど、ぐちゃぐちゃになってしまう…。ひどいたとえだね。
それでも、ひとには、いきるささえみたいなものが、やっぱり確かに必要で。それは、ときとして、目に見るものより、目に見えないものであるからこそ、なにものにも代えがたい支えになり、誇りにもなる。しかし、同時に、背にハラはかえられぬで、目に見える基盤があって、はじめて具体的な生活が進む…、のも、また然りだ。だから、その両方を同じくらい充実して得ることは、たぶん、そりゃあ。かみさまが、やきもちやいてだめでしょう?って、ことになるのかなぁ。わからんけど。ひとは、仮にはたからみて、どんな風に見えたとしても、それぞれに、どうしようもないジレンマや葛藤を抱えている(のだろう。たぶんね)。だから、かんたんに、評価することなんて、とてもできない。けれども、それが(つまりは壁が)、多少なりとも…あるから…、ときに、踏ん張ったり、歯を食いしばったりできるのも、事実(じじつってことばは、なんだか、これいじょう何もいえない…って、響きになってちょっとやだね。つかっておいて言うのもなんだけど)。
やっぱり、いいことも、そうでないことも、いずれにしても、しばらくそれを忘れる時間…、っていうのは、たいせつなんだろね。ほんのつかの間、ほかのことに気をとられていることで、悩みをいったん、こころから解放できる。それは、逃げるってんじゃなくて、たぶん、ちょっと、やすませとくって感じで。ものは、とりようだ。どうしようもないかなしさだって、こころに鍵をかけて、自分勝手の芽をつかの間無理やり大きくすれば、それはそれで、自由なんだから、まだ、あらゆる可能性があるんだから…、って、自分のこころを誤魔化す(だけじゃないかもしれない。これは、究極自分自身でも分からないのかもしれない。表層神経は、そんな慰めなんか、なんのたしにもなんないや~いって、おもってはいるけど。)ことができる…か…も、しれないし。願いは、それが大きければ大きいほど、あんまり願いすぎてはいけないのかもしれない。なあんて、やっぱり苦しいときの神頼みなのかもしれません。これは、どうしようもない事実!なんだろな。うう。やっぱり、どっちに
しても、すこし、いや、すこしいじょうに、つらいね(ここでも、すこしっていうのは、いっぱいっていう意味になってしまいます~)。
進むもなんとか、とどまるもなんとか?
持久戦なんていやだけど~、それのない人生なんてどこにもないよね
がんばってみる?
あと少し…
案外、ほんとうの大事は、ほんの一秒、あるいは、ほんの小さなきっかけで、コタエがすっかり変わってしまうのかもしれないね
無論、やっぱり健康でいないと何も始まらないし…
たぶんね
あ~、どうしよう?